高木彬光 古代天皇の秘密 目 次   一 神津恭介《かみづきようすけ》、三度目の入院   二 美しいアシスタント登場   三 宇佐八幡《うさはちまん》をめぐる三氏族   四 邪馬台国《やまたいこく》の秘密   五 天《あめ》の日矛《ひぼこ》の謎《なぞ》   六 九州勢力の大和入り   七 謎《なぞ》の四世紀   八 神功皇后《じんぐうこうごう》と応神天皇《おうじんてんのう》   九 歴史と神話の懸《か》け橋   十 葦原《あしはら》の中つ国の発見  十一 邪馬台国《やまたいこく》の消滅  十二 神武東征《じんむとうせい》はなかった  十三 渡来人《とらいじん》の王はいたか  十四 隼人《はやと》と熊襲《くまそ》をめぐって  十五 呪《のろ》われた蝦夷《えぞ》たち  十六 出雲族《いずもぞく》の怨念《おんねん》  十七 長髄彦《ながすねひこ》の正体   参考文献  一 神津恭介《かみづきようすけ》、三度目の入院  それは一瞬の出来事だった。  ほの暗い住宅街の脇道《わきみち》から、突然、飛び出してきた無灯火のバイクは、通りがかりの一人の痩身《ほそみ》の男の体を、いやというほど路面にたたきつけた。人身事故をおこしたにもかかわらず、この暴走車のライダーは車を止めようともしないで、さらにスピードをあげて走り去って行った。  その後から、二人の青年が息せき切って走って来た。そして、轢《ひ》き逃げされた男の姿を見つけると、すぐさま付近の家の電話を借りて救急車を呼ぶ手配をした。この二人は、通行人の手提鞄《てさげかばん》を奪った引ったくり犯人を目撃し、反射的にその後を追って来たのだった。  近所の病院に運びこまれた遭難者は、半白の頭髪をした六十歳代の半ばと思われる紳士だった。事故についての医師の質問にたいし、一つ一つ明瞭《めいりよう》に答え、少しも苦痛の様子を示さなかった。担当医の診断では、負傷は右|大腿部《だいたいぶ》と右手首の骨折で、患者の年齢からみて全治三か月の重傷ということだった。しかし、頭部の打撲や内臓の故障はないので予後の心配はいらないという。  病院としては、被害者の家族への緊急連絡をとる必要から、この男の住所・氏名をたずね、それが元東京大学医学部の法医学教室の教授であった神津恭介《かみづきようすけ》であることを知って、あらためておどろいた。 「神津先生だったのですか。お名前はかねてからうかがっております。このお怪我《けが》なのに、少しも動揺せず、落ち着いておられるので、さだめし大人物と思っておりましたが、さすがなものですね。敬服いたしました」 「お世話になります。いやはや、とっさのことで身をかわすこともできず、ひどい目にあいました。あいにく、僕はひとり者なので、お手数ですが、友人の宅に知らせてやってください」  神津恭介は、旧制第一高等学校以来の親友で、推理作家である松下研三《まつしたけんぞう》の自宅の電話番号を病院に告げた。  研三の夫人の滋子《しげこ》が、二女の綾子《あやこ》といっしょに駆《か》けつけて来たのは、それから三十分ほどしてからのことだった。 「これは、とんだことでした。病院からの電話だというので、何かしらと思いましたが、まさか、神津先生が事故にあわれるなんて、夢にも思いませんでした。ところで、うちの主人は北京《ペキン》のほうに取材旅行に出かけておりまして、連絡がとれませんのです。あの国では、外国人旅行者の宿舎を前もって教えてくれませんので……。でも、二、三日うちに香港《ホンコン》に着く予定ですから、さっそく、そちらのホテルに電話を入れておきます」 「いいですよ。たいしたことはないのだから。それより、こんな時間にお呼び立てしてすみません。しばらくは身動きできないらしいので、ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」 「主人は、日ごろから神津先生を実の兄以上に尊敬しておりますし、わたくしたちも親戚《しんせき》のおじさまのように慕っておりますもの。こういうときにお役に立たなければ、罰があたります。何なりと申しつけてくださいまし。綾子は昼間は仕事に出掛けますが、わたくしでよろしかったら付添人代わりにご用をつとめさせていただきます」 「これは恐縮です。ご心配かけました。松下君とは、半世紀近いおつき合いだから、お言葉に甘えます。ここは救急病院なので、今晩はいたしかたがないけれど、明日は、東大病院に移りたいので、その手続きをお願いします。それから、うちの通いのお手伝いさんにいって、身のまわりの品をとどけさせてください」  それから数日後、松下研三は帰国するや否や、旅行ケースをたずさえたまま、東大病院の外科二一七号室に駆けつけて来た。 「お見舞いが遅れてすみません。いやあ、ひどい目にあいましたね。でも、骨折だけですんで何よりでした。思う存分に養生してください。いろいろとご不自由でしょうけれど、欲しいものがあったら遠慮なくいってください。すぐ、おとどけしますから」 「ありがとう。欲しいものといわれても、こうしてベッドに縛りつけられていては何もできやしない。右手も使えないし……」 「輸血はしなかったんですか?」 「うん。動脈は切れていなかったので、その必要はなかったよ」  恭介には、急性|肝炎《かんえん》の既往症があるし、近ごろは、エイズとかいう恐ろしい病気が輸血によって感染するということを、研三は心配したのだった。そのおそれがなければ安心だ。 「ここは完全看護だそうですが、行きとどかないこともあるでしょうから、うちの滋子をよこしますので、ほんとうに遠慮なく命令してやってください。本人もそのつもりでいます」 「いや、悪いなあ、それは。といって、用事なんて格別なものはないよ。何しろ、宮仕えも終わった身だからね」  東大に勤めて約四十年。つい先年、後進に道を譲って教授の椅子《いす》を離れた神津恭介は、いまやまったくの自由の身だった。  終戦の混乱期から最近まで、象牙《ぞうげ》の塔の一角で研究と教育にたずさわるかたがた、身辺で発生する犯罪事件はもとより、親友の松下研三の兄が警視庁の現役捜査官であったころ、もてあました難事件の解決に手をかすなど、恭介の本職は探偵業ではなかったかとさえいえる。研三自身も、作品の中で、何度も、恭介の鋭《するど》い推理の恩恵に浴している。 「でも、毎日、寝たきりでは退屈でしようがないでしょう。テレビなど、あまり観《み》る習慣はなさそうだし、時間をつぶすのに苦労しているのではないですか」 「そのとおりだよ。体を動かせないのはしかたがないとしても、頭のほうはしきりに活動したがっている。音楽など聴《き》いていると、かえって頭が冴えてくるしね。今朝は、テレビの囲碁対局を観《み》たけれど、傍観しているだけではどうしようもないね」 「そういえば、これが三度目でしたね。神津さんが入院生活をするのは……」  これまで、神津恭介が東大病院のベッドの上で暮らしたことは二回あった。第一回目は、いまから三十年近く前のことだった。虫垂炎《ちゆうすいえん》の手術をした。二度目は、それから十数年たって、急性肝炎にかかったときだった。 「以前の入院のときには、お見舞いのかわりに難題を持ちこんだりしましたね。おかげで、大発見ができましたけれど——」 「そうだったね。いま思うとなつかしいよ」  恭介が最初に入院したときには、『成吉思汗《ジンギスカン》の秘密』が誕生した。中世の日本人のアイドルだった源義経《みなもとよしつね》こそ、アジア・ヨーロッパにまたがる元《げん》帝国の始祖の英雄、成吉思汗である——という壮大な仮説を、恭介はベッド・ディテクティブでみごとに証明してみせたのだった。  そして、二度目の入院の際には、わずかの日数で、『邪馬台国《やまたいこく》の秘密』を解明し、研三を有頂天《うちようてん》にさせたのだった。 「どうでしょう。二度あることは三度あるといいますけれど、もう一度、歴史の謎解《なぞと》きをやってみませんか」 「ほう。面白いね。推理作家の先生が手こずっている難題でもあるのかい。時間のほうはたっぷりあるから、お手伝いでもしてみようか。久しぶりにね」 「それはありがたいです。しかし、今度の場合は、ちょっと問題が大き過ぎるので、いずれご相談はしてみたいとは思っていましたが、ずばり、�これが謎です�とはいいにくくて——」 「どういうことだね。まあ、いいからいってみてくれないか」 「じつは、もう一年近く前から、ある出版社の依頼で、日本古代史を小説風にまとめてくれないかという話があり、引き受けてはみたものの、なかなか構想が立たないので困っているのです。『古事記』や『日本書紀』を現代風に書きなおしただけでは意味がないし、かといって、あまり勝手なフィクションを加えるわけにいきませんから」 「僕たちの教わった『国史』というやつは、いま思うと、のどかなものだったね。伊耶那岐《いざなぎ》・伊耶那美《いざなみ》の男女の神が、天《あめ》の浮橋《うきはし》から海の中に天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》をさし下《おろ》して掻《か》きまわすと、矛《ほこ》の先から滴《したた》り落ちた塩が固まって淤能碁呂《おのころ》島ができた——というような愉快な話を、まじめくさって聞かされたっけ」 「神話については、いろいろと考えかたはあるでしょうが、歴史の部分をしっかり固めないことには話にならないのです。ところが、『古事記』や『日本書紀』の、どのあたりからあとが、ほんとうに歴史として信用してよいかが決めにくいので弱っています」 「僕たちが戦前に教わった歴史では、西暦紀元前六六〇年に、神武天皇が日向《ひゆうが》——いまの宮崎県だね——を出発し、大和《やまと》(奈良県)に東征して国を建てたということだったね。そして、以後の天皇の名を暗記させられたものだったね。  いまでも覚えているよ。神武《じんむ》・綏靖《すいぜい》・安寧《あんねい》・懿徳《いとく》・孝昭《こうしよう》・孝安《こうあん》・孝霊《こうれい》・孝元《こうげん》・開化《かいか》・崇神《すじん》・垂仁《すいにん》・景行《けいこう》・成務《せいむ》・仲哀《ちゆうあい》・応神《おうじん》・仁徳《にんとく》……」 「もういいでしょう。たいした記憶力ですね。でも、いまの高校の日本史の教科書には、そういう天皇の名前は、ぜんぜん、出てこないのです。  応神・仁徳天皇については、巨大古墳の名前としては出てきますが、歴史上の人物として最初に出てくるのは、七世紀の初めの聖徳太子《しようとくたいし》と蘇我馬子《そがのうまこ》あたりからで、それ以前の歴史といえば、考古学的なものと氏族制度がこういうものだったらしい、というような記述だけです。  つまり、六世紀以前の高校日本史には、固有名詞が完全に欠けているといえます」 「でも、邪馬台国《やまたいこく》のことは書いてあるのだろう」 「そうです。卑弥呼《ひみこ》の名も出てはきます。しかし、どの教科書も、邪馬台国の所在地には、大和説と九州説があって——と、両論併記の形をとっていて、その前後の国内の史実とは無関係な浮き上がった存在になっているのです」 「それで、松下君としては、その『小説・古代日本史』を書くとすると、そのへんをどう扱うつもりなんだい?」 「それが最大の難題なのです。邪馬台国については、以前、神津さんが出した結論——つまり、邪馬台国は九州の宇佐《うさ》にあったということを堂々と主張するつもりです。それはいいのですが、では、邪馬台国は、いつごろ成立したのか、その事実は『古事記』や『日本書紀』には、ぜんぜん反映していないのか、と問われると答えに窮してしまいます。また、三世紀に、たしかに存在した邪馬台国は、七、八世紀には姿も形もありません。四、五百年のあいだに、それがどうなったのかを説明できないと、歴史としても、小説としても、人に読んでもらえるものにならないわけです」 「なるほどね。この前、『邪馬台国の秘密』を研究したときには、宇佐の邪馬台国を『第一次邪馬台国』とし、応神天皇のころに『第二次邪馬台国』があって、それが東へ移動したのではないか——いわば、�応神東遷《おうじんとうせん》�とでもいうものがあったのではないか、というような仮説を考えてはみたね」 「そうです。それに似た考え方をする学者や研究者はいます。しかし、それを事実だというためには、証拠というか、前後関係をうまく説明するための補強が必要です。あれやこれやと空想することはできますが、いくら何でも、それでは無責任すぎますから」 「その点について、いろいろな人の説もあるのだろう?」 「ないことはありませんが、筋道を立てて誰《だれ》にでも納得できる説明をしている人は一人もいません。というより、幻《まぼろし》のような存在でしかない邪馬台国《やまたいこく》と、真偽のさだかでない日本の歴史書の記述とを結びつけることなど、考えるだけ無駄だ、といわんばかりの態度というのがあたっているかと思います」 「そういうものかなあ。邪馬台国はたしかに実在した。その数百年後には、大和《やまと》王朝も存在している。だとすると、想定できる可能性といえば、第一に、僕らが仮定した、九州にあった邪馬台国——あるいは、その後継国なのかもしれないが、それが大和へ移動した、ということが考えられる。  もし、そうでなければ、第二に、九州にあった他の勢力、伊都国《いとこく》でもいい、熊襲《くまそ》でもいい、それが邪馬台国を征服あるいは吸収して大和にやって来た——ということもなくはない。  第三のケースは、逆に、いつのまにか成長した大和王朝が西に勢力を伸ばし、九州にあった邪馬台国を征服した——ということだ。まあ、この三つくらいしか可能性はないのじゃないかな」 「そうです。学者たちの考え方も、だいたいそのとおりです。しかし、どの説を見ても、ほんの輪郭《りんかく》だけで、実証らしいものは何も述べられていません」 「そうすると、松下君は、僕に、その実証の仕事をしてほしいというわけかい」 「まあ、そういうことです。資料は限られていることですから、完璧《かんぺき》な実証はともかくとしても、いままで誰《だれ》もやっていない日本古代史の復元作業の大きな筋道を切り開くことができれば、と思います」  といいながら研三は恭介の顔を見つめたが、案外と冷静だったので安心した。 「ところで、さっき君は、�日本の歴史書の記述の真偽はさだかではない�といったね。僕だってそう思うよ。百歳以上の天皇がいっぱいいるのは変だし、神話時代はともかく、歴史時代にも神秘不可思議な記事はいくらもあるように思う。  しかし、『古事記』や『日本書紀』という、あれだけの書物の中身が、全部|嘘《うそ》で固められているなどとは考えられないね。  むしろ、大部分は事実か、事実を多少|歪《ゆが》めたもので、はっきり根も葉もないといえるものはごく少数と考えるほうが正しいのではないだろうか」 「僕も、そう思いたいのです。思いたいけれど、何を根拠に事実と創作を弁別《べんべつ》するのかと問われると、途端に自信がなくなってしまうのです」 「いや、僕だって、自信があるというのではないよ。しかし、最初から諦《あきら》めてかかっては何も生まれない。  髪の毛一本から被害者の身元を完全に割り出すことはできないが、他のいくつかの資料や、客観的な状況、あるいは目撃者の証言などを結びつけると、犯罪事件の全貌《ぜんぼう》が浮かび上がってくる——ということは、僕らは何度も経験しているじゃないか」 「そうでしたね。勇気を出してやってみましょう。成吉思汗《ジンギスカン》が義経《よしつね》であるという、雲を掴《つか》むような仮説だって証明できたのだし、邪馬台国《やまたいこく》の所在地も宇佐《うさ》と確定できたのですから、神津さんの力を信じて、この仕事もやりぬきたいと思います」 「ところで、お使い立てしてすまないけれど、そこのサイド・ボードの上にあるコーヒー。インスタントで悪いけれど、入れてくれないかな。お湯はポットに入っている」  入院患者を見舞いに来たつもりが、いつのまにか難題を押しつける形となり、少しばかりバツの悪い思いをしていた研三は、それで救われたように、一服入れるサービスをした。 「君の持って来た課題のポイントはわかったよ。しかし、日本古代史全体を小説風にしろ一つのものに書き上げるとすると、まだまだ謎《なぞ》はいくらもあるのだろう。どうだね。それ以外の謎を洗いざらい出してみてくれないか。いっそのこと、全部まとめて解決してみようと思うんだけど」  研三は、開《あ》いた口がふさがらないような気持ちで、 「いいんですか、そんなことをいって。�応神東遷《おうじんとうせん》説�が成立するか否か、だけだって大問題ですよ。多くの学者が、あれやこれや論じていて、いまだに結論の出ていないたくさんの問題を全部一度に解こうなんて無茶ですよ」 「そうかしら。僕は、そうは思わない。たった一つの謎を解くほうが、かえってむずかしいのじゃないだろうか。  たとえばね。ここに一枚の写真があって、十人の男が写っているとする。その中の一人の人物を特定してみろといわれても、それは不可能だ。その男に関する情報が、身長百七十センチ以上で、眼鏡《めがね》を掛けている——というようなものだとしたら、候補者は三人か四人いる。しかし、それ以上はしぼれない。  ところが、十人全部について、小太《こぶと》りであるとか、髪型はオール・バックであるとか、スポーツマンであるとか、それぞれ目立った特徴が二つか三つずつ与えられていたとすれば、それらを組み合わせることによって、十人全部を判別することができることになるじゃないか」 「神津さん。恐れ入りました。ほんとうにそうですね。推理作家ともあろうものが、推理の鉄則を忘れていました。謎と謎とが有機的に結びついているからこそ、一本の筋が浮かび上がってくるということですね」  研三は、急に目の前が明るくなってくるような気がした。恭介は、楽しそうな表情でほほえんでいた。 「では、日本古代史には、どんな謎《なぞ》があるのか、数えあげてくれないか」 「急にいわれても困りますが、思いついたものだけ並べてみましょう。  まず、結論を最初にいうみたいですが、�倭人《わじん》とは何か�ということがあります。これは、『古事記』や『日本書紀』からだけではどうにもならない問題ですが、できれば、この疑問についても何か手掛かりになるものが得られればいいと思っています」 「うん。�日本人の起源�というやつには、僕もまったく興味がないわけではないよ。自然科学の世界でも、遺伝学の研究の対象の一つになっているしね」 「そうでしたね。神話関係は除外してもいいのですが、それでも、�高天原《たかまがはら》はどこか�とか、�天孫降臨《てんそんこうりん》とは何であるか�といったことは、はっきりさせたいと思います」 「僕らが小学校のころには、天照大神《あまてらすおおみかみ》が孫の邇邇芸命《ににぎのみこと》に命令して、豊葦原《とよあしはら》の中つ国は、おまえが支配すべきだという神勅《しんちよく》を下《くだ》し、天空にある高天原から下界に降下させた、と教わったものだっけね」 「この話を、まともに受けとめ、そのまま書けば、�侵略的な皇国史観を復活させようという気か�というわけで、さんざんたたかれることになりますが、かといって、これは『古事記』や『日本書紀』のメイン・テーマですから、まったく無視するわけにはいかないでしょう。つまり、どういう歴史的事実の反映なのか、というようなことは、ちゃんとおさえておきたいのです。同じ意味で、�出雲《いずも》の国譲《くにゆず》り�をどう解釈するかも問題です」 「出雲というのは、いまの島根県の東半分のことだよね。近年、銅剣がいっぱい出土したというので有名になっているね。たしか、神話では、出雲の支配者だった大国主命《おおくにぬしのみこと》にたいし、高天原から、使いの神が派遣されて圧力をかけ、その地方の支配権を天皇家の祖先に献上させたという話が�国譲り�だったね」 「そうです。縁結びで有名な出雲大社は、引退させられた大国主命を慰めるためにつくられた神社ということになっています。しかし、大和王朝の成立以前に、山陰地方の一角で領地の強制接収が実行されたとは考えられないので、この点の真相にも、できればせまりたいと思います」 「出雲といえば、須佐之男命《すさのおのみこと》の�八岐《やまたの》大蛇《おろち》�退治の話があったね。たしか、頭が八つで尾も八つあり、からだ全体に檜《ひのき》や杉がはえている巨大な蛇が、土地の娘を食いに来るというのを、天照大神の弟の須佐之男命が退治するという話だったね」 「この話と似た怪物退治の神話は世界中にたくさんありますし、英雄が狂暴な一族を征服して、その土地の人びとを救った物語のことだ、として片づけてしまえばいいのですが、日本の神話の中で、須佐之男命という神様がなぜ活躍しなければいけないのか、ということは、やはり、歴史の解明の上で考えてみる必要があると思います」 「それは、いったい、どういうわけだ」 「京都の八坂《やさか》神社——あの祇園《ぎおん》祭りで有名な神社です——や、熊野《くまの》神社、それに全国各地にある氷川《ひかわ》神社や八雲《やくも》神社などは、みな、須佐之男命を祀《まつ》っています。これだけ、日本人に崇拝されている神様については、なにか歴史上の意味があったに違いないと思うわけです。  できれば——の話ですが、須佐之男命の謎《なぞ》も検討する価値があるのではないでしょうか」 「なるほどね。神話そのものを、いくら研究しても、そこから歴史が生まれてはこないだろうけれど、歴史の真相がわかれば、逆に、神話のもつ意味も理解できるかもしれない」 「それでは、本論のほうに入りましょう。第一の疑問は、なんといっても�神武東征《じんむとうせい》�です。ほんとうに、九州から近畿地方に向かって征服が行われたのかどうか、ということです。それが事実とすれば、いつごろ、どういう勢力が、どういう動機で移住をしたのか、ということを明らかにしなければなりません。また、もし、そういう事実がなかったというのなら、なぜ、大和《やまと》王朝の人たちは、自分の先祖が九州からやってきた、などと書物に書き残さなくてはならなかったのかを、誰《だれ》にでも理解できるように説明する必要があります」 「それは、そうだ。歴史書の中身を否定したり、特定の解釈を加える以上は、それなりの理由を示すべきだ。�神武東征�のことは、さっき話題にした、�邪馬台国《やまたいこく》のその後�の問題と関連させ、第一の研究課題にしよう」 「第二の問題は、�欠史八代�をどう扱うかということがあります。第二代の綏靖《すいぜい》天皇から第九代の開化《かいか》天皇までの八代については、史書には、皇后や皇子の名前、宮都や御陵《ごりよう》の地名くらいしか伝えていません。そのため、多くの学者はあまり問題にしていませんし、後世に創作された天皇だとしています」 「天皇を創作するというのは、どういうことだね」 「つまり、神武天皇の建国の年を、できるだけ太古に近づけたい、いいかえれば、日本の歴史をうんと古く見せたいために、天皇の寿命を百歳以上に引き伸ばしたり、架空《かくう》の天皇を創作したというのです」 「ふうん。僕には考えられないことだね。『古事記』と『日本書紀』が、それぞれ同じ意図をもって、同じ八人の天皇をもっともらしく作り上げるなんて。それに、どうせ作るのなら、たいした手数もいらないのだから、各天皇の業績まで、もっともらしく創作したらよさそうなものだと思うよ」 「そうですね。しかし、その問題は、書いてないことについてのことですから、それはそれだけのこととしましょう。  そのほかには、景行《けいこう》天皇や日本武尊《やまとたけるのみこと》の熊襲《くまそ》征伐や蝦夷《えぞ》征伐の話、あるいは、神功《じんぐう》皇后のいわゆる�三韓征伐《さんかんせいばつ》�の話があります」 「僕たちの少年時代には、日本武尊が女装して、九州にいた勇猛な種族だったという熊襲《くまそ》の酋長《しゆうちよう》を刺し殺して、タケルという名をもらった話だとか、焼津《やいづ》の野で周囲から火攻めにされた日本武尊が草薙《くさなぎ》の剣《つるぎ》で草を切り払い、逆に外に向かって火を放って窮地を脱出した話など、聞かされた覚えはあるな。それに、神功《じんぐう》皇后といえば、小学校の国史の教科書の挿絵《さしえ》や五月の節句の飾りの旗などに、男装して、武内宿禰《たけのうちのすくね》といったっけね、家来を引き連れて朝鮮《ちようせん》に出陣していく姿がのっていたものだ」 「大和王朝が全国を統一する場合、当然、武力が用いられたことは間違いないでしょうから、熊襲《くまそ》や蝦夷《えぞ》の征討は歴史的事実といってよいと思います。しかし、史書にあるとおりだったかどうか、その点に疑問があります。それから、�三韓征伐�などという表現は、帝国主義的侵略思想として現在では使ってはいけないことです。  そして、この件については、神功皇后が実在したとしても、多分、四世紀末ごろのことですから、その当時のわが国から、朝鮮半島に向かって征服をこころみるなどということは考えられない、というのが、今日の学者の一般的な解釈になっています」 「ということは、神功皇后は架空の人物だというわけだね」 「まあ、そういうことにされています。ただし、宇佐《うさ》神宮の祭神の応神《おうじん》天皇の母が神功《じんぐう》皇后ということになっていますから、僕としては、神功皇后架空人物説をとるわけにはいきません。これもたいへんな問題です」 「わかった。まだ、まだ、日本古代史の謎《なぞ》はいっぱいあるだろう。松下君が小説を書くのに必要な謎については、僕も大いに知恵をしぼってみよう。  ところで、僕は、歴史についての予備知識はゼロに近いことは君も知っているとおりだ。君が、�読め�という本は読もう。しかし、基礎的な問題でわからないことが出てきた場合、どうしたらいいだろうね」 「そうですね。僕だって、歴史の専門家ではありませんから、誰《だれ》か、いい助言者がいてくれると助かるのですが——」  そういいながら、研三は、大麻鎮子《おおあさしずこ》のことを思い浮かべていた。この女性は、三十年近く前に『成吉思汗《ジンギスカン》の秘密』を探《さぐ》ったとき、恭介の友人で、当時、東大の歴史学教室の助教授だった井村梅吉《いむらうめきち》が推薦《すいせん》してくれた助手のことだ。彼女は、資料の収集や学説の紹介について、恭介の手足のようになって助けてくれただけではなく、いつのまにか恭介に愛情をいだくようになっていた。 「こういうときに、大麻さんが生きていてくれると助かるのですが——」  そういいかけて、研三は口ごもった。当時、独身を守っていた恭介を説得してでも、大麻鎮子との結婚に踏み切らせようとしたことのある研三としては、それが実現もせず、しかも、彼女が悲惨な最期をとげたのだから、その名前をこのさい口にしたことは、軽率だったことになる。 「すみません。うっかり、むかしのことを思い出させたりして。気を悪くされたのならあやまります」 「いや。いいんだよ。僕も、いま、それを思っていたのだから。あのときは、ほんとによくやってくれた。だが、運命だったんだね。彼女がなくなったのも交通事故だった。同じ事故でも僕の場合は、命は助かったけどね」  研三は、恭介の口から、久しぶりに�運命�という言葉を聞いた。ある意味では、徹底した理性主義者である神津恭介も、変転きわまりない人事については、神秘主義的とでもいえそうな運命論者としての一面をもっていた。 「神津さん。アシスタントなら、うちの娘の綾子の友人で優秀な史学科の研究者がいるということですから、あたってみましょう」 「そうかい。その件は君に任せるよ。よろしく頼みます」 「それでは、二、三日中に、適当な助手を見つけて連れて来ますから、人物テストをしてみてください。それから、とりあえず、必要な文献もおとどけします。『古事記』と『日本書紀』のほか、二、三冊探してきます」 「そうね。書物は、できるだけ活字の大きいやつにしてほしいね。老眼鏡のいらないようなのが、いちばんありがたい」 「では、お大事に。退屈だけはさせないように心掛けますから——」  二 美しいアシスタント登場  恭介を見舞って家に帰った研三は、さっそく、娘の綾子《あやこ》に病院での様子を話して聞かせた。 「ところで、綾子。お前の友だちに史学科の優秀な女性がいるといっていたね。どうだい。その人は、神津さんのアシスタントがつとまりそうかい。専攻は何だったかね」 「いやだあ。パパったら、三宅《みやけ》さんのことでしょ。物忘れが激しいのね。彼女のお父様は吉備《きび》女子大の日本史学科の教授で、つい先だって、パパもお会いしてきたっていってらしたじゃないの」 「えっ。このあいだ、岡山から広島、島根方面をまわって来たときに、お世話になった三宅|祥二郎《しようじろう》先生の娘さんかい。それはおどろいた」 「おどろくのは、わたしのほうよ。あのとき、岡山に行くなら、三宅さんのお父様の所へ行ってらっしゃいといったのは、わたしでしょ」 「そうだったっけ。そういえば、�娘をよろしく�っていうご挨拶《あいさつ》があったよ」 「何をいってるのよ。まあ、いいでしょう。彼女なら大丈夫です。きっと、お役に立ちます。専門は、日本古代史。ただし、奈良時代の政治と宗教とかいっていたっけ」 「じゃあ。よろしく頼むよ。さっそく、電話して都合をきいてみてくれ」 「いいわ。この時刻なら、彼女は、まだ東和大学の研究室にいるでしょう。ひまだったら、すぐにでも来てもらうわ」  綾子が電話すると、三宅|洋子《ようこ》はちょうど仕事が終わったところだった。 「そうね、久しぶりだから、どこかでごいっしょにお食事でもしましょうか」 「そうしましょう。父があなたに相談があるというのだから、思い切りごちそうをさせますよ。すぐに来てね」  綾子の友人の三宅洋子は、控え目で清楚《せいそ》なワンピース姿で現われた。口もとは柔和だが、さすが研究者らしく瞳《ひとみ》は知的な輝きをもっていた。とはいえ、三十歳近いキャリア・ウーマンの落ち着きのある微笑を浮かべて会釈《えしやく》した。 「綾子さんとは、大学時代からのおつきあいです。歴史の勉強をしておりますが、ほんの新米ですので、よろしくご指導ください」 「こちらこそ、よろしく。あなたのお父様には、岡山でたいへんお世話になりました。今日は、僕のために、わざわざ出掛けて来ていただいて恐縮ですが、一つ、お手伝いをお願いしますよ」 「わたくしなんかでよければ、喜んで——」 「ところで、洋子さんは奈良時代の専攻ということだそうですが、やはりお父様の影響ですか」 「わたくし、高校時代から『万葉集《まんようしゆう》』が好きだったもので、自然とそういうことになりました。あの時代の女性は、現代よりも自由だったのではないかと、秘かに憧《あこが》れています」 「なるほどね。案外と、女性上位の時代だったかもしれないというのでしょう」 「そうかもしれません。女帝も何人かいましたし。日本では、�原始、女性は太陽�だったのでしょうか」 「あるいはね。それはそうと、神津恭介《かみづきようすけ》氏のことは、ごぞんじですか」 「はい。綾子さんから、よくうかがって承知しております。そういう大先生にお目にかかれるなんて、夢にも思いませんでした」 「あなたにお願いするのは、日本古代史を小説風に書く仕事の考証というか、学問的な立場からのアドバイスをしてほしいわけです。場合によっては、九州あたりに出張していただかなくてはならないかもしれません」 「学期が終われば暇ができますから、必要ならば何でもいたします。勉強させていただくつもりでおりますから」  研三親子と三宅洋子は、その翌日、東大病院の神津恭介の病室のドアを開いた。  ベッドの上で初対面の挨拶《あいさつ》をすませた恭介は、うら若い二人の女性の訪問には、いささか照れくさい思いがしたらしい。しかし、とりとめのない会話を通じて、恭介は、この三宅洋子という人物の優秀さをす早く見破ったらしかった。 「どうです。三宅さん。だいたいの話は、松下君から聞いているでしょう。歴史学の手ほどきをして、僕らを助けてくれませんか」 「はい。わたくしでお役に立つことならば、なんでもいたします。日本の古代史の奥深さは多少は心得ておるつもりです。とても、その完全復元などということはわたくしなどには夢のまた夢です。とりあえずのところ、細かいことでも調べて来いと命令してくだされば、お指図どおりにいたします。もうすぐ学校もお休みになることですから」 「ところで、学内では、論文などもいくつか書いているのでしょう?」 「それが、なかなか——。去年、せっかく、張り切って書いたのが、没《ぼつ》にされてしまったりして。一生懸命に書いたつもりなのですが」 「論文が没になるというのはどういうことですか? 主任教授が評価してくれないと発表できないということですか?」 「ええ、�君の書いたものは、学術的に何の価値もない。あんなものに貴重な誌面を割《さ》くわけにはいかない�なんていわれました。わたくしとしては自信作だったのですが」  恭介は、意外だ、という表情で問いなおした。 「へえ、文学部にはそういうことがあるの? ちょっと考えられないことだね。いったい、どんな内容だったの?」 「それは『ハレー彗星《すいせい》と恵美押勝《えみのおしかつ》』という題で、天平宝字《てんぴようほうじ》四年(七六〇年)のことを扱ったのです。ごぞんじのように、ハレー彗星はほぼ七十六年の周期で地球に近づいて参りますね。西暦六八五年の接近のことは『日本書紀』にはっきり書いてあります。このときは、日本全土にわたるマグニチュード八・四という超巨大地震がおこり、二年後には、天武《てんむ》天皇がなくなっています」 「今度のハレー彗星の接近の前後にも、世界中でいろいろの事故や政変などがおこっているね」 「天平宝字四年というのは、奈良時代の後半で、天武天皇時代のハレー彗星接近の次の周期にあたるわけです。ところが、不思議なことに、『続日本紀《しよくにほんぎ》』にはこの大彗星のことは、これっぽっちも書いてありません。この年にハレー彗星がやって来たことは、中国の書物に、観測できた期間や、星座上の位置、大きさまで、はっきりと書いてあるのに、日本の正史は完全に無視しているのです。何かわけがあるのではないかと思われません?  そのつぎから後の出現の記事は『日本後紀《にほんこうき》』などにすべて正確に書かれているのに、奈良時代の接近だけが除外されている。おかしいと思わないほうが変ではないでしょうか?」 「でも、彗星が出たからといって、世の中が引っくり返るというわけではないし、歴史を記録する係が、単なる天空のショーくらいに軽く思ったのかもしれないじゃないか」  恭介は、意地悪そうにいってのける。それは、口述者を刺激して、能弁にさせようという犯罪取調官のよく使う手だな、と研三は思った。 「ところが、そうはいかないのです。この年には、光明《こうみよう》皇太后がなくなっておられます。奈良時代の最大の政治家の藤原不比等《ふじわらのふひと》の娘で、聖武《しようむ》天皇の皇后として、また、娘の孝謙《こうけん》天皇の後楯《うしろだて》として政界を動かしていた皇太后がなくなったのですから、ただでさえ迷信深い奈良時代の人たちは、それこそ上を下への大騒ぎをしたに違いありません」 「なるほどね。それで、洋子さんの論文ではどういうことを論じたの?」 「はい。この年、大伴上足《おおとものあげたり》という役人が、『災事十条』を記し世間を惑わしたとして種子島《たねがしま》に左遷《させん》されています。また、淳仁《じゆんにん》天皇は、突然に小治田宮《おはりだのみや》を造営して平城《へいじよう》京(奈良の都)から逃げ出しています。これは、ハレー彗星《すいせい》が不吉なことの前兆であると当時の人が考えたことの明白な証拠ではないでしょうか?」 「そういってよいだろうね。そのことについて、これまで日本の歴史学者で指摘した人はいなかったのかしら?」 「そうなのです。日本古代史の最長老のK先生は、大伴上足の左遷事件の原因は藤原氏と大伴氏の対立関係が原因だとされ、小治田宮への逃避行は�じつに不気味である�と著書で述べておられますが、その原因がハレー彗星にあったとはぜんぜん、気がついてはおられません。  こういう動かしがたい天文上の事実について、大先輩の先生がたが無知であったということを、わたくしのような若輩が批判的に指摘したことが、主任教授には不遜《ふそん》きわまりないことのように思えたにちがいない——といまさらながら反省しております」 「反省すべきは先輩の学者諸君のほうだよ。�ほんとうのことを後輩に書かれてはまずい�というようでは、学問の進歩なんてありはしない。まるで奈良時代と同じじゃないか」  恭介は、大学の世界に封建的な師弟関係がのこっていることを知らないわけではない。現に、恭介が勤めていた医学部でも、臨床《りんしよう》関係では、そういう風潮がある。病院の部長の先生の回診のときに、医局員やインターンの学生たちが教授のあとについて歩くことを大名行列にたとえる人もいる。そのことに気づいた恭介は、今度は洋子をなだめにかかった。 「まあ、しかたがないさ。大学に残る気なら。まず、立派な業績をあげることだね。そこで、いまは何の研究をしているの」 「道鏡《どうきよう》事件をめぐる謎《なぞ》とでもいいましょうか、朝廷に近い筋での暗闘と、宇佐《うさ》八幡宮の内部の紛争との関係を調べております」 「ほう。それは願ってもないことだ。たまたま、僕たちは、宇佐は邪馬台国《やまたいこく》の所在地で、日本古代史の出発点にあたる土地だと考えているのですよ。 �宇佐八幡の謎�を解明することは、これからの研究の最重点課題の一つとなるはずだから、大いに助かるなあ」  研三も、ほんとうにそのとおりだ、と思った。  一方、洋子は明るい表情で如才なく協力の意志を示した。 「資料がお入用なら、近日中におとどけいたします。わたくしの研究しているのは、奈良時代の宇佐のことで、先生がたが関心をもっておられる古い時代のことについては、いま一つ確かではありませんが、次回までに考えて参ります」 「そうだね。今日は時間もあまりないから、肩のこらない話として、道鏡事件についてでもお願いしようか。邪馬台国や応神《おうじん》天皇とは直接には関係はないかもしれないけれど、何か問題を解決するためのヒントくらいは見つかるかもしれないからね」  道鏡事件のことならば、いまの高校の教科書にも出ている。ハレー彗星《すいせい》が去って四年後、恵美押勝《えみのおしかつ》は叛乱《はんらん》をおこして失脚した。そのころから、平城(奈良)京で勢力をもつようになったのが弓削道鏡《ゆげのどうきよう》という僧侶《そうりよ》だった。聖武天皇と光明皇后のあいだに生まれた女帝である称徳《しようとく》天皇(二度即位。最初は孝謙天皇といった)は、道鏡をいたく寵愛《ちようあい》し、太政大臣禅師《だじようだいじんぜんし》の称号を与え、さらには、法王《ほうおう》という最高の地位につかせた。  江戸時代の川柳に、「道鏡はすわると膝が三つでき」とあるように、世間では、独身の女帝と道鏡の間には、ただならぬ関係があったように語り伝えられているが、もとより真相は不明というしかない。  そして、神護景雲《しんごけいうん》三年(七六九年)、突然、宇佐八幡の神託《しんたく》と称するものが朝廷にとどけられたのだった。  洋子は、さっそく、この事件についててぎわよく解説をしてくれた。 「学界の通説では、第一の神託——道鏡を天皇にすれば世の中がよく治まる——というのは、大宰府《だざいふ》の帥《そち》(長官)だった弓削浄人《ゆげのきよひと》、この人は道鏡の実の弟です——が、部下の大宰府の主神(神祇《じんぎ》官)の中臣習宜《なかとみのすげの》朝臣阿曾麻呂《あそんあそまろ》に命じて発せさせたものとしております。この点は、わたくしもそのとおりだと思います。  しかし、第二の神託——わが国は開闢《かいびやく》より以来、君臣の別は定まっている、臣をもって君となすことはできない、天皇の位をつぐ者は皇子でなくてはいけない、無道の人はすみやかに掃除せよ——という、和気清麻呂《わけのきよまろ》が受けた神託は、通説では、清麻呂の偽造であるとされています。  けれども、わたくしはそうではなく、これは事実どおりの神託だと思うのです」 「ちょっと待って。神託には、真物《ほんもの》と偽物《にせもの》とがあるの? 何を基準にして判断できるの? だいたい、神託といっても、神様が直接にものをいうわけはないから、どういうことになるのかな」  恭介はいかにも理科系の学者らしい質問をした。 「ええ。神託というのは、神懸《かみがか》りになったシャーマン(巫女《みこ》)が口にする言葉です。宇佐八幡の場合は、禰宜《ねぎ》と称する女シャーマンがいて、厳《おごそ》かな儀式の最中《さいちゆう》に神懸《かみがか》り状態になるわけです」 「では、学者先生が、第二の神託は偽造だとする根拠はいったい何なの? 単なる想像でものをいっているわけではないとしたら……?」 「はい。和気清麻呂《わけのきよまろ》にたいして、第一の神託の真偽を確かめるように命じたのは称徳《しようとく》天皇ご自身です。ところが、清麻呂が第二の神託を報告すると、称徳天皇は宣命《せんみよう》を発し、�清麻呂は奸悪《かんあく》で虚偽の神託を奏上した�ときめつけ、姉の法均尼《ほうきんに》とともに因幡国《いなばのくに》(鳥取県)に左遷《させん》します。証拠などありません。  清麻呂偽作説の学者は、称徳天皇と道鏡は別のルートから宇佐八幡の神託の真実の内容についての情報を得ていたとか、『続日本後紀《しよくにほんこうき》』にのっている『清麻呂伝』の記事は、このときのことを�神すなわち忽然《こつぜん》として形を現す。その長《たけ》三丈ばかり、色、満月の如《ごと》し……�などと描写していることをとり上げ、嘘《うそ》くさいとするわけです」 「なるほどね。しかし、ちょっと変だなあ。同じ宇佐八幡の神託が、一度目と二度目でかわるということもおかしいが、いくら和気清麻呂《わけのきよまろ》が道鏡《どうきよう》を排除しようと決意していたからといって、はっきりと聞かされた言葉と正反対の神託を創作して報告するということは強引すぎてできないことだと思うね」 「わたくしも、そう思うのです。清麻呂は、シャーマンがいったとおりに報告したのだと思います。称徳天皇や道鏡は、期待に反する内容に憤慨して、清麻呂が偽作をしたのだ、ときめつけただけのことだと思います」 「それで、そう判定する根拠があるわけだね。どうして、学界の通説と違う解釈をしたの? その点を説明してくれないか」 「はい。ごく簡単にいうと、その当時の宇佐八幡の大宮司《だいぐうじ》が反道鏡派の宇佐氏だったからです。ちょっと複雑なのですが、そのころの宇佐八幡の内部事情を申し上げましょう。宇佐八幡の宮司の職は、宇佐氏と大神《おおが》氏という二家で競《きそ》っていたのです。道鏡事件の四年前までは大神氏、それ以後は宇佐氏が実権を握りました。  詳細はつぎの機会にでも申し上げますが、真相は、藤原百川《ふじわらのももかわ》が宇佐氏を抱きこんで、道鏡排斥の神託を出させたに違いありません。その意味で、この神託は清麻呂の偽造ではないでしょう。  しかし、藤原氏の策謀で神託の内容がどうにでもなるというのなら、第二の神託も偽物といっていいかもしれません」 「よくはわからないけれど、宇佐八幡の内情はなかなか複雑なんだね」 「はい。じつは、もう一派があるのです。それは辛島《からしま》氏で、例の女シャーマンを出している家です。つまり、宇佐氏・大神氏・辛島氏の三派が三巴《みつどもえ》になって暗闘をくり返していたという宇佐八幡の内情を理解しなくては、奈良時代の政争のほんとうの姿はつかめない。これが今度、わたくしが大学の『紀要』に発表しようという論文でいおうとしていることなのです」 「なかなか説得性がありそうだね。今度は没にならずに『紀要』にのるといいね。これなら、大先生がたも妨害はできないだろう」  三宅洋子の説明を黙って聴《き》いていた綾子は何を思いついたのか、話題の中に割って入り突然、口をはさんだ。 「三宅さんはね。むかしからシャーマン的なところがあるのです。大学時代は、学科でのおつきあいはなかったけれど、クラブはいっしょだったので、何か計画を決めるときなんか、いつも、みんなにご託宣を下《くだ》すのです。天気予報なんかは百発百中だったし、旅行のコースなど、彼女のおかげで事故をまぬがれたり、けっこう、お世話になったものです」 「へえ、そんな特技があるのかい。それは頼もしいな。そういう能力は大いに活用してもらおうじゃないか」 「ご冗談ですよ。松下さん。わたくしのは霊感ではなく、ヤマ感なの。それがまぐれであたるだけのことよ」  研三は、娘の綾子の差し出口を苦々しく思ったが、当節の若い女性たちは何の屈託もないらしい。綾子のほうは一向《いつこう》に平気の様子だ。 「神津先生はほんとうにお元気なんですね。うちのおじいちゃんに比べて、血色もいいし、とても怪我《けが》人なんかには見えません。私も、古代史の勉強をしておけばよかったわ」  研三は、娘におじいちゃんと呼ばれても叱《しか》ることはできない。すでに嫁にいった長女のところには二人の孫がいる。 「でも、神津さん、良かったですね。すばらしいアシスタントができて、しかも、僕のうちの娘の親友というのだから遠慮もいらないし。三宅さん、よろしく頼みますよ」  恭介は、微笑して同感の意志を表わした。  三 宇佐八幡《うさはちまん》をめぐる三氏族  入院患者を見舞うというのに、松下研三の心は何となくはずんでいた。自分の娘の紹介した三宅洋子が恭介のおめがねにかなったことも嬉《うれ》しかったが、日本古代史の謎解《なぞと》きの仕事が軌道に乗りそうな予感がしたからだった。 「やあ、待っていました。宿題になっていた『古事記』と『日本書紀』は、仁徳《にんとく》天皇あたりまで通読したよ。まだ、具体的な古代史像のイメージは浮かんでこないけれど、二つ、三つ気づいたことはある。さっそく、先日の続きを始めてもらおうか」  読書と食事だけが日課の生活のせいか、恭介の血色はきわめて良好だった。恭介が身を横たえているベッドの脇《わき》には、このあいだ、研三が持参した花束がまだ花瓶に飾られてあった。洋子は、サイド・テーブルに持参した書物を置くと、二人に向かって解説を始めた。 「宇佐八幡《うさはちまん》の由来については、九世紀の中ごろに書かれた『宇佐八幡|弥勒寺建立縁起《みろくじこんりゆうえんぎ》』のほかに、鎌倉時代に編集された八幡宮の『託宣集《たくせんしゆう》』があります。そのほか、九世紀前半の弘仁《こうにん》十二年の官符《かんぷ》や、平安末期に書かれた『扶桑略記《ふそうりやつき》』や『東大寺要録』にのせられてある八幡の縁起《えんぎ》の類《たぐい》があります」  さすが専門の歴史学者を志すだけあって、洋子の資料提出の態度は厳正そのものだった。 「そのうち、『縁起』は、禰宜《ねぎ》を代々出している辛島勝《からしますぐり》家の系統のもので、『託宣集』は、宇佐氏と対抗して宮司《ぐうじ》の職を争った大神《おおが》家の系統のものです。この両者のあいだには微妙な食い違いがありますが、『託宣集』の説く八幡宮の由来から申し上げましょう」  洋子の話を要約すると、おおよそつぎのような奇怪な話となっていた。  欽明《きんめい》天皇の三十二年(五七一年)、豊前《ぶぜん》の国(大分県)の宇佐郡の菱形《ひしがた》池のほとりの小倉《おぐら》山の麓《ふもと》に�一身八頭の鍛冶翁《かじおう》�という人物がいたという。そこに、人が五人行けば三人死に、十人行けば五人が死んだ。そこで、大神比義《おおがひぎ》が出かけて行くと、人はなく、金色の鷹《たか》が木の枝の上にいた。比義は五穀《ごこく》を断《た》って、三年間祈ると、そこに三歳の童子が竹の葉の上に現われ、「我《われ》は日本人第十六代|誉田《ほむた》天皇(応神天皇)広幡《ひろはた》の八幡麻呂《やはたまろ》である」と述べた。そして、辛国《からくに》(韓国)の城にはじめて八流の幡《はた》が天降《あまくだ》って、「我《われ》は日本の神となり、一切《いつさい》の衆生《しゆじよう》を救おうと念じた」というのが神道《しんとう》の起源である——というのだ。 「宇佐八幡研究の第一人者の中野幡能《なかのばんのう》先生の御説では、宇佐地方の本来の信仰は宇佐の裏山の御許山《おもとやま》を神山とするもので、現地の豪族だった宇佐氏がその信仰を担《にな》っていたというのです。  そこに、韓国《からくに》系で金属精錬の技術をもつ辛島《からしま》氏が入って来て勢力争いが生じ、さらにそのあとに、応神《おうじん》天皇を祀《まつ》るという大神氏が乗りこんで来たのだ、ということです」  恭介は、興味深そうに聴《き》いていたが、自由のきく左手を上げて質問したいという意思表示をした。 「いまの話に、�一身八頭の鍛冶翁�というのが出てきたけれど、その正体はなんだろうね」 「まったく見当がつきません。しいて解釈すれば金属精錬技術をもった異常能力集団のことでしょうか。  それはともかくとして、大神氏という一族の由来が不明なのです。言い伝えでは、先祖は大国主命《おおくにぬしのみこと》ということになっていますが、因幡《いなば》の白兎《しろうさぎ》で有名な大国《だいこく》様とは関係なく、どこかの地方の豪族というだけのことでしょう。  大神氏系図なるものには、比義は武内宿禰《たけのうちのすくね》の再来で、その年齢は五百歳あるいは八百歳とも書かれています。  奈良県の大和《やまと》の三輪《みわ》山の神社の祭祀《さいし》を掌《つかさど》る大神《おおみわ》氏は大三輪《おおみわ》氏ともいいます。そのオオミワ氏と宇佐のオオガ氏とは同系ともいわれますが、どちらが先で、どちらが後なのか、あるいは、まったく無縁なのかも不明です。  ただ、有力な手がかりとしては、豊国《とよくに》の祖母《そぼ》山、これは大分県と宮崎県の県境にある山ですけれど、ここから流れ出る大野川沿いに大神《おおが》郷(速見《はやみ》郡)というのがあります。元大分大教授の冨来隆《ふきたかし》先生の御説では、ここが大神氏の本拠地だということです。  そして、冨来先生は、八頭《やあたま》とは�ヤアタ・マ�のことで、祖母山の山麓《さんろく》一帯では、いまでも蛇のことを�ヤアタ・ロ�といっているから、この鍛冶翁《かじおう》すなわち火の神と結びつけると、大神比義が神に祈って退散させたのは、蛇神であり、鍛冶神であり、火の国の一族だったことになります」 「ほう。それは面白いね。たしか、大和の三輪山にも蛇に関する伝説があったね」 「はい、第七代|孝霊《こうれい》天皇の娘の倭迹迹日百襲《やまとととひももそ》姫が、三輪山の神である大物主神《おおものぬしのかみ》の妻となったところ、その夫の正体が蛇であることがわかったので、それを恥じて御諸《みもろ》山に登り、箸《はし》で女陰《ほと》を突いてなくなったという伝説のことですね。  この御諸山は、宇佐の御許《おもと》山にも通じますし、大神《おおみわ》氏と大神《おおが》氏も同じ文字を書きますから、どちらが本家かは別として、相通ずるものがあることは確かだと思います」 「これは、ほんの思いつきだけど、蛇のことを�ヤアタ�ということ、八幡が�ヤハタ�であること、金属製の剣が尾から出て来たという八岐《やまたの》大蛇《おろち》が�ヤマタ�であること、もう一つ、邪馬台国《やまたいこく》が�ヤマタイ�であること、この四つが発音のうえでよく似ている——っていうことに気がついたのだが、どんなものだろうね」  恭介のこの発言には、研三は虚をつかれた思いがした。�一身八頭�という言葉から、何とはなしに八岐大蛇のことを連想していたが、それが邪馬台国や八幡とまで一貫して関係がありそうだという提案は大きなショックだった。しかし、当の本人は「ほんの思いつき」に過ぎないという。 「やあ、失敬。語呂《ごろ》合わせは禁物だったね。大神氏については、ほかになにか知っておいたほうがいいことはないかしら」 「はい。冨来先生は、蛇神のことを大分方面では、トビ、トビノオ、トウベあるいはナガラと呼んでいる、といっておられます。また、大神氏の住んでいたと思われる祖母|山麓《さんろく》には、冨《とみ》の尾《お》、飛《とび》の尾《お》、登尾《とび》という名の蛇神を祭る神社のあることも指摘しておられます」 「へえ、そうなの。だとすると、神武《じんむ》天皇が東征したときに抵抗したという登美《とみ》の那賀須泥毘古《ながすねひこ》(長髄彦《ながすねひこ》)も蛇神だっていうことになるね」  またしても、研三は衝撃を受けた。恭介はわずか二、三日しか、『古事記』や『日本書紀』には目をとおしていないはずなのに、こんなにも自由に連想が働くとは、まったく、おどろかざるをえない——これが研三の印象だった。 「もう一つ。これは源平合戦(十二世紀)のころのことですが、源氏がわの武将だった緒方三郎惟栄《おがたさぶろうこれよし》の軍勢が宇佐《うさ》八幡宮を焼き討ちした事件があります。この緒方氏は大神《おおが》氏の子孫で、当時の宇佐八幡の実権をにぎっていた宇佐氏が平家がわについていたので、こういうことになったわけです。このとき、社殿といっしょに貴重な文献が焼かれ、宝物類は略奪されています。  先日も申し上げましたが、大神氏と宇佐氏との対立は激越そのもので、五、六百年にもわたって憎しみあっていたということがわかります。ほんとうに、そら恐ろしい話です」 「どうもお疲れさま。ここらで、お茶でも入れていただこうか」 「気がつきませんでもうしわけございません。わたくし、研究室では、いつもお茶|汲《く》みをしておりますのに、今日は、お客様顔をしてしまって」 「お土産《みやげ》にいただいたレモンがあるから、紅茶でも入れてください。お持たせのケーキも切っていただこう。一息入れましょう」  それにしても、三宅洋子が紹介してくれた宇佐八幡の由来をめぐる因縁《いんねん》話はいろいろと興味を駆《か》り立ててくれる。もっと早く勉強しておけばよかった——というのが研三の偽らざる感想だった。レモン・ティーをすすりながらも、検討会は休むことなく進んで行った。 「蛇神っていうのは、全国的に広く見られるんじゃないの」  恭介は、研三のほうを向いて質問した。長いこと作家生活をしてきた研三の雑学的知識を発表してほしいということのようだった。 「蛇神信仰は、犬神信仰とならんで各地に見られます。竜神様というのは、本来は蛇神のことで、海洋系農耕民族の信仰です。『倭人伝《わじんでん》』に出てくる倭人の風俗に、�男子は大小と無く、皆《みな》、黥面文身《げいめんぶんしん》(入れ墨)す。以《もつ》て蛟竜《こうりゆう》の害を避く�とありますね。これなどは、倭人が南方系の海人族であり、蛇神信仰をもっていた証拠でしょう」 「そうだろうね。当時の倭《わ》国には、相当数の海人族が住んでいたことは間違いないとして、歴史上ではどんな氏族がそれに相当するのだろうか」 「福岡県の博多《はかた》湾の志賀《しか》の島《しま》周辺を根拠地としていた安曇《あずみ》族、同じく福岡県の遠賀《おんが》川の河口——あの魏使《ぎし》が上陸した——と僕らが考える神湊《こうみなと》の付近一帯に住んでいた宗像《むなかた》族、瀬戸内海の大三島《おおみしま》を根拠地としていた綿積《わたつみ》族などが代表例です。  安曇族は全国的に分布していて、琵琶《びわ》湖に流れこむ安曇《あど》川や長野県北部の安曇野《あずみの》、そして、渥美《あつみ》半島や福島県の安積《あさか》地方など、みな、この一族の移住した土地だといわれています。また、海部《あまべ》という地名も、ひろく行きわたっています」  このくらいの知識なら自分だって知っていますといいたげに研三も蘊蓄《うんちく》を披露《ひろう》した。それをおぎなうように、洋子もつけくわえた。 「豊前《ぶぜん》(福岡─大分県)にも安曇《あずみ》族はいました。山国《やまくに》川の河口付近の中津《なかつ》市には安曇社があります。さきほどお名前をあげた中野先生は、そのむかし、この一帯に『山国』という小国があり、安曇社を信仰しており、その北方の『豊《とよ》国』および、南方の『宇佐国』と、三つの小国が並立していたという仮説を述べておられます」 「蛇神系の大神氏は、この安曇族と連合していたと考えていいだろうね」 「さあ、なんとも申し上げられません。大神郷は豊後《ぶんご》(大分県南部)が本拠地と考えられますから。しかし、蛇神信仰という点で共通していれば、当然、協力的だったとは考えてよろしいのではないでしょうか」 「では、つぎは、宇佐氏について、よろしくお願いしましょう」  恭介の催促を待ちかねたかのように、洋子は次の話題について説明を始めた。 「宇佐氏は、伝えられる系図によりますと、始祖は天三降命《あめのみくだりのみこと》となっており、その子に菟狭津彦命《うさつひこのみこと》と菟狭津姫命《うさつひめのみこと》があり、この菟狭津彦命が宇佐の国造《くにのみやつこ》に任命されています。  そして、『日本書紀』では、日向《ひゆうが》の国(宮崎県)を出発して東征に旅立った神武《じんむ》天皇が最初に立ち寄ったのが宇佐で、その地の菟狭津姫と、天皇の家来の天種子命《あまのたねこのみこと》を結婚させたとしています。この天種子命は中臣《なかとみ》氏——奈良時代以後の藤原氏の先祖だと記しています。  一方、『尊卑分脈《そんぴぶんみやく》』にのっている中臣氏の系図には、中臣氏の始祖を、天孫降臨《てんそんこうりん》のとき邇邇芸命《ににぎのみこと》に随行した天児屋根命《あめのこやねのみこと》とし、その三代後が宇佐津臣命、四代目が御食津《みけつ》臣命であると記し、やはり中臣(藤原)氏と宇佐が関係深いことを裏づけています」 「ほう。そうすると、宇佐氏というのは土地の豪族だとしても、天《あま》つ神《かみ》の一族というんだね。その天三降命《あめのみくだりのみこと》というのはどういう人物なんだろう?」 「ちょっとわかりません。しかし、宇佐八幡の祭神のうち、第二の御殿の比売大神《ひめおおかみ》は、どうやら宇佐一族が祀《まつ》っている神らしく、この比売大神と結びつくかもしれません」 「そうそう、僕も、何年前だったか宇佐八幡にお参りしたことがあるけれど、そのとき、神社でもらった案内書に、八幡には比売大神が祀ってあると書いてあるのを見て、てっきり宇佐の姫神ならば卑弥呼《ひみこ》のことかと思ったけれど、そうではないのかな」 「はい。本来は土地の女神、いいかえれば、宇佐地方にあった国の女王を祀ってあったのだろうという説はあります。しかし、社記には、比売大神、御名は一人ではなく三女神と記されております」 「三女神? というと三人の姫神ということかな」 「そうです。宗像《むなかた》の三女神です。神話で、須佐之男命《すさのおのみこと》が姉の天照大神《あまてらすおおみかみ》にたいして、自分の清浄潔白を証明するために誓約《うけい》をしたときに産まれたとされているのが三女神です。  長女が多紀理毘売《たぎりひめ》で宗像の奥津《おくつ》宮(沖の島)に祀られており、次女が市寸島比売《いちきしまひめ》で宗像の沖の島の中津《なかつ》宮(大島)に祀られ、三女が多岐都比売《たぎつひめ》で陸地にある辺津《へつ》宮に祀られています」 「そうだったね。朝鮮《ちようせん》半島と九州を結ぶ夏の海路が�海北道中《うみきたみちなか》�で、沖の島・大島と伝って神湊《こうみなと》に達するコースだった。その三つの島に祭られている神が宗像三女神で、それが宇佐八幡の祭神だというのは面白いね」 「はい。『日本書紀』に引用されている一書によると、�三女神を以《もつ》て、葦原《あしはら》の中つ国の宇佐嶋《うさしま》に天降《あまくだ》りまさしむ�と記されています。宇佐嶋とありますが、海の中の島という意味ではなく、土地ということでしょう。そのことから、宇佐氏の先祖の天三降命《あめのみくだりのみこと》というのも、この三女神のことかもしれません」 「宇佐氏について、そのほかに何か知っていたほうがいいことはないのかい」 「そうですね。奈良時代の初めのころに、法蓮《ほうれん》という名僧がいました。この人は、十二年もの長期にわたって、宇佐からそう遠くない所にある英彦《ひこ》山にこもって難行苦行をして霊力を身につけ、土地の人を救ったというので、朝廷から褒賞《ほうしよう》を賜《たまわ》っています。英彦山は千二百メートルもある岩だらけの山で、修験《しゆげん》者たちの聖地になっています。この法蓮は宇佐氏の一員で、宇佐|公《きみ》の姓《かばね》を賜っております」 「というと、宇佐氏は神道《しんとう》ではなくて仏教だったわけかい」 「いいえ。八幡は神社で、宇佐氏はその宮司《ぐうじ》です。ただ、奈良時代には神仏習合《しんぶつしゆうごう》といって、神社の中にお寺を建てたり、神様がそのまま仏弟子としての菩薩《ぼさつ》になったりしています。宇佐氏は、例の道鏡《どうきよう》事件以後、一時、八幡内部で実権を失い、国東《くにさき》半島に進出し、六郷満山《りくごうまんざん》というのですが、多くのお寺を建ててこの地の仏教の振興につとめています」 「宇佐氏と藤原氏は親しかったということだけど、系図的に姻戚《いんせき》関係にあった以外に何か理由があるんだろうか」 「それは、はっきりはしませんが、豊前《ぶぜん》の国の仲津《なかつ》郡に中臣《なかとみ》郷というのがあったことが、『風土記《ふどき》』や『和名抄《わみようしよう》』に出ていますから、関係はあったことでしょう。ただし、仲津郡というのは現在の行橋《ゆくはし》市の辺で、宇佐からは五十キロ近く離れています」 「では、辛島《からしま》氏のことについて教えてくれたまえ。これで三氏が出揃《でそろ》うから」 「辛島氏の系図によると、先祖は須佐之男命《すさのおのみこと》になっています。二代目は『古事記』にも名前の出てくる五十猛命《いたけるのみこと》で、以下八名の名が記されています。しかし、辛島家の祖先の名前を見ると、ほとんどが大分県から宮崎県にかけての地名を並べただけで、ほんとうに実在した人物の名かどうかは疑わしく、ちょっと妙な気がします。  辛島家伝では、宇佐の大御神《おおみかみ》は、どういうわけか、最初は大和の胆吹嶺《いぶきのみね》(伊吹山)に降り、ついで紀伊(和歌山県)の名草海島、吉備《きび》(岡山・広島県)の宮神島を経て、宇佐の馬城嶺《まきのみね》(御許《おもと》山)に降り、比志方《ひしかた》の荒城潮辺《あらきしおべ》に移ってきたとしています」 「そのへんはどうも理解しにくいね。なにか曰《いわ》くはあるだろうけれど。ところで、辛島《からしま》氏は宇佐《うさ》氏と大神《おおが》氏の暗闘にたいして、どういう態度をとっていたの?」 「女シャーマンを出す禰宜《ねぎ》(神の妻)の家柄《いえがら》として、両派と適当につきあっていたのではないでしょうか。一族が、あるいは二派に分かれていたかもしれません」 「辛島の辛《から》は、韓国《からくに》をさしているということは間違いないのだろうね」 「先祖とされる須佐之男命も新羅《しらぎ》に行ったことがあると『日本書紀』などにも書かれていますし、辛島氏の人名には�勝《すぐり》�という文字がつくものが多くあります。これは朝鮮《ちようせん》系の証拠といえます。  正倉院文書のなかにある八世紀初期の豊前《ぶぜん》国の戸籍を見ますと、仲津郡と上三毛《かみつみけ》郡にわたって、総人口の九十三パーセントが秦《はた》族になっています。そして、人名には秦部《はたべ》か勝《すぐり》の姓《かばね》がついております」 「秦《はた》氏というのは朝鮮からの渡来者なの?」 「それは確実です。応神《おうじん》天皇の御代に、百済《くだら》の百二十県の人民を率いてわが国に渡来した弓月《ゆづき》の君が秦氏の祖とされています。  弓月の君は、みずから秦《しん》の始皇帝の子孫だと称し、一族は秦《はた》を名乗りました。畑・波田・八田など、いろいろと書きますが、すべて、秦氏の系統です。実際には、弓月の君の以前にも、豊前(大分県北部と福岡県東部)には、多数の秦氏系の人びとが来ていたと考えられます」 「それで、辛島氏も秦氏と同族だというわけ? それは、だいじょうぶなの?」 「そのことに関連して、宇佐八幡の放生会《ほうじようえ》のお話をしないといけないでしょう。養老《ようろう》四年(七二〇年)に、大隅《おおすみ》(鹿児島県東部)の隼人《はやと》が叛乱《はんらん》を起こしました。奈良の朝廷では、万葉歌人として名高い大伴家持《おおとものやかもち》の父の旅人《たびと》を征隼人|持節《じせつ》大将軍として派遣し、隼人を討伐させたのです。このとき、宇佐八幡では、宇佐《うさ》氏の法蓮《ほうれん》らの六人の僧をふくめ、大神《おおが》・辛島《からしま》派も協力し、率先《そつせん》して隼人討伐に加わっています。  放生会とは、このときに殺した多数の隼人《はやと》の霊を慰めるため、飼っている生き物を解放するお祭りです」 「それが、どうして辛島氏が朝鮮系だということに関係があるのかい」 「待ってください。このお祭りには、香春《かはら》神社で鋳造した宝鏡を宇佐八幡に納める行事が結びついているのです。香春《かはら》というのは、豊前の国の田河《たがわ》郡、つまり、福岡県の北東部で遠賀《おんが》川に近い場所ですが、ここには香春岳《かわらだけ》という山があり、そこでは銅が採《と》れるのです。(*地図参照)  あの奈良の大仏を造ったときの銅の大半はここの採銅所で鋳造されています。奈良に都を遷《うつ》す直前の和銅《わどう》元年に、はじめて国産の銅が出たというのは嘘《うそ》で、それよりも何百年も前から、香春で銅がつくられていました。この香春で造った銅の鏡を宇佐八幡に納めるのに関係する神社の中に、豊日別国魂《とよひわけくにたま》神社というのがあり、これが辛島系図の豊津彦という人物と結びつくということです。  製銅技術を、秦《はた》氏がもっていたということは当時の戸籍から明らかですし、勝《すぐり》姓という点からも、辛島氏は朝鮮系です」  神津恭介は、いつのまにか目をつぶり、洋子の話に耳を傾けていたが、瞼《まぶた》を開くと、おだやかな声で質問した。 「三宅さん。宇佐八幡を支えていた三家のことは、おおよそわかりました。ところで、八幡の祭神のうち、比売《ひめ》大神の名は出てきたけれど、その神様が神功《じんぐう》皇后とつながる話が、ぜんぜんなかったのはどういうわけだろう? それとも、まだ、なにかありますか?」  さすが恭介だけのことはある。洋子の話に聴《き》きほれていたわけではなかったのだ。いちばん大切なポイントをついてきた。 「これからお話ししようと思っていたところです。いま申し上げた香春《かはら》の峰《みね》の神のことについて書かれている『大宰府解《だざいふげ》』に、こう記されているのです」  洋子は、恭介たちの目の前に、美しい文字で記されたメモをさし出した。そこには—— 「管豊前国田川郡|香春岑《かはらみね》神、辛国息長《からくにおきなが》大姫大目命《おおめのみこと》、忍骨命《おしほねのみこと》、|豊比※命《とよひめのみこと》、惣《すべ》て是《これ》三社」  神功《じんぐう》皇后の名は�息長帯姫《おきながたらしひめ》�というから、息長大姫とは別人とも考えられるが、まずは間違いなく、香春の銅山の神は神功皇后ということになる。しかも、辛国(韓国)という字が上についている。これはどういうわけだ。研三が、この点を確かめようとしたが、洋子は話を続けた。 「神功皇后については、いわゆる�三韓征伐《さんかんせいばつ》�に出かけたとき、戦勝祈願のために、宇佐神宮・和布刈《めかり》神社(北九州市門司区)、宮地岳《みやじだけ》神社(宗像郡津屋崎町)、住吉《すみよし》神社(下関市)、海神《わたつみ》神社(対馬)に立ち寄った、という伝承があります。  この金属精錬の神である香春の峰の神が、宇佐八幡に関係があるのは当然ですが、それよりも、|豊比※《とよひめ》のほうに注目すべきではないでしょうか? この姫神は、どうやら都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》が朝鮮から追いかけてきた女性のことらしいのです。『香春神社|縁起《えんぎ》』では、採銅所現人《あらひと》神社の神の名を角鹿現人命《つぬがあらひとのみこと》というと記しています」 「昨日、読んだ『古事記』には出ていなかったようだけど、『日本書紀』には、たしか、そんな名の人物が朝鮮からやって来たようなことが書いてあったね」 「そうです。第十代の崇神《すじん》天皇のときに、越《こし》の国の笥飯《けひ》浦に、�額《ひたい》に角のはえている人�がやって来たというのです。朝鮮南部の大加羅《おおから》の国の王子で、わが国の王を慕って来たのだとしていますが、一説では、この王子は、手に入れた白石から美しい女が現われたので、王子はこの女を追って、とうとう日本まで来てしまったというのです。  この話は、福井県の敦賀《つるが》の地名の起源を物語っていることになっていますが、敦賀の気比《けひ》(笥飯)神社の摂社《せつしや》に都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》神社があります」 「それで、朝鮮からやって来たという都怒我阿羅斯等が宇佐と関係があるのかい」 「直接というわけではありませんが、宇佐の東方の国東《くにさき》半島の北端の沖あい五キロほどの所に姫島《ひめしま》という小さな島があります。そのむかし、瀬戸内海の航路上の要点で潮待ちのために船が着いた島です。奇岩・怪石がそそり立ち、足を踏みはずすと海中に転落するような所です。 『摂津国風土記《せつつのくにふどき》』の逸文《いつぶん》には�新羅《しらぎ》の国の姫神が九州の姫島に住んで後、難波《なにわ》(大阪府)の姫島に移った�とありますし、『国志』という書物にも、姫島には比売許曾《ひめこそ》の神の祠《ほこら》があると記されています」 「だとすると、都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》が朝鮮から追って来たという姫は、宇佐の付近のどれかの一族とは当然接触をもったと考えていいだろうね」 「たぶん、そうでしょう。いまも申しましたが、宇佐に銅鏡を納めている香春神社が、都怒我阿羅斯等を祀《まつ》り、しかも|豊比※《とよひめ》も祀っています。そして、姫島は豊《とよ》の国にあり、そこに比売許曾《ひめこそ》の神が祀られているとすれば、まず間違いなく、宇佐をめぐる三氏族のうちのどれか一つは都怒我阿羅斯等や逃げてきた姫と、何らかの結びつきがあったと考えられると思います」 「それは当然だ。ところで、いまの話とそっくりの話が、『書紀』と『古事記』にのっていたように思うけれど——たしか、天《あめ》の日矛《ひぼこ》とかいったっけね」 「そうです。『書紀』では、第十一代の垂仁《すいにん》天皇の個所に、『古事記』では、応神《おうじん》天皇の記事の終わりのほうに�昔《むかし》�として書かれています。  天《あめ》の日矛《ひぼこ》も都怒我阿羅斯等も、どちらも朝鮮の王子で、二人とも女性のあとを追って日本にやって来ていますし、各地の比売許曾《ひめこそ》神社の祭神が天の日矛になっている点から見ても、この二つの話はまったく同じものと考えていいと思います。  宇佐八幡に宝鏡を納める香春神社が、どういうわけで都怒我阿羅斯等と結びつくのか? これは研究課題かもしれません」 「そうだね。いままでの話を総合してみると、どうしても朝鮮との関係について考えなくてはいけないようだ。宗像《むなかた》三女神は�海北道中《うみきたみちなか》�を通じ朝鮮を目ざしているし、辛島氏は朝鮮系だ。それに、製銅技術は朝鮮からもたらされたと考えなければならないし、宇佐八幡の祭神の応神天皇の母親である神功皇后も三韓——朝鮮半島に出かけている」  そのとき、三宅洋子は少しばかりいたずらっぽく笑《え》みをたたえながら、ぽつりといった。 「じつは、私は、その天《あめ》の日矛《ひぼこ》の子孫なのです」  恭介と研三は、この思いもかけぬ洋子の発言にあっけにとられ、顔を見合わせたもののしばらくのあいだ、ひとことも出てこなかった。  四 邪馬台国《やまたいこく》の秘密  宇佐《うさ》をめぐる古代氏族について明快な解説をしてくれた三宅洋子が、伝説上の人物である天《あめ》の日矛《ひぼこ》の子孫であるという意外な発言で、一瞬、座が白けたかにみえた。恭介は、その場を救うように口を開いた。 「洋子さん。悪いけれど、もう一杯《いつぱい》、お茶がほしいのだけど、今度は、コーヒーがいいかな。入れてくれませんか」 「はい。承知しました」  洋子が、先ほど使ったカップを洗い場に運んでいるあいだに恭介は研三に小声でいった。 「だいじょうぶかね。彼女は、神懸《かみがか》りではないだろうか。そうは思わないかい」 「ちょっと心配ですね。なかなか気骨もあるようですし、いろいろな学者の説を公平に扱っているようですが——」 「うん。では、僕らの�邪馬台国《やまたいこく》宇佐説�について、どう反応するかを見てから、今後ともアシスタントを頼むかどうか決めることにしようよ」  洋子が病室にもどってきて、コーヒーを入れ終わると、待ちかねたように恭介はいった。 「洋子さん。『邪馬台国の秘密』という本は読んだことがありますか。たぶん、あなたが高校生ぐらいのころに出た本だけど」 「いいえ、ございません。邪馬台国宇佐説だということは知っておりますが、どのような論証をなさったかはぞんじません」 「そう。それでは、松下君、お手数だけれど、洋子さんに『邪馬台国の秘密』のあら筋を話してやってくれないか。それがすまないと、これからの研究にさしつかえるから」 「いいですよ。あの本は必要があると思って、ここに持ってきてあります。ごく概略をかいつまんでお話ししましょう」  研三は、『邪馬台国の秘密』のページをめくりながら要点を拾い読みしていった。 「僕たちは、魏《ぎ》の使者と同じ道を地図を頼りに歩いてみることにしました。出発点は、朝鮮《ちようせん》半島のいまの京城《ソウル》付近にあった帯方《たいほう》郡で、海岸伝いに南、そして東と方向をかえながら倭《わ》の北の対岸にある狗邪韓国《くやかんこく》——いまの金海か釜山《プサン》のあたりに着きます。それまでの距離が約七千里。そこで千余里の海を渡って対馬《つしま》に寄り、さらに同じく千余里の海を渡って壱岐《いき》の島に着く。ここまでは、誰《だれ》の説とも同じです。方向は狗邪韓国から南です。  それからが、神津さんの独特な推理が発揮されたところです。�一大国�と書かれている壱岐の島から九州本土にある末盧《まつろ》の国へ行く方角は『魏志《ぎし》』には示されていないで、距離だけが千余里と書いてあります。  これまでの通説では、壱岐から南西に向けて海を渡り、佐賀県の東松浦《まつら》半島の唐津《からつ》か呼子《よぶこ》の辺に上陸地点を求めていました」  研三は、一息入れると、『邪馬台国の秘密』の中の、北九州の地図がのっているページ(角川文庫版二〇八ページ)を洋子に示した。 「現地に行ってみればわかることですが、通説でいうように、この東松浦半島のどこかに末盧《まつろ》国があったとはどうしても考えられないのです。  その理由は、まず、『魏志』の記事と完全に矛盾することです。壱岐から呼子までの距離は、五百里くらいしかなく、記事にある千余里の半分くらいのもので短すぎます。  また、末盧《まつろ》国からつぎの伊都《いと》国に行く方角は、『魏志』には東南と書いてあるのに、東松浦半島から通説でいう伊都国——現在の糸島《いとしま》半島に行くには東北に進まなくてはなりません。  つまり、通説は『魏志』の記事を完全に無視しているのです。なんとも勝手なやりかたです」  研三は、十数年前に恭介が魏使の到着地点について、みごとな推理をしてみせたときの感動が蘇《よみがえ》ってきたように、言葉の調子を高めながら説明を続けた。 「いいですか。それよりも、もっと決定的なことがあります。通説でいう末盧国から伊都国に通ずる道がないのです。  現在では、唐津から福岡市方面には海岸沿いに道路がありますが、魏使がやって来た三世紀の前半には、そのあたりの海岸線は現在よりも数十メートル高い所にあり、いま、道路のある場所は完全に海底だったのです」  洋子は、口をはさんだ。 「だとすると、魏使たちの行列は海の中を歩いて行ったというのですね。まさか、そんな……。アクアラングでもはめていたのなら、ともかくも……」  そういって、洋子は愉快そうに笑った。 「でも、ほかに山越えの道があったのではないでしょうか」 「いや、それはありえません。現地を実際に調べてみれば、すぐにわかることです。  それに、仮りに、陸路があったとしても恐るべき難路です。魏使たちが伊都《いと》国に行くのに、わざわざ東松浦《まつら》半島あたりに上陸したりしないで、そのまま船で行けばいいわけです。  そのうえ、通説で伊都国があったという糸島半島は、当時は独立した島で、九州の本島との間は水道になっていたのです。その点から考えても、通説は現実に合わず、成立不可能な空論なのです」 「よくわかりました。それなのに、なぜ、一般に末盧《まつろ》国が東松浦《まつら》半島にあったとされているのでしょうか」 「江戸時代以来、そう信じられてきたから、という以外に根拠は一つもありません。しいていえば、マツロとマツラの発音が似ているというくらいのものです」 「それで、つぎの伊都《いと》国以下については、どうなのですか」 「通説では、伊都国は糸島付近、奴《な》国は福岡市の海岸地帯とされています。そのへんは、むかし、那津《なのつ》などとよばれていたことが比定の根拠とされています」 「しかし、魏使《ぎし》の上陸地点が東松浦半島ではありえないとすると、当然、伊都国以下の国の所在地も、かわってきますね」 「そのとおりです。神津さんの推理が冴《さ》えたのは、壱岐から本土に渡る航路に、�冬の航路�と�夏の航路�との二つあることを指摘したことです。  玄界灘《げんかいなだ》は海流も速いし、冬には強い北東風が吹き、安全な航海は望めません。魏使がやって来たのは、間違いなく夏だったでしょう。その場合は、壱岐を出た船はほぼ真東に進路をとり、ちょうど遠賀《おんが》川の河口近くに上陸地点を選んだはずです。  このコースの場合、『魏志』のいう末盧国の所在地は、宗像《むなかた》地方ということになります。そこには、神湊《こうみなと》という適当な港もあります」 「海のことについては、わたくしには、よくわかりませんが、三世紀ごろの渡海技術や水路について研究した歴史学者はいないのですか」 「不思議なことに、だれ一人としていないのです。僕らは、航海の専門家や気象学の専門家に確かめてもらいましたから完璧《かんぺき》です。夏の季節だったら、壱岐から九州に上陸するには、進路を東にとり、神湊付近に達するのが、もっとも自然であることを確認してあります。  この考え方によれば、『魏志』の記事——一大国から末盧国への距離が千余里という点にも完全に一致します」 「すばらしい推理ですね。神津先生が、邪馬台国《やまたいこく》宇佐説をとっておられることは知っていましたが、その論証の土台に、こういう動かすことができない根拠があったということは、いま、はじめて知りました」 「神湊にあった末盧国に上陸してからのちのコースは『魏志』にあるように陸路です。東南方向に五百里で伊都国に至り、さらに東南に百里で奴《な》国に達し、さらに百里ほど東に行くと不弥《ふみ》国に着くとあります。僕らは、地図上で、伊都国は北九州市の東部、奴国は中津市付近、不弥国は豊前長洲《ぶぜんながす》付近と比定しました」 「距離の方は大丈夫なのですか」 「僕らは『魏志』のいう百里を約十五キロとして計算しました。細かい点の説明は省略しますが、自信はあります」 「いえ。そのことではなく、わたくしは正確に覚えておりませんが、『倭人伝《わじんでん》』には、投馬《とま》国や邪馬台国は、ずいぶんと遠くにあるように記されていたと思うのです。それなのに、不弥国のすぐ隣の宇佐に邪馬台国があるとしてもいいのかということです」 「ああ、そのことですか。『魏志』には、不弥国の記事のつぎに、�南のかた投馬国に至る。水行二十日�とあります。そして、�南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月�と書いてあります。しかし、その出発点は書いてありません。  もし、不弥国を出発して、南へ水行十日あるいは二十日も行けば、九州から抜け出してしまうでしょう。  僕らは、�水行十日、陸行一月�というのを、魏使たちの最初の出発点である朝鮮半島の帯方《たいほう》郡——今の韓国《かんこく》のソウル付近からの旅行日数と考えたわけです。 『魏志』には、�帯方郡より女王国に至る、一万二千余里�とあります。ところが、対馬《つしま》・壱岐《いき》などを経て不弥《ふみ》国までの距離を、『魏志』に書かれている数値で計算してみると、一万七百余里になります。  一万二千余里との差は千三百里しかありません。これは、�余里�が累積した結果生ずる誤差の範囲を出ませんから、不弥国のすぐ南に邪馬台国があったとしてもおかしくないし、むしろ、そうあって当然ということになります」 「どうもありがとうございました。ご説明、よくわかりました。それで、世間での反響はいかがでしたのでしょうか」 「それは、三宅さんがまだ高校生になったかどうかのころでしたが、けっこう、賛否両論がありました。方位を解釈するために�黄道修正説�というのを用いたことについてご注意をいただきましたが、それは大局的には別に問題になることではありません。  そのほか、考古学の遺跡の多いのは福岡市周辺であり、例の志賀《しか》の島《しま》から発見された�漢委奴《かん・わ・な》国王�の金印と結びつけ、儺県《なのあがた》があった博多《はかた》湾沿岸を奴《な》国に比定する従来の説に固執する意見は相変わらず、いまもって根を張っているようです」  しかし、自説の不合理さに眼をつぶったままの旧説は、もうそろそろ廃棄処分にしてもらいたいと研三は口にしたかったが遠慮して思いとどまった。 「それで、宇佐が卑弥呼《ひみこ》のいた都ということを証明する積極的な証拠のほうは見つかったのでしょうか」 「そのへんの詰めが今度の研究の課題の一つなのです。僕たちは、あの宇佐八幡の社殿のある亀山(小倉山)こそ卑弥呼の墓という想定はもっています。現に、昭和十五年の社殿の改修の際に、三之御殿の下に石棺《せつかん》があることが確認されています。亀山は直径が八十メートルほどありますから、�径百歩�という卑弥呼の冢《つか》にふさわしいと考えています」  そのとき、恭介が中に割って入った。 「どうも、ご苦労さん。ついでだから、『倭人伝《わじんでん》』に出てくる歴史的記述を年表ふうにまとめてくれないか」 「いいですよ。まず、最初のころは男子が王だった期間が七、八十年あった——とあります。ついで、�倭国乱れ相攻伐して年を経《へ》た�とし、その後に女王|卑弥呼《ひみこ》が共立されています。中国史の時代でいうと、前漢の桓帝《かんてい》と霊帝《れいてい》のころといいますから、二世紀の後半ですね。だいたい一七〇─一八〇年を含むころに倭国に大乱があったとしています。  つぎが、景初三年、これは二三九年です。倭の女王が大夫・難升米《なしめ》らを帯方郡に派遣して魏《ぎ》に朝貢《ちようこう》を求めています。魏は帯方太守劉夏《りゆうか》を倭に寄こし、�親魏倭王《しんぎわおう》�の金印紫綬《きんいんしじゆ》を下賜《かし》し、難升米《なしめ》らに褒賞《ほうしよう》を与え、卑弥呼には銅鏡百枚のほか、多くの品物を贈っています。  それから、正始元年ですから二四〇年には、帯方太守|弓遵《きゆうじゆん》らを倭に派遣し、詔書と印綬や下賜品を授けました。そして、その三年後に、倭国から大夫|伊聲耆《いせき》と掖邪狗《えきやく》ら八名が魏に朝貢しています。  このころ、倭は狗奴《くな》国と戦闘状態にありました。二四五年には、難升米に黄幢《おうどう》を賜《たまわ》っています。黄幢とは軍旗のことですから、卑弥呼は魏の官軍として狗奴国と戦ったことになります。そして、二年後に、張政《ちようせい》が派遣され、�檄《げき》を為《つく》って告喩《こくゆ》す�とあります。  卑弥呼の死んだ年は書いてありませんが二四七年か八年のことです。男王が立てられたものの国中服せず、殺し合いがおこり、千余人が殺されています。張政らは、卑弥呼のあとを嗣《つ》いだ十三歳の宗女・台与《とよ》にたいし、�檄《げき》を以《もつ》て告喩�しています。  なお、その二十年近く後の二六五年には、邪馬台女王が西晋《せいしん》に入貢したということが、別の中国史書にあり、以後、五世紀まで、倭国に関する記事は中国の史書から姿を消してしまいます。そのため、�謎《なぞ》の四世紀�といわれることになります」 「どうも、ありがとう。つまり、魏使《ぎし》が九州にあった倭国すなわち邪馬台国《やまたいこく》の姿を、自分の目で見たのは、三世紀前半ということだね」  恭介は、洋子のほうをふり向くと、さりげない口調でたずねた。 「洋子さん。いまの松下君の説明をきいて、ご感想はいかがでしたか」 「はい。とても感銘いたしました。わたくしは、邪馬台国論争について、深く研究したことはありませんが、大和《やまと》(奈良県)説の成立しないことは確実だと思っていました。『魏志《ぎし》』に�南�とあるのを、勝手に�東�と読み換えるのは論外ですし、邪馬台国の東には海があり、さらに、いくつかの�倭種の国�がなければいけないのですが、大和説はそういう点を無視しています。  また、邪馬台国が大和朝廷の先祖であったとし、倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》あたりが卑弥呼《ひみこ》であったという説もあるようですが、だとしたら、『古事記』や『日本書紀』に、少しは邪馬台国の痕跡《こんせき》が残っていてもよさそうですが、それもありません。  邪馬台国九州説もいろいろあるようですが、東に海があるという点からも、宇佐《うさ》説が最有力だとは、かねがね思っていました。いまのご説明をうかがって、やっと確信がもてました」  このとき、恭介は、そっと左手の親指と人差し指で輪をつくり、洋子には気づかれないように研三に向かってサインを送った。それは、�合格�という意味だった。これなら、今後、共同研究会を続けていけるという判断をくだしたのだった。  洋子は、それとは知らず、感想を続けた。 「わたくしが、一番面白いと思ったのは、魏使が上陸した地点が、神湊《こうみなと》だったという点です。つい先ほど、宇佐八幡の祭神の比売《ひめ》大神が宗像《むなかた》三女神であると申しましたが、その三女神の一人の多岐都《たぎつ》姫を祀《まつ》る辺津《へつ》宮が、この神湊付近にあることです。しかも、三女神は、�葦原《あしはら》の中つ国の宇佐嶋に天降《あまくだ》りした�という『日本書紀』の記事と、魏使の神湊上陸説・邪馬台国の宇佐説とがピッタリと一致するのにはおどろきました」 「そこでだね、三世紀に邪馬台国が宇佐にあったことは確定したとして、それが四世紀・五世紀という時代には、どうなっていったかを解明しようということが、僕らの当面する課題なのだけれど、洋子さん、どうだろう。何か、参考になる説はないかしら」 「その点については、邪馬台国《やまたいこく》宇佐説をとっている人で、面白いことをいっているのがあります。まず、それをご紹介しましょう。  北九州市にお住いの元読売新聞記者だった安藤輝国《あんどうてるくに》さんという方です。今日、ここにその方のご著書をお持ちしました」  洋子は『邪馬台国は秦族に征服された』という題名の書物を恭介の前にさし出した。 「中身は、ゆっくりごらんいただきたいと思いますが、この本の概略を申しますと、二、三世紀のころ、周防灘《すおうなだ》に面した北九州には秦《しん》王国と邪馬台国とがあった——というのです。山国《やまくに》川から北西に秦王国という国があったというのです」 「ほう。秦王国ね。それは面白そうだ。ぜひ、聞かせてください」 「はい。時代は少しのちのことになりますが、中国の『隋書《ずいしよ》』という本に、七世紀はじめの倭国のことが書いてあります。そのなかに、文林郎裴清《ぶんりんろうはいせい》(『書紀』では裴世清《はいせいせい》)が、竹斯《ちくし》(筑紫《つくし》)の国に上陸したのち、�東して秦王国に至る。その人、華夏《かか》と同じ�という一文があるのです。  竹斯を福岡県西部とすると、その東は福岡県東部か大分県の北部です。華夏というのは中国のことですから、七世紀のはじめに、九州の東北部に中国人が住んでいたというのです」 「間違いないのかい。その秦《しん》王国という国の位置がいまの九州の東北部であるということは」 「まず、間違いありません。その文の続きに、�さらに十余国を経て海岸に達する�としてあり、�竹斯国以東はすべて倭国に属する�とありますから。隋の使いは、たぶん、宇佐付近から船に乗って瀬戸内海を横切って大阪湾の海岸のどこかに上陸したはずです」 「それで、洋子さん、あなたは秦王国とはなんだったと思うの? 中国人の国があったなどということを信じられるのかい」 「秦《しん》王国イコール秦《はた》氏の国というのでは安易すぎる、といわれそうですが、それ以外には考えられません。秦の始皇帝の子孫が朝鮮《ちようせん》半島に逃げたことは、じゅうぶんにありうることですし、その人たちが中国風の文化を持ち続け、九州に移ってのちまで、それを維持してきた——そう考えてはいけないでしょうか? 秦の滅亡は紀元前二〇六年で、隋使が来たのは六〇八年のことですから、その間、八百年になります。ちょっと無理でしょうか」 「うーん。ちょっと信じにくいなあ。でも、まあいいとしよう。それで、安藤氏は秦王国がどうだというのだね」 「安藤氏は、この秦王国の南東、つまり、宇佐や国東《くにさき》半島の一帯に邪馬台国があったとしています。そして、三世紀の半ばごろ、魏使《ぎし》が帰国し、宗女・台与《とよ》が卑弥呼《ひみこ》のあとをついでから、秦《はた》族が邪馬台国を征服してしまった——というのが安藤氏の見解です」 「そうすると、安藤氏のいう秦《しん》王国の位置は、僕らの説の奴《な》国か不弥《ふみ》国のあたりということになるね。それで、秦王国はどんな国だったというのだね」 「お読みになればわかりますが、秦《はた》族は金属工芸の技術に優れ、武力も強く、現在は椎田《しいだ》町とよばれている土地で、当時は、綾幡《あやはた》郷という名であった所に、秦族の本拠が置かれていたというのです。  しかも、そこには矢幡《やはた》宮というお宮があります。それが八幡宮《やはたのみや》の元祖だと、安藤氏はいっています。八幡《やはた》は、�八つの旗�でもあったと解釈しています。これが、宇佐八幡《うさはちまん》の起源ということです」 「それで、その安藤氏は、秦《はた》族と結びついたのは辛島《からしま》氏だったというのかい」 「いいえ、そうではなく大神《おおが》氏で、秦《はた》・大神《おおが》勢力が宇佐にあった邪馬台国を征服したというのです」 「まあ、いい。その本については、いずれ読ましてもらおう。ここでは、中国系の文化を持った一族が、宇佐の北のほうのどこかに住んでいたという事実だけ記憶しておくことにしようじゃないか。それから、さっき話に出てきた中野幡能《なかのばんのう》という、宇佐八幡の研究の第一人者という人の説はどうなのかい」 「はい、豊前《ぶぜん》国の下毛《しもつみけ》郡(大分県)と同じく上毛《かみつみけ》郡(福岡県)の一帯に『山国《やまくに》』という国があったとしています。ちょうど、山国川をはさんだ両岸の一帯です。そして、その北方には『豊国《とよくに》』という国があったというのです。この二つの国が合体して、『山豊国《やまとよこく》』ができ、それが邪馬台国《やまたいこく》だったというのです」 「ヤマ・トヨ国すなわちヤマタイ国というわけだね。単なる語呂《ごろ》合わせではあるまいね」 「はい。中野先生は、全国の神社の宗教儀礼などをくわしく調べて、邪馬台国のシャーマニズムにふさわしい内容の儀式があるのは宇佐八幡だけだとしています」 「なるほどね。洋子さんは宗教のことも研究しているということだから、この説には賛成なのではないの」 「はい。反対する根拠はありませんし、邪馬台国宇佐説の有力な証明手段になっていると思っております」 「そのほかに、邪馬台国宇佐説についての有益な意見はないのかい」 「はい。東洋大学の市村其三郎《いちむらきさぶろう》先生は、宇佐八幡の社殿のある菱形《ひしがた》山(亀山)は古墳であって、そこには邪馬台国女王の卑弥呼《ひみこ》が眠っていると説いておられます」 「僕らもね、宇佐八幡に行ったとき、現地の人の説明を聞いたよ。昭和八年から十七年にかけて、神宮の大修理をしたとき、社殿の下にりっぱな石棺《せつかん》があるのを目撃したという人物にも会ったのさ。宇佐八幡宮のある岡が大古墳であることは間違いないと思うよ」  松下研三も、恭介といっしょに宇佐に行き、「この神殿の下に卑弥呼の霊が眠っているのだ」ということを確信したときの感動を思い出した。 「まあ、この件は、いつの日か宇佐八幡についての学術調査が許されて、石棺の蓋《ふた》が開けられ、そこから�親魏倭王�の金印でも見つからない限り、最終的な証明はできないわけだ。�最後の鍵《かぎ》は地下にあり�ということにしておこうじゃないか」  五 天《あめ》の日矛《ひぼこ》の謎《なぞ》 「ところで、三宅《みやけ》さん。あなたは、天《あめ》の日矛《ひぼこ》の子孫だといいましたね。それは本気で信じているのですか」  恭介は、あらたまった口調で洋子に問いかけた。 「はい。文献上の事実に基づいて、そう申し上げました」 「ほう。そうすると、お宅《たく》には系図でものこっているわけ?」 「いいえ、三宅氏がヒボコ——これからは単にヒボコということにします——の子孫であることは、『日本書紀』の垂仁《すいにん》天皇の記事の最後のところに、�田道間守《たじまもり》は、是《こ》れ、三宅連《みやけむらじ》の始祖なり�と明記されています。  田道間守という人は、ヒボコの子孫で、垂仁天皇の命令で、常世国《とこよのくに》に非時香果《ときじくのかぐのみ》を求めて出かけ、十年後に、やっと香果《かぐのみ》を手に入れて帰ってきたところ、天皇はすでになくなっていたので、陵《みささぎ》の前で泣き伏し、首をくくって自殺したという話のある人物です」 「常世国《とこよのくに》というのはどういう国だろうか」 「そうですね。いつも太陽が照っている暖《あたた》かい国、南方の国でしょうか。また、非時香果《ときじくのかぐのみ》というのは甘橘類《かんきつるい》の一種で、美味《おい》しい蜜柑《みかん》なのか、それともマンゴーかパパイヤのようなものかもしれません」 「それで、田道間守《たじまもり》がヒボコの子孫ということは、『書紀』には書いてあったっけ」 「はい。垂仁天皇紀の三年春三月の条に、�新羅《しらぎ》王の子の天日槍《あめのひぼこ》がやって来た�と書かれてあります。そして、その末尾に、ヒボコは、但馬《たじま》(兵庫県)の出石《いずし》の太耳《ふとみみ》という人の娘で麻多烏《またお》という女を娶《めと》り、但馬諸助《たじまもろすく》を生み、以下、日楢杵《ひならき》、清彦《すがひこ》、田道間守《たじまもり》というふうに子孫の名が明記されています。  ただし、『古事記』のほうでは、ヒボコに関する記事は、応神《おうじん》天皇の項の終わりのほうに、�昔《むかし》、新羅の国王《こにきし》の子、天の日矛《ひぼこ》、まい渡りつ�と記され、子孫の系譜も、『書紀』より一代多く、多遅摩母呂須玖《たじまもろすく》(但馬諸助)と多遅摩比那良岐《たじまひならき》(日楢杵)の間に、斐泥《ひね》という人物が入っています」 「なるほどね。三宅氏がヒボコの子孫だということの証拠は、ほかにはないの」 「平安時代に作られた、各氏族の出自を記録した『新撰姓氏録《しんせんしようじろく》』には、�右京・下・諸蕃《しよばん》�として、摂津《せつつ》の国(兵庫─大阪)に三宅連《みやけむらじ》があり、大和《やまと》(奈良)に糸井連《いといむらじ》があって、ともにヒボコの子孫であると明記されています」 「それなら確実だね。僕らは、ヒボコというのは伝説上の人物にすぎないと思っていたよ。それなのに、洋子さんがその子孫だというので、これは�神懸《かみがか》り�かな、と心配したわけさ」  恭介は、あっさりといってのけた。 「それで、ヒボコの子孫は、この二つの氏族以外にはないの?」 「そうなんです。わたくしの考えでは、ヒボコは但馬《たじま》(兵庫)の出石《いずし》を根拠地とし、相当範囲にわたる王国を建てていたと思うのですが、その子孫の家系で文献的に伝わっているのは、ヒボコ直系の但馬(多遅摩)氏以外にはたった二氏族しかないので、それが不思議でならないのです。  三宅氏の出身者は、和銅七年(七一四年)に、勅命で紀《きの》朝臣清人《あそんきよひと》といっしょに�国史�を撰《せん》した三宅|藤麻呂《ふじまろ》をはじめ、奈良時代や平安時代の歴史の書物に何人か出てきますし、中世では、後醍醐《ごだいご》天皇に仕《つか》えた児島高徳《こじまたかのり》や、戦国の武将で�関《せき》が原《はら》の合戦�に敗れて八丈島《はちじようじま》に流された宇喜多秀家《うきたひでいえ》なども三宅氏の同族とされていますけれど——」  恭介と研三がいだいた洋子についての疑問は一応は解消した。しかし、これからの研究に関して、ヒボコという謎《なぞ》の人物の存在がどういう意味をもつかについては、いまのところ、なにもわかっていない。  ただ、宇佐に近い姫島に、ヒボコと同一人物と思われる都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》の愛する女がやって来ているということだし、日本古代史全体の実像を明らかにしようというのなら、とりあえず、話題となったヒボコのことについて、もう少し話を聞いてみようということになった。 「どうだろう? 洋子さん。ずばりいって、ヒボコと邪馬台国《やまたいこく》宇佐説というか、僕らのこれからの研究と、何か関係がありそうかしら」  恭介は、率直に質問した。 「おおいにある、のではないでしょうか。そこに、『日本書紀』がありますね。ちょっと、仲哀《ちゆうあい》天皇の二年の所を開いてみてください。よろしいですか。仲哀天皇が、角鹿《つぬが》(現福井県の敦賀《つるが》)に行幸し、笥飯《けひ》(気比)の宮という行宮《あんぐう》(臨時の皇居)を建て、そのあと、淡路《あわじ》を経て紀伊《きい》(和歌山県)に移ったところ、熊襲《くまそ》が九州で叛乱《はんらん》をおこしたという情報が入ります。  そこで、天皇は長門《ながと》(山口県)の穴門《あなと》に出かけます。穴門というのは、いまの下関《しものせき》のあたりです。そして、神功《じんぐう》皇后を角鹿から呼びよせ、豊浦宮《とゆらのみや》に入ります。そこで六年の歳月が過ぎたことになっています。  八年の正月になると、仲哀天皇と神功皇后は筑紫《つくし》に出向《でむ》きます。このとき、崗《おか》の県主《あがたぬし》の祖先の熊鰐《くまわに》という人物が、天皇と皇后とを出迎えています。崗《おか》というのは遠賀《おんが》川の河口のことです。神武《じんむ》天皇の東征のときにも、日向《ひゆうが》から宇佐を経て、崗水門《おかのみなと》に立ち寄ったとありますね。そこが宗像《むなかた》海人族の根拠地として重要な地点だったことがわかります」  そこは、恭介と研三が『邪馬台国の秘密』の研究で魏使《ぎし》の上陸した地点とした神湊《こうみなと》の近くにあたる。 「ところで肝心なのは、そのつぎです。読んでみましょう。�又《また》、筑紫《つくし》の伊覩県主《いとあがたぬし》の祖の五十迹手《いとで》、天皇の行《いで》ますを聞《うけたまわ》りて、五百枝《いほえ》の賢木《さかき》を抜《こじ》取りて、船の舳艫《ともへ》に立て、上枝には八尺瓊《やさかに》を掛け、中枝には白銅鏡《ますみのかがみ》を掛け、下枝には十握剣《とつかのつるぎ》を掛け、穴門の引《ひけ》島に参迎《むか》え献《たてまつ》る�と記されています。そして、少しあとのほうに、�天皇、即《すなわ》ち五十迹手《いとで》を美《ほ》めたまいて伊蘇志《いそし》と曰《い》う。故《か》れ、時の人五十迹手が本土《もとつくに》を号《なづ》けて伊蘇《いそ》国と曰《い》う。伊覩《いと》と謂《い》うは訛《よこなま》れるなり�となっています。  この文中で、�伊蘇志《いそし》�というのは、�よく勤《いそし》んだ�という褒《ほ》め言葉です。しかし、�伊覩《いと》が訛《なま》りで、伊蘇が正しい�というのは地名起源説話で、作り話でしょう」 「伊覩《いと》といえば、『倭人伝』に出てくる伊都《いと》国が連想されるね。僕らは、伊都国は関門《かんもん》海峡の西側にあったとしたのだけど、この五十迹手《いとで》という人物は、旧伊都国王の子孫に相当すると考えてよさそうだね」 「はい。そのとおりでしょう。多くの人も同じように考えています。ただし、伊都国の所在地を福岡の糸島付近としている点は違いますが——。ところで、この五十迹手《いとで》という人物は、実《じつ》はヒボコの子孫なのです」 「ほんとうかい。それには確実な証拠でもあるの?」  恭介も、さすがにおどろいたらしく問いただした。 「はい。それがなくては、お話になりません。はっきりと書いてある本があります。お手もとに『風土記《ふどき》』がありましたね。その終わりのほうに『筑前国風土記』の逸文《いつぶん》がのっているはずです。ちょっと読んでみていただけませんか。いまの『日本書紀』の文とそっくりの文がありますね。よく注意してごらんください。�五十迹手|奏《もう》ししく、高麗《こま》の国の意呂《おろ》山に、天より降り来し日桙《ひぼこ》の苗裔《すえ》、五十迹手|是《これ》なり�と書かれています」  これには、研三は仰天した。いままで、正体不明だった新羅《しらぎ》の王子の実像がはっきりと浮かんできたように思えたからだ。 「意呂《おろ》山というのは、朝鮮半島の東海岸で南寄りの蔚山《うるさん》のことです。例の加藤清正が朝鮮に出陣したとき、籠城《ろうじよう》して苦戦した所です。新羅《しらぎ》の都の慶州からもそう遠くありません」(*地図参照)  研三は、次第に感動を覚えてきた。それはヒボコが応神《おうじん》天皇や神功《じんぐう》皇后と密接につながっていて、これからの問題解決に役立ちそうだということだけではない。  もっと衝撃的だったのは、伊都《いと》国と穴門《あなと》(下関)が結びついたことだった。魏使《ぎし》の神湊《こうみなと》上陸説、邪馬台国《やまたいこく》宇佐説による伊都国は、穴門(下関)の対岸に比定したことが正しかったことになる。  洋子は、さらに話題を進めていった。そして、『日本書紀』の垂仁《すいにん》天皇の二年の個所を開くように求めた。 「ここに、例の都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》の記事があります。�亦《また》の名は于斯岐阿利叱智干岐《うしきありしちかんき》と曰《い》う�とありますね。その続きに、�穴門《あなと》に到《いた》る時《とき》に、其《そ》の国に人|有《あ》り、名は伊都都比古《いつつひこ》、臣に謂《かた》りて曰《いわ》く、吾《あ》れは則《すなわ》ち是《こ》の国の王なり。吾《あ》れを除《お》きて復《ま》た二の王あらむ�などといい、自分こそ日本国王だと称しています。  しかし都怒我阿羅斯等は、伊都都比古の人相から判断して、国王たるべき人ではないとし、出雲《いずも》を経て角鹿《つぬが》(敦賀《つるが》)に来たというのです」 「面白いね。この伊都都比古も、やはり伊都国王の子孫ということになるね。ヒボコの話と都怒我阿羅斯等の話は、きっと一つの出来事を、二とおりの言い伝えによって、別の話として記録したのだろうね」  洋子は、さらに話を進めた。 「そのほかにも、重大なことがあります。神功皇后と応神天皇とは、ヒボコすなわち都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》と、もう一つ別の糸で結びついているのです。お手もとの『日本書紀』の誉田天皇の最初のページをお開《あ》けください。その七、八行目ですか。�故《か》れ其《そ》の名を称《とな》えて誉田《ほむた》天皇と謂《い》う�という本文の続きの所を読んでみましょう」  誉田天皇というのは応神天皇のことだ。宇佐八幡の第一の祭神である天皇の倭風《わふう》名だ。  そこには、次のように書かれていた。   「上古の時俗《ひと》、鞆《とも》を号《い》いてホムダと謂《い》う。一に云《い》う。初《はじ》め天皇、太子として越国《こしのくに》に行《いで》まして、角鹿《つぬが》の笥飯《けひ》大神を拝み祭りたまう。時《とき》に大神、太子と名《みな》相|易《か》えたまう。故《か》れ、大神を号《なづ》けて去来紗別《いざさのわけ》神と曰《い》い、太子をば誉田別尊《ほむたわけのみこと》と名づく。然《しか》らば則《すなわ》ち大神の本名を誉田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂《い》うべし」  研三も、この記事なら読んだことがあったのを思い出した。そのときは、皇太子が神社の祭神と名前を交換したとは奇妙な話だ、くらいにしか思わなかったし、応神《おうじん》天皇のことを誉田《ほむた》天皇ということは、世界最大級の応神天皇陵のあるとされている場所の地名に誉田(コンダ=大阪府羽曳野市)という名があることから、きわめて自然に納得《なつとく》していた。  しかし、名前を交換した相手の神が、都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》を祀《まつ》っている角鹿《つぬが》(敦賀《つるが》)の気比《けひ》神社の祭神であったとなると話が違ってくる。 「よろしいでしょうか。皇太子当時、といっても、三歳で立太子をした直後のことかと思われます。この話が事実としたら、おそらくは母親である神功皇后に連れられて、立太子の報告のお宮詣《まい》りというか、たとえていえば、本家の当主の所にご挨拶《あいさつ》にうかがったというような感じの話です。いったい、これはどういうことなのでしょうか?」  洋子は疑問を投げかけたまま、しばらくのあいだ、沈黙した。恭介は眉《まゆ》一つ動かさず、瞑想《めいそう》にふけっているかに見えた。 「まだ、いまのところ、何ともいえないな。その去来紗別《いざさのわけ》という名には、どういう意味があるのかね。他の人物とか地名で、イザサという名があるとか、そういうことはないの?」 「はい。じつは、おおいにあるのです。まず、活目入彦《いくめいりひこ》五十狭茅《いさち》天皇——第十一代の垂仁《すいにん》天皇のページを見ていただきましょう。その三年春三月の個所をごらんください。そこにはつぎのように書かれています」  洋子の指摘した記事というのは、  「新羅王の子|天日槍《ひぼこ》|来帰《まい》けり。将来物《もてきたるもの》は、羽太玉《はぶとのたま》一箇、足高玉《あしだかのたま》一箇、鵜鹿鹿赤石《うがかのあかいし》の玉一箇、出石《いずし》の小刀《かたな》一口、出石桙《いずしほこ》一枚、日鏡《ひかがみ》一面、熊神籬《くまのひもろぎ》一具、併せて七物《ななくさ》あり。則ち但馬《たじま》国に蔵《おさ》めて常に神物《かみつもの》と為《な》す」  これはヒボコが朝鮮《ちようせん》から運んで来た宝物のリストで、以後、ヒボコの子孫がたいせつに保管してきたということを述べているにすぎない。これが何だというのだろう。 「じつは、その続きの�一に云《い》う�の個所が問題なのです。ヒボコは、自分の国を弟の知古《ちこ》に預けて日本にやって来た、と記してありますね。その続きに、持参品の名があげられていますが、本文は七種類の宝なのに、この�一に云《い》う�のほうは八種類になっています。つまり、最後に一つ、�膽狭浅太刀《いささのたち》�というのがあります。これは、どういうことでしょうか?」 「ごく常識的に考えて、ヒボコは八種類の宝物を持って来た。そのうち七種類はヒボコの子孫が保管し、イササの太刀だけは神功《じんぐう》皇后に伝えられ、皇子が生まれると太刀の名をとってイザサワケと名づけ、その後、気比の神と皇子とが名前を交換した——そんなふうに考えてはどうかな?」 「そのへんは、ご想像にお任せするとしまして、イササ、あるいはイザサに関係のありそうな個所をもう少しお目にかけましょう」  洋子は、そういうと、いま読んだ文の少し先のほうの個所をきれいな人差し指で示した。 「天の日槍《ひぼこ》に詔《みことのり》して曰《いわ》く。播磨《はりま》の国の宍粟邑《しさわむら》、淡路島の出浅邑、是《こ》の二邑は、汝《なんじ》、意のままに居《はべ》れ——とあります。この「出浅」という文字はイデサと読むようですが、イザサと同じとも思えます。ただし、その場所は、いまの淡路島中を探しても見つかりません。  ヒボコは、その後、菟道《うじ》(宇治)川を遡《さかのぼ》って、淡海《おうみ》(滋賀県)の吾名邑《あなむら》に住み、さらに若狭《わかさ》の国(福井県西部)を経て但馬《たじま》の国(兵庫県北部)に入り、出島《いずしま》の人の娘を娶《めと》って定住したように書かれていますね。その出島は、兵庫県の京都府との県境に近い出石《いずし》であることは間違いありません。  今日でも、出石町から豊岡市にかけての一帯には、ヒボコやヒボコの子孫と伝えられる人を祀《まつ》った神社が数多くあります」 「その出石《いずし》も発音が、なんとなくイザサに似かよっているね」 「そうなのです。ヒボコが通ったとされている地方には、いまでも、出井《いずい》(山口県)とか出石《いずし》(愛媛県)というように、六県にわたって二十か所ほどヒボコと結びつきそうな名前をもった土地があります」 「ところでイザサとかイササとは、なんのことだろうね。誰《だれ》か、うまく説明している人はいないのかい?」 「定説はありません。琵琶湖《びわこ》に住む細身の魚の名だという人もいますし、�イ�は接頭語で�サ�は鉄を意味する朝鮮語、もしくは、新羅《しらぎ》を意味する�ソ�という語である——という見解を述べている人もいます」  恭介もこの問題はさすがに手におえないと思ったのだろう。洋子に向かって、さりげなく話の進行を求めた。 「ヒボコについての『書紀』や『古事記』の記事は、大した内容はないようだけど、それ以外の文献でヒボコの実像にせまることはできないのかい」 「はい。前に申しましたように、わたくしの先祖のことですから、学問上の興味とは別の観点からも、ずいぶんと調べてみました。『風土記』だけでも、播磨国《はりまのくに》(兵庫県)について五か所ほど、ヒボコに関係のありそうなことが記されています。餝磨《しかま》(飾磨)郡に新良訓《しらくに》という地名があって新羅の人が宿《やど》ったとか、葦原《あしはら》の志挙乎命《しこおしみこと》つまり大国主命《おおくにぬしのみこと》がヒボコと激しく戦ったとかいう記事があります。  そのなかに、ヒボコの軍勢が八千人いたので八千軍野《やちくさの》という地名が生まれたと書かれていますから、ヒボコは侵略者的な性格をもっていたと考えられます」  どうやら朝鮮から阿加流比売《あかるひめ》という美女を追って日本にやってきたというロマンチックな話では済《す》みそうにない。研三には、次第に、ヒボコの存在の意味が大きく感じられてきた。しかし、洋子は、そしらぬ顔で、さらに重大な指摘をした。 「神功《じんぐう》皇后には、ヒボコの血が流れているのです。この系図(*参照)をごらんください」    ・  ・    ・  ・  洋子が示したメモによると、神功皇后は息長宿禰《おきながすくね》と葛城高額《かつらぎのたかぬか》姫のあいだの子とされている。息長氏は近江《おうみ》(滋賀県)の豪族で、丹波《たんば》・山城《やましろ》(京都府)の豪族とも親戚《しんせき》になっている。ところが、葛城高額姫はヒボコの子孫とある。  こうなると、宇佐《うさ》八幡や応神《おうじん》天皇のことについて、なにかを論ずるには、ヒボコを抜きにしては語ることができないのではないか。伊覩県主《いとあがたぬし》の祖の五十迹手《いとで》が神功皇后を出迎えに来たのは、つまりは同族のよしみということになってくる。  恭介は、話の進行をうながした。 「それでは、ヒボコについて、そのほか、わかっていることは何もかも話をしてほしいな。どうやら、ヒボコは相当の人数を引き連れてやって来たらしいし——」 「はい。『日本書紀』には、�近江《おうみ》国(滋賀県)の鏡村の谷《はざま》の陶《すえ》人はヒボコの従者である�と記されています。陶人とは、陶器の製作者のことです。弥生《やよい》時代の素焼の土師《はじ》器ではなく、高温度で焼いた硬質の須恵《すえ》器は、五世紀ごろから作られるようになりました。その技術者をヒボコが連れて来たということでしょうか」 「ヒボコは朝鮮半島から優秀な技術者を連れてやって来たというわけだね。わが国のほうでは、ヒボコを歓迎したのだろうか」  洋子は、この質問に対し、断定的な答えを避けて、さりげなくいった。 「その点については、先ほどのヒボコの神宝の後日談がありますので、『書紀』の垂仁《すいにん》天皇八十八年の条をごらんいただきましょう。天皇は、�出石にあったヒボコの神宝を見たい�といいだし、ヒボコの三代あるいは四代の子孫の清彦《すがひこ》に命じてそれを献上するよう求めたのです。清彦は小刀だけは手もとに残しておこうとして衣類の中に隠し、それ以外の宝物だけ献上したものの、酒の席で衣から小刀が現われてしまい、やむなく、それも献上し、天皇の宝庫に収めたところ、いつのまにか小刀は消え失《う》せ、清彦の家に帰ってきた、というのです。その後、その小刀は自然に淡路島にやって来た、というふうに記されています」 「つまり、ヒボコの子孫は大和王朝には服属していたというように書いてあるわけだね。しかし、さっきの『播磨国風土記《はりまのくにふどき》』の話では、八千人の軍勢を率《ひき》いていたというじゃないか」 「ヒボコが背景に大きな軍事力を持っていたことは事実だと思います。しかしそれよりも、金属精錬技術のほうが重要ではないでしょうか。これは、民俗学者の谷川健一《たにかわけんいち》氏の説ですが、鳥取県の宇部《うべ》神社の祭祀《さいし》をつかさどる伊福部《いふくべ》家の系図の第四代目に、天日杼命《あめのひぼこのみこと》の名があるというのです。  この伊福《いふく》というのは�息吹《いぶ》き�、つまり金属精錬のためのフイゴにつながる名だ、といいます。全国の伊福に通ずる名をもつ場所からは、必ずといっていいくらい銅鐸《どうたく》が出土しています。谷川氏の著書の『青銅の神の足跡』というご本には、天《あめ》の日矛《ひぼこ》が青銅器だけでなく、鉄器を作る技術を持った集団を引き連れていたことが詳《くわ》しく述べられています。  陶邑《すえむら》の住人がヒボコの従者だとありましたが、須恵《すえ》器を製造するのに必要な火力は、鉄の製錬のためのものとも共通しますから、その意味で、ヒボコ族は製鉄・製陶集団という性格をもっていたことは確実です」 「では、ヒボコの勢力というか、彼の子孫たちは、どのくらいの範囲に文化的あるいは経済的な影響力をもっていたのだろうか」 「先ほどもいいましたが、�イザサ�に通ずる地名のある地方、つまり、但馬《たじま》(兵庫県)の出石《いずし》を中心とし、播磨《はりま》・丹波《たんば》・摂津《せつつ》・山城《やましろ》(兵庫・大阪・京都)だけでなく、加賀《かが》・能登《のと》(石川)、越前《えちぜん》・若狭《わかさ》(福井)、近江《おうみ》(滋賀)、淡路《あわじ》(兵庫)から、ひょっとすると吉備《きび》(岡山─広島東部)あたりまで、ヒボコ系の先進文化の影響を受けていたという可能性は、かなり高いと思います。そのことを実証することは、なかなかむずかしいとは思いますが、わたくしには、ヒボコの一族は相当の大勢力だったような気がします」 「まあ、その件は宿題にしておいて、おいおい考えることにしよう。ところで、ヒボコと同一人物だという都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》という人物だけど、何となく名前が日本語的に聞こえるのだが、どういうものだろう」 「はい、それは�角《つの》がある人�ということだと解釈する人があります。『書紀』にも、�額《ひたい》に角《つの》ある人�と書かれていますし、別の名を于斯岐阿利叱智干岐《うしきありしちかんき》というとあります。干岐《かんき》は朝鮮の王族名に付す称号で、于斯《うし》は牛のことでしょう。つまり、牛の角のような冠《かんむり》を頭にかぶっていたのだと思います。  また石川県の鹿島郡中島町の熊木《くまき》という所に、久麻加夫都阿良加志比古《くまかぷとあらかしひこ》という社《やしろ》があります。この神社にも、都奴加阿良斯止《つぬかあらしと》が祀られています。加夫都《かぶと》は頭にかぶる兜《かぶと》で、たぶん、牛の角の形をしていたもののことでしょう。それに、都怒我阿羅斯等を祀《まつ》っている気比《けひ》(笥飯)神社は、越前(福井)の角鹿《つぬが》(敦賀《つるが》)だけではなく、但馬の城崎《きのさき》(兵庫県の北端)にもあります」 「さっき、洋子さんは、ヒボコの子孫が三宅氏と糸井氏の二つしかないといったけれど、ヒボコ系の地名は多いともいったね。そのへんのところを、もう少し話してくれないか」 「はい。ヒボコに関係のある地名や神社は数多く分布しています。神功《じんぐう》皇后を出した息長《おきなが》氏は、琵琶湖《びわこ》の東岸のいまの米原《まいばら》の付近の坂田郡に勢力をもっており、ヒボコの一族と婚姻関係を結んでいたようです。六世紀の敏達《びたつ》天皇の皇后は息長真手《おきながまて》王の娘の広姫《ひろひめ》ですし、七世紀の舒明《じよめい》天皇は息長足日広額《おきながたらしひひろぬか》という名です。もし、息長氏をヒボコの同族と考えると、大和王朝には、相当に色濃く、ヒボコ系の血が混じっているということになります」 「そこでだね、ヒボコがわが国に渡来してきたのはいつごろのことだろうね」 「それについては、『日本書紀』では、垂仁《すいにん》天皇の三年と記してありますが、もう少し前の時期でないと話が合いません。というのは、例の�ヒボコの神宝�の献上の事件が、垂仁天皇の八十八年になっているからです。この年は、田道間守《たじまもり》が�非時香果《ときじくのかぐのみ》�を探しに出かける二年前です。そして、田道間守はヒボコの四代あるいは五代後の子孫です。神宝献上の年を起点にして逆算すると、ヒボコの渡来は、それより百年ほど前でないとおかしいことになる、と思います」 「それはそうだろう。それで、垂仁天皇の在位はいつごろになるかな」 「はっきりとはいえませんが、三世紀後半から四世紀の前半といったところでしょうか」 「だとすると、ヒボコの渡来は、魏使《ぎし》が邪馬台国《やまたいこく》に来た三世紀半ば近くよりも以前ということになるね」  研三には、恭介が確認したかったのは、伊都《いと》国王とヒボコの関係のことだろうと想像した。そこで、研三は洋子に質問してみた。 「ヒボコの話は、とても参考になりました。なにしろ、宇佐八幡の祭神にもなっている神功皇后がヒボコの子孫であり、どうやら伊都国王もヒボコの血縁者らしいということですから——。ところで、歴史学者はヒボコのことをどう扱っているのですか」 「それが、完全に無視なのです。たいていの書物には、ヒボコのことは一行も書かれていません。たまに、ヒボコに触れている論文でも、�もとより朝鮮文化の渡来に関する伝説であって……�というふうに断《ことわ》り書きをつけ加えています。なにも、わたくしがヒボコの子孫とされる家に生まれたからいうわけではありませんが、歴史上の人物の固有名詞としてヒボコを認めようとしない態度は、真実の歴史の解明にとって、重要な鍵《かぎ》を自ら放棄することではないかと思っています」 「どうだろう。このほかに、洋子さん、なにかつけ加えることはないかしら」 「わたくしが一度、�あれっ�と思ったことはあります。『古事記』の第六代目の孝安《こうあん》天皇のところに、姪《めい》の忍鹿比売命《おしかひめのみこと》に産ませた皇子として大吉備《おおきび》の諸進命《もろすすのみこと》という名があるのです。吉備《きび》(岡山県—広島県東部)は、ヒボコのいた但馬《たじま》(兵庫県北部)から遠くはないし、ヒボコの子が但馬諸助《たじまもろすく》なので、ちょっと気にはなりました。  また、『古事記』の出雲《いずも》の国譲りの話の中で、建御雷神《たけみかずちのかみ》が出雲に談判に行き、十掬《とつか》の剣《つるぎ》を砂の上に立てたという場所が伊耶佐《いざさ》(伊那佐《いなさ》)の浜となっていることも、やはり気になります」  洋子のこの二つの指摘は、あとで、古代史解明のための鍵として役立つことになった。 「では、このへんで今日の検討会はお開きということにしよう。なかなか面白かったね。それに、収穫もあった。松下君。今度来てくれるときには、歴史地図帳と年表を持ってきてほしいんだ。内容はお任《まか》せするよ」  六 九州勢力の大和入り  本格的な検討会は、大学が長い休暇に入った最初の日に始められた。みずから天《あめ》の日矛《ひぼこ》の子孫だと称する、東和大学史学科助手の三宅洋子は、推理作家松下研三にともなわれて、神津恭介の病室をおとずれた。二人とも、手提げカバンには、それぞれ数冊の参考資料を入れており、挨拶《あいさつ》がすむと、さっそく、それをベッドの脇《わき》のサイド・テーブルに積み上げた。 「やあ。いらっしゃい。なかなか張り切っているね。今日は、どの問題を研究するのかい。もう打ち合わせずみだろうね」 「僕としては、七世紀以後、大和《やまと》(奈良県)にあった朝廷の先祖が九州にいたことは確実だと思うのですが、その移動の時期だとか、集団の規模を確かめることから始めたいと思うのですが、どうでしょう」 「いいよ。進め方は君たちに任せるよ」 「では、そうさせていただきます」  そういうと、研三は、持参の大学ノートに挟《はさ》んであった紙片を取り出した。 「この二つの図を見てください。一つは、数理文献学の研究家という安本美典《やすもとびてん》さんの著書にあったものです。福岡県の甘木《あまぎ》を中心とする一帯と奈良盆地とのあいだには、こんなにもみごとに地名が一致しているというのです」(*地図参照)   ・ ・   ・ ・ 「ああ。その人の説なら知っているよ。甘木付近に高天原《たかまがはら》があったというのだろう。そして、天照大神《あまてらすおおみかみ》というのは、じつは、卑弥呼《ひみこ》のことであり、高天原が邪馬台国《やまたいこく》でもあったという説だったね」 「そうです。僕の五代前の先祖が現在では甘木市の一部になっている秋月《あきづき》という土地の出身なので、わざわざ現地まで行ってみたものでした。しかし、甘木・邪馬台国説は成り立たないことは僕らは証明しました。  ところで、もう一つの図(*図参照)を見てください。それは、安本氏の説が発表されて十年ほどのちに出版された『邪馬台国の東遷《とうせん》』という本に出ていたものです。この本の著者は奥野正男《おくのまさお》さんというアマチュアの考古学者で、五万分の一の地図にある地名を調べると、九州の甘木市付近と奈良盆地周辺では、八十か所以上も名前の一致が見られるというのです。この図は、その一部だけを示したものですが、安本氏の指摘したものも含め、二つの地域で、実にみごとに順序正しく同じ名の地名が並んでいます」   ・ ・   ・ ・ 「君のいいたいことは、こういうことだろう。地名が一致するということは、人間の移動があったことだ。これだけ多くの地名が偶然に、セットとなって一致することはありえないからね。そのことは論ずるまでもなく、正しい想定だと思うよ。そうとう大規模な集団が北九州から大和に遷《うつ》って来たに違いない」 「いいんですか。そんなに簡単に安本氏の説に賛成したりして」 「誰《だれ》の説であろうと、正しいことは率直に認めなくてはいけないよ。僕は、なにも安本氏の説に全面的に賛成したりしていないよ。九州勢力の大和地方への集団的大移動があった、という点についてだけ賛成だというのだ。三世紀に陳寿《ちんじゆ》が『魏志《ぎし》』に記した邪馬台国は、あくまで宇佐《うさ》であって甘木《あまぎ》とは関係はない」 「それで安心しました。しかし、高天原《たかまがはら》が甘木にあったという安本氏の説のほうはどうですか。その証拠として、『古事記』で高天原の神々が会議を開いたという天《あま》の安河《やすかわ》を思わせる夜須川《やすかわ》という川が甘木付近にあることが理由の一つにあげられています」 「その点については、なんともいえないよ。しかし、一致している地名を見ると、三笠《みかさ》山とか三輪《みわ》とか香久《かぐ》山とか、七世紀以後の大和《やまと》王朝とゆかりの深いものがふくまれている以上、そのむかし、甘木一帯に住んでいた人たちは、いわゆる�天《あま》つ神《かみ》系�というか�天孫族�というか、大和王朝をめぐる人たちと共通の神話をもつ同族だったと考えてよさそうだ。  その意味で、もしも�天つ神�の住んでいた所のことを�高天原�と称《とな》えるのなら、甘木付近が、ある時期には�高天原�であったとしてもさしつかえないだろう」  恭介のいうところは明確だった。三世紀の邪馬台国は甘木付近ではない。しかし、いつかは特定できないが、�天孫族�が甘木一帯に住んでいたとしてもおかしくはないというのだ。 「では、その�九州勢力の集団大移動�はいつごろ行われたのでしょうか。それを確定するのが今日の第一課題です」 「安本氏や奥野氏はどういっているのだ」 「安本氏は、西暦二七〇年前後に�神武東遷《じんむとうせん》�があったとしています。つまり、魏使《ぎし》たちは『古事記』の神話時代に相当する二四〇年代にやって来て、その三十年後に東遷があったとしています。奥野氏のほうは、東遷と統一とを区別していますが、安本説には賛成といういい方をしています」 「そうかい。しかし、地名の遷移《せんい》をおこすほどの集団大移動があったとしたら、それは三世紀後半などということはないよ。ましてや、神武天皇の東征によるものでもないよ」 「へえ。どうして、そんなことが断定できるのですか」 「それは『日本書紀』にちゃんと書いてあるじゃないか。松下君ともあろう者が、それを見落とすなんて、おかしいよ」 「えっ。ほんとうですか。どこに、そんなことが書いてあるのですか。僕は、『日本書紀』なら何度も読み返したつもりですが」 「そこにある『日本書紀』を取ってくれたまえ。神武天皇が東征に出発する直前のところだよ。そこに、たしか、�東に美《よ》き国あり�とあったよね。そのつぎの文に、なんて書いてある?」 「ありました。�天磐船《あまのいわふね》に乗りて飛び降《くだ》れる者あり�としてあって、�その飛び降れる者は、謂《おも》うに是《こ》れ饒速日《にぎはやひ》か�とあります」 「あっただろう。神武東征以前に、饒速日命《にぎはやひのみこと》が大和にやって来て、その土地の豪族の長髄彦《ながすねひこ》の妹の登美夜毘売《とみやひめ》(『書紀』では、三炊屋媛《みかしやひめ》)を妻としていたことになっているよね」 「そうでした。饒速日命は、神武天皇に降伏しています。饒速日命の子は宇摩志麻遅命《うましまじのみこと》といい、その子孫が物部《もののべ》氏となったというふうに『古事記』や『日本書紀』に出ています。うっかりしていました」  恭介の指摘がなければ、研三は神武東征イコール九州勢力の大移動と考えるところだった。 「それだけではなく、『書紀』には、神武天皇と饒速日命とが同族だという確認がされたという記事があったね」 「あります。天羽羽矢《あめのはばや》と歩靭《かちゆき》(矢を入れて運ぶ道具)がそれです。同族の印《しるし》を見て、饒速日命は神武天皇に降伏したことになっています。ほんとうに、うっかりしていました」 「ところで、九州地方に物部氏の同族がいたというたしかな証拠があれば、地名の大遷移《せんい》の謎《なぞ》もすっきり説明がつくのだが」  それまで、二人のやり取りを黙って聴《き》いていた三宅洋子は、手をあげて発言を求めた。 「ここに持って参りました本は、『先代|旧事本紀《くじほんぎ》』、略して『旧事紀《くじき》』というものです。これに、くわしく物部《もののべ》氏の東遷《とうせん》の事実が書かれています。ごらんになってください」 『旧事紀・天神本紀・物部氏の条』には、つぎのように書かれていた。 「饒速日尊、天神の御祖《みおや》の詔《みことのり》をうけ、天磐船に乗りて河内《かわち》国の河上哮峰《たけるがみね》に天降《あも》りまし、すなわち、大倭《やまと》国|鳥見《とみ》の白庭山に遷《うつ》ります。……すなわち虚空見《そらみ》つ日本《やまと》国というは、これなるか。……五部人《いつのともびと》を副《そ》え、従《とも》として天降《あも》り供奉《ぐぶ》す。物部連《もののべのむらじ》らの祖《おや》、天津麻良《あまつまら》。笠縫《かさぬい》部らの祖、天勇蘇《あまのゆそ》。為奈部《いなべ》らの祖、天津赤占《あかうら》。十市部首《といちべのおびと》らの祖、富冨侶《おおろ》。筑紫弦田物部《つくし・ひきたもののべ》らの祖、天津赤星《あまつあかほし》。五部造《みやつこ》は伴領として、天物部《あまつもののべ》を率いて天降り供奉す」  それに続けて、二十五部の物部族の名が列記されていた。洋子は、それらを地図化したものを用意していた。(*地図参照)   ・ ・   ・ ・ 『旧事紀《くじき》』には、さらに、物部集団の天磐船《あまのいわふね》の乗組員の一覧表も記載している。  「船長《ふなおさ》 跡部首《あとべのおびと》らの祖、天津羽原《あまつははら》   梶取《かじとり》 阿刀造《あとのみやつこ》らの祖、大麻良《おおまら》   船子《ふなこ》 倭鍛師《やまとのかぬち》らの祖、天津真浦《あまつまうら》      笠縫《かさぬい》らの祖、天津麻良《あまつまら》      曾曾笠縫《そそかさぬい》らの祖、天津赤麻良《あまつあかまら》      為奈部《いなべ》らの祖、天都赤星《あまつあかほし》」 「この地図でわかりますように、福岡県の東北部の遠賀《おんが》川の下流域の地名と、大阪平野から奈良盆地の一帯の地名には、共通したものが組み合わさっております。しかも、それが『旧事紀』にのせられている物部《もののべ》族の名前と一致しますから、古い時代に九州から近畿地方に大規模な集団移動があり、その中心となったのが物部族であることは確実だ、といっていいと思います。また、為奈部《いなべ》は猪名部《いなべ》とも書き、木工を職とする氏族ですし、跡部《あとべ》・阿刀《あと》は倭鍛師《やまとかぬち》と同様、金属に関する技術をもった氏族で、物部族の大移動に加わったものと思って間違いないと思います。  河内《かわち》国の哮峰《たけるがみね》というのは、大阪府の、奈良県との境になっている生駒《いこま》山の一角と考えてよいと思います。生駒|山麓《さんろく》の日下《くさか》(草香)の地は、古代の物部氏の根拠地だった、ということです」  そこで、恭介が質問を発した。 「どうもご苦労さま。ところで、この『旧事紀《くじき》』という本は信用していいのかい?」 「序文によれば、蘇我馬子《そがのうまこ》が勅命で編集したことになっています。『神代本紀《じんだいほんぎ》』・『天神本紀《てんしんほんぎ》』・『地祇本紀《ちぎほんぎ》』というように、十巻から成っていて、『日本書紀』より、はるかに精密な内容になっています。その内容の真偽については、中世までは、よく読まれたらしいのですが、その序文と本文との間に矛盾があったりして、江戸時代以後は偽書ということになっています」 「なんだね、偽書というのは。そんな厖大《ぼうだい》な本を、誰《だれ》か閑人《ひまじん》が作ったとでもいうの」 「わたくしは、序文だけが偽作で、本文は『日本書紀』と同程度の信用を置いていいと思います。利用価値はあるのではないでしょうか」 「それはそうだ。『古事記』や『日本書紀』だって、百パーセント真実であるとは思われない。内容を吟味しながら利用することはどんな資料についても同じはずだ。  ところで、この本に書かれている饒速日命《にぎはやひのみこと》の率《ひき》いてきた集団というか、物部族の大部隊の性格はどういうものと考えたらいいだろうか?」 「はい。鍛人《かぬち》・天津麻良《あまつまら》という名は『古事記』の『天石戸《あまのいわと》の条』にも出てきます。銅の鏡を作ったとされております。したがって、物部集団は、金属や木工の技術者を多勢伴った先進文化の伝達者として、近畿地方に根をおろしたと考えられるのではないでしょうか。  一般に、物部氏は武人集団のようにいわれていますが、むしろ、呪術《じゆじゆつ》的な宗教をもった集団のようです。物部氏のいわば氏神にあたる石上《いそのかみ》神宮の祭神は、布都御魂《ふつのみたま》大神・布都斯御魂《ふつしみたま》大神・布留御魂《ふるみたま》大神といいます。彼らは、�布留の言《ことば》�という呪文《じゆもん》で体の痛みを止《と》めるなどの呪法を行っています」 「そうかい。僕たちは、むかし、『軍人|勅諭《ちよくゆ》』というのを覚えさせられたね。�昔《むかし》、神武天皇みずから大伴《おおとも》・物部《もののべ》の兵《つわもの》どもを率《ひき》い、中つ国のまつろわぬ者どもを討ち平げ……�と教えられたけれど、嘘《うそ》だったのだね」 「はい。物部氏は神武天皇に率《ひき》いられてはおりません。また、神武天皇が討ったのは�中つ国�ではなく、豊葦原瑞穂《とよあしはらのみずほ》の国あるいは中洲《うちつくに》と『書紀』には書かれてあります。  それは、そうと、物部氏の氏神である大和の石上《いそのかみ》神宮には、面白い呪法《じゆほう》が伝えられています。それは�一二三四五六七八九《ひとふたみよいつむななやこ》の十《たり》�と数えながら、�ふるえ、ふるえ、ゆらゆらと�と唱えるもので、その呪法の道具として十種の神宝が伝えられています。  それは、瀛《おき》つ鏡、辺《へ》つ鏡、八握《やつか》の剣、生玉《いくたま》、死反《よみがえし》の玉、足玉《あしたま》、道反《みちかえし》の玉、蛇《へび》の比礼《ひれ》、蜂《はち》の比礼《ひれ》、種々《くさぐさ》の物とされています。  ところが、『古事記』の伝える天《あめ》の日矛《ひぼこ》の神宝は、珠《たま》二貫、浪振《なみふ》る比礼《ひれ》、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、奥《おく》つ鏡、辺《へ》つ鏡となっています。いかがでしょう。この両者は、どう見てもそっくりだと思われませんか」 「前に、ヒボコの話のあったときの神宝と、少し違うようだね」 「はい、あのときは『日本書紀』に記されているものでした。これは『古事記』に記されているもので、少し違っています。とにかくも、このことから、物部氏とヒボコとはまったく同族といってもよいくらいに似た性格をもっていると考えられます」 「ということは、物部氏もヒボコと同じく新羅《しらぎ》から来たというのかい」 「新羅とは申しません。二、三世紀までには、朝鮮には、まだ新羅という国は生まれていませんから。いずれにしても、物部氏の先祖が朝鮮系であることは確実だと思います。その点については、また、機会があったら検討させていただきたいと思います」  研三は、またしても電撃的なショックを受けた。神武東征《じんむとうせい》に先立って、物部東遷《もののべとうせん》があったという恭介の指摘にも感嘆したが、その物部氏まで朝鮮《ちようせん》系だという。しかも、物部氏は間違いなく�天つ神�なのだから、このことをどう解釈するかは、それこそ大問題だ。 「わたくし、なにも、自分の先祖の天《あめ》の日矛《ひぼこ》のところにすべてを持ってこようなどと思っているのでは、さらさらありません。しかし、事実は、そのまま提示することがフェアだと思います」 「では、先に進もう。物部氏が近畿地方に根をおろしてからあと、どうなったのだろうか? 歴史につながる筋道はたどれるかな?」 「はい。『旧事紀《くじき》』には、物部氏の系図がのっております。始祖は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命《あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと》という長い名前になっています。そして、その子の宇摩志麻治命《うましまじのみこと》以下、歴史時代に至るまで、くわしい系譜が掲げられています。面白いと思ったのは、四代目に、出石心大臣《いずしこころのおおおみ》という名があることです。出石《いずし》といえば、但馬《たじま》(兵庫県)の国の地名で、例のヒボコの根拠地の名です。このことからも、物部氏とヒボコが強い結びつきをもっていたらしいことがわかります」 「それで、大和にやって来た物部一族はどんな政治的な力をもっていたのだろうね」 「はい。五、六世紀ごろの大和王朝では、物部《もののべ》氏は大伴《おおとも》氏とともに、大連《おおむらじ》という最高の家格が与えられ、天皇家の後楯《うしろだて》として最大の勢力になっています。ところが、その祖先である饒速日命《にぎはやひのみこと》は、神武天皇にとって逆賊にあたる長髄彦《ながすねひこ》の妹を妻としていました。しかし、神武天皇に降伏したのちも、失脚したりせずに、ずっと天皇家に近い地位におります」 「なるほどね。もう少し、具体的に説明してくれないか」 「はい。饒速日命から数えて七代目とされている伊香色雄命《いかがしこおのみこと》の妹の伊香色謎命《いかがしこめのみこと》は、第八代目の天皇(孝元《こうげん》天皇)と第九代目の天皇(開化《かいか》天皇)の二代にわたって皇后と妃《きさき》になっています。同じ姫が父子二代の后妃《こうひ》になるということは現代では考えられませんが、むかしはそういうこともあったのでしょう。また、開化天皇の母の内色許売《うつしこめ》も物部氏の娘ということになっています」 「つまり、物部氏は天皇家の外戚《がいせき》だったということだね」 「まあ、そういうことになります。ところが、それだけではありません。第二代の綏靖《すいぜい》天皇から第七代の孝霊《こうれい》天皇までの六代の天皇の后妃を見ると、すべてが磯城県主《しきのあがたぬし》の娘がからんでいるのです。しかも、第三代の安寧《あんねい》天皇は、磯城津彦玉手看《しきつひこたまでみ》という名になっているのです。  磯城《しき》というのは地名で、奈良盆地の中央の東側一帯、三輪《みわ》山の西山麓《さんろく》のことです。この地方の豪族のことを磯城県主《しきのあがたぬし》とよんだのでしょう。県主《あがたぬし》とは、地方的な首長と思ってください。県主制は、四世紀ごろできたと思われます。それ以前のこの時期に、県主という語が出るのは、おかしいのですが」 「綏靖天皇から開化天皇の八代については、歴史的な事実はなにも書いてなかったね」 「はい。それで、�闕《けつ》(欠)史八代�とよばれています。今日の専門の史学者で、この八代の天皇を実在したとする人はほとんどなく、鳥越憲三郎《とりごえけんざぶろう》先生が葛城《かつらぎ》王朝という名で実在説を唱えておられるのが、むしろ例外的とさえいえると思います」 「おかしな話だね。史書に、はっきりと記録されている人物を、記事の内容が貧弱だからといって、その実在性まで抹殺《まつさつ》してしまうというのは歴史学者の横暴な行為じゃないか。横暴で悪ければ怠慢だよ。なぜ、欠けている史実の中身のほうを探《さぐ》り出そうとしないのだろうね」  恭介は、�欠史八代�の天皇の非実在説には我慢がならない様子だった。しかし、洋子には、話の続きを進めるための質問をした。 「それで、その磯城県主《しきのあがたぬし》の子孫に相当する人物はいるのかい?」 「はい。『新撰姓氏録』には、志紀《しき》氏という氏族が九世紀に実在しており、その祖先は志紀県主であるとも、饒速日命《にぎはやひのみこと》の七代目の大売希命《おおめきのみこと》とも記されています。一方、さきほどの『旧事紀《くじき》』には、志紀氏は物部氏の同族で、饒速日命の七世の子孫の建新川命《たけにいかわのみこと》から出ていると書かれています」 「だとすると、�欠史八代�の天皇は全部が物部氏系の娘と結ばれている、ということになるね」 「そのとおりです。わたくしの考えでは、当時は、母系制の時代だったと思います。磯城《しき》地方には、物部氏という絶大な力をもった一族がいて、そこの娘のところに婿入《むこい》りした男性を、つぎつぎと父子であるかのように、綴《つづ》ったのが『日本書紀』の綏靖《すいぜい》天皇から開化《かいか》天皇までの八代の系譜だと考えたいのです」 「ほう、面白いね。ところで、母系制というのはどういうことなのだい?」 「昭和六年から十三年まで、夫の協力によって自宅兼研究所に立てこもって、古代の氏族制度の研究に没頭した高群逸枝《たかむれいつえ》という女性が提唱している学説です。  ごく、大ざっぱに申しますと、Aという氏族の娘のところに、Bという氏族の男が婿入《むこい》りしたとします。すると、そこで生まれた子は、A氏の名を名乗り、A氏の職をつぎます。住居や財産もA氏のものを受けつぐのです。しかし、面白いことに、先祖の神だけはB氏のものをつぐことになります」 「そうすると、�欠史八代�の天皇は、天照大神《あまてらすおおみかみ》を祀り、物部《もののべ》氏の経済的地盤の上で、奈良盆地で政治的な権力をふるっていたと考えていいのかな」 「はい。それでいいと思います。ただし、絶対的な権力ではなく、諸豪族の連合体の盟主といった地位だったかと思います。  その諸豪族というのは、さきほど、松下先生が提出された資料——奥野正男氏の地名一覧表を見ますと、北九州にも大和にも、蘇我《そが》・平群《へぐり》・巨勢《こせ》・葛城《かつらぎ》・羽田《はた》の名がありますね。これらの氏族です。このことは、彼らは九州からやって来たということを意味しています。一般の歴史の本では、これらの氏族は大和地方で発生した土地の豪族で、羽田氏だけは違いますが、すべて武内宿禰《たけのうちのすくね》の子孫であると記しています」 「武内宿禰といえば、神功《じんぐう》皇后に仕えた忠臣という人物だね」 「はい。ところが、地名の大|遷移《せんい》が九州勢力の大和への大移動によるという解釈からすると、これらの氏族は、神武東征《じんむとうせい》以前に物部氏といっしょに東遷して来たことになるわけです。史書では、武内宿禰は第八代|孝元《こうげん》天皇の曾孫《ひまご》ということになっていますが、どうやらその記事は疑わしいというより、はっきり虚構だということになります」 「では、�欠史八代�の全体について、洋子さんの考えを聞かせてくれないか」 「この八代の天皇とされている人名は、『記・紀』では、大《おお》日本根子《やまとねこ》とか、日本足《やまとたらし》とか、七、八世紀の天皇の和風の諡号《おくりな》に似た名がついているため、後世の創作であると説く学者もいますが、事実はそうではなく、七世紀ごろの大和王朝を取り巻く氏族たちが、自分たちの先祖のある男が、物部氏——磯城県主《しきのあがたぬし》家の女《むすめ》のところに入婿《いりむこ》したという伝承をもっており、『古事記』や『日本書紀』の編集者に、そのことを申告したところ、�欠史八代�の天皇として記録され、その氏族も天皇家の分家の子孫として位置づけられたのだと考えます。  たとえば、第二代の綏靖《すいぜい》天皇の兄とされる神八井耳命《かむやいみみのみこと》の子孫として、多《おお》氏・小子部《ちいさこべ》氏・阿蘇《あそ》の君・肥《ひ》の君など十九氏が名を連ねていますし、第五代の孝昭《こうしよう》天皇の長男の天足彦国押人命《あまたらしひこくにおしひとのみこと》からは、和珥《わに》氏・春日《かすが》氏・小野《おの》氏・柿本《かきのもと》氏など十六氏が出たように書かれています。このような氏族たちが信じていたことは�自分たちは皇族の子孫である�ということで、それが『古事記』や『日本書紀』にそのまま記されたのだと思っております」  洋子は大学に籍をおいているのに、学界の定説——�欠史八代非実在説�に敢然として挑戦している。研三は、それを頼もしく思った。 「洋子さん。物部氏の呪法《じゆほう》の話が出たけれど、物部氏の宗教的な性格について、もう少しくわしく話してくれませんか」 「石上《いそのかみ》神宮は呪術《じゆじゆつ》信仰ですが、物部《もののべ》氏は同時に、神奈備《かんなび》山つまり、山そのものが神様であるとされている三輪《みわ》山の祭祀《さいし》も掌《つかさど》っていたと思います。 『古事記』などに出てくる大物主神《おおものぬしのかみ》というのは、三輪山の神を人格化したもので、たぶん、物部氏の先祖の饒速日命《にぎはやひのみこと》を観念化し、霊的なものとしたものだと思います。  奈良の大神《おおみわ》神社の祭神は大物主命です。ただ、大物主命のことを大国主命と混同する記事が『記・紀』にあるので間違われやすいのです」 「それで、大物主神は、本来は奈良盆地にある、その土地の神ではなく、はるばる九州からやって来た神だという証拠はあるのですか?」 「もちろん、あります。それがなくては、わたくしの説は崩壊してしまいます。 『日本書紀』の出雲《いずも》神話に関して述べられた個所に、�一書に曰《いわ》く�として、大三輪の神が神光《あやしきひかり》を輝かして海の彼方《かなた》からやって来て、大《おお》己貴《なむち》神つまり大国主命にたいし、�吾《あ》れは汝の幸魂《さきみたま》・奇魂《くしみたま》である�と名のり、�吾《あれ》、日本《やまと》の国の三諸《みもろ》山に住まむと思う�と宣告したと書いてあります。  このことは、外来者である大物主神こそ、三諸《みもろ》山すなわち三輪山の神であるということだと思います。三輪山の名前さえ、九州の山の名を奈良県の山の名に遷《うつ》したものでしょう」 「それでは、もう一つ、質問させてください。さっき、饒速日命の名について、長い称号がありましたね。たしか、天照国照彦天火明《あまてるくにてるひこあめのほあかり》……なんとかといいましたね。その�火明《ほあかり》�という名が気になるのですが、それは、海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の神話とは関係ないのでしょうか」  研三の質問の意味はこういうことだ。高天原《たかまがはら》から九州に天降《あまくだ》った邇迩芸命《ににぎのみこと》が、大山津見神《おおやまつみのかみ》の娘の木花佐久夜毘売《このはなさくやひめ》に子を産ませたとき、一夜で妊娠したので自分の子ではないと疑ったのにたいし、姫は、戸無《とな》しの八尋殿《やひろどの》をつくってその中に入り、それに火をつけて焼き、その焔《ほのお》の中から生まれたという三人の王子の名の中に�火明命《ほあかりのみこと》�があったと思ったからだ。  もっとも、この話は、『古事記』と『日本書紀』とでは多少違っている。焔の中から産まれた王子の名も、『古事記』では、火照命《ほでりのみこと》・火須勢理命《ほすせりのみこと》・火遠理命《ほおりのみこと》となっているが、『日本書紀』には、�火明命《ほあかりのみこと》�という名がある。 「はい。その火明命のことだと思います。火明命は、海幸彦ともいい隼人《はやと》の祖先の神だとされています。そして、『書紀』では、彦火火出見命《ひこほほでみのみこと》とよばれる王子が山幸彦です」  神話では、兄の海幸彦の釣針《つりばり》を弟の山幸彦が借りたところ、魚にその針をとられ、兄から返すことを求められた山幸彦は、海神の御殿にまで出かけ、釣針を見つけてもらっただけでなく、海の潮《しお》の干満を支配する玉を授り、それを使って兄の海幸彦をこらしめたということになっている。そして、海幸彦は山幸彦に降伏し手下となったという。 「この神話は、山幸彦つまり彦火火出見命の子孫が神武《じんむ》天皇であり、海幸彦つまり火明命の子孫であるとされている隼人《はやと》を支配したという事実を説話化したものと、一般に解釈されています。隼人《はやと》は九州南部に住む一族で、奈良時代まで、まるで異民族のように扱われています。天皇家に臣属させられていたわけです」 「それでは、物部氏の先祖の饒速日命《にぎはやひのみこと》に、�火明《ほあかり》�という名がついているのはどういうわけでしょうね」  その質問にたいして、洋子は直接には答えずに、別の例をあげた。 「火明命を先祖だとするのは、隼人だけではありません。丹後《たんご》(京都府北部)の海部《あまべ》氏の場合も同じです。有名な天《あま》の橋立《はしだて》の近くにある籠《こも》神社には、日本最古の系図があります。海部氏は海人族で、前に話のあった安曇《あずみ》族などとも同族です」 「そうですか。その系図というのは信用してもいいのでしょうか」 「はい。現在は国宝に指定されています。ところが、先ほどごらんいただいた『旧事紀《くじき》』によりますと、火明命と饒速日命は同一人物ということになっております。それを系図風にしてお見せしましょう」  洋子は、ノートの一片に左のような系図を書いて二人に示した。(*参照)   ・ ・   ・ ・ 「ここに記した尾張《おわり》氏というのは、名古屋の熱田《あつた》神宮の祭祀《さいし》をつかさどっていた豪族です。熱田神宮は、皇族とも関係は深く、『書紀』にも何度か現われてきます」  洋子は、さらに奇怪な話を付け加えた。 「サンカというのをご存じですか。山窩という当て字が使われることもありますが、つい今から五十年くらい前まで、日本の各地を流浪していた人たちです。日本のジプシーとでもいえる人たちで、人里離れた川岸などにセブリという仮住まいの場所をつくり、竹細工などをしながら各地を移動して歩いていた人たちです。このサンカたちは全国的な連絡網をもっていたそうですが、丹波《たんば》から但馬《たじま》(京都—兵庫)方面のサンカにも、天火明命《あめのほあかりのみこと》を先祖だとするものがあったそうです」 「へえ。おどろきましたね。天火明命が饒速日命《にぎはやひのみこと》と同一人物であるとは——。そうすると、物部《もののべ》氏と海部《あまべ》氏・尾張《おわり》氏それに隼人《はやと》やサンカまで同族だというのは——。そのうえ、物部氏とヒボコもどうやら先祖が同じようだし」  そのとき、二人のやりとりを聴《き》いていた恭介は話に割《わ》りこんできた。 「いろいろなことがわかってきたじゃないか。絶対に確実といってもよさそうなことは、饒速日命が率いる物部一族が、金属|精錬《せいれん》技術や木工技術などをもった氏族とともに、海人族の船団で大挙移動した事実があったということだね。いわゆる神武東征よりも、僕の感じでは少なくとも一世紀以上前のように思われるな」 「でも、神武東征のとき、饒速日命は生きていたことになっていますよ」 「史書の記事の上ではだね。けれども、同じ名を何代か襲名するということもありうるし、饒速日命とは、神格化された称号かもしれないよ。  たいせつなことは、その時期と移動に要した期間だね。移動がたった一度で短期間に完成したとも思えなくはないが、おそらくは、数波にわかれ、何十年もかかって行われたのだろうね。したがって、蘇我《そが》・平群《へぐり》・巨勢《こせ》・葛城《かつらぎ》などの氏族の移動とは、あるいは時代がいくぶん違うかもしれない」 「では、そういう大移動をおこした動機はなんでしょうね?」 「いまのところ、推測しかできないが、北九州——といっても、甘木《あまぎ》付近や遠賀《おんが》川の下流地域のことだが、そこで、人口過剰になったりして、氏族間に抗争でもおこったからと考えていいのじゃなかろうか。ただ、抗争に敗れたものが脱出したのか、それとも、場合によると、進取の気象《きしよう》に富んだものが積極的に新天地を求めて飛び出して行ったのかどうかはなんともいえないね。  ただし、北九州の住民が根こそぎ移住するということは考えられないから、まあ、いいところ全体の三分の一ていどが出て行ったと思うべきだろうね。当然、同族が二つに割れて、大半は九州に残留したということであってもおかしくない」 「三宅さんのいう、�欠史八代実在説�——つまり、物部氏の女性のところに入婿《いりむこ》したのが古代天皇家だという考えはどうでしょうか」 「真相に近いだろうと思うよ。客観的な説得性は十二分にあると思うね」 「僕としては、物部氏までヒボコと同族だというのにはおどろきました。また、天火明命《あめのほあかりのみこと》の子孫の話も新知識でした」 「天火明系の氏族というのは、天皇家と対立あるいは、それに服属した氏族を、同じ邇邇芸命《ににぎのみこと》の子孫として、いわば同族扱いするための方便として作り上げた神話だとも考えられるね。とにかく、天孫系——天《あま》つ神《かみ》の子孫ということだから、移住者に征服された日本原住民とは違うのだという意識は彼らのあいだにあったのだろうね」  七 謎《なぞ》の四世紀  コーヒー・ブレークのあと、松下研三は今後の検討方針について提案した。 「どうでしょう。九州勢力の大和《やまと》への大移動があったことは間違いないとしても、僕らが明らかにしたいメイン・テーマといえば、なんといっても、宇佐《うさ》にあった邪馬台国《やまたいこく》が、その後、どうなったかということです。つまり、五世紀ごろに河内《かわち》(大阪)平野に実在したと思われる巨大古墳をもった王朝——ふつう、応神《おうじん》天皇や仁徳《にんとく》天皇が建てたとされる王朝が、はたして、九州からやって来たものかどうかを確認する仕事を、これからしなければならないと思うわけです。  そこで、その前に『古事記』や『日本書紀』が記している四世紀ごろの天皇の記事について、多少、わずらわしいとしても、一応は目をとおしておくべきだと思うのですが」 「それはしかたないね。いわゆる神武東征《じんむとうせい》に相当する出来事があったとし、それがどんな形のものかを論ずるとすれば、その前後の九州の情勢と同時に、大和を中心とする近畿地方の状況をつかんでおかないと意味がないからね。面倒でも、歴史の概略だけは知っておいたほうがいい。洋子さん。かいつまんで話してくれないか」 「承知しました。日本で最初の天皇は誰《だれ》かということですが、『日本書紀』には、九州の日向《ひゆうが》(宮崎県)を出発して大和(奈良県)に東征して初代天皇となった神《かむ》日本磐余彦尊《やまといわれひこのみこと》のことを�始馭天下之天皇�と書いて、ハツクニシラス・スメラミコトとよんでいます。これが『日本書紀』が出来て数十年後に、神武天皇と諡号《おくりな》された人物です。ところが、『古事記』のほうでは、第十代目の御真木入日子印恵命《みまきいりひこいにえのみこと》のことを�初国《はつくに》知らす天皇《すめらみこと》�とよぶと記しているのです」 「つまり、日本には建国者が二人いたということだね」 「史書にはそうなっていますが、現実の建国者が二人いてはおかしいというので、古いほうの神武天皇は架空《かくう》の人物で、新しいほうの人物——のちに、崇神《すじん》天皇と諡号《おくりな》された御真木入日子こそ最初の天皇だった、とするのが、戦後の古代史学者の一般的見解です。ということは、それ以前の九代の天皇はすべて架空ということになり、さきほどの�欠史八代�という考え方に行きつくことになります」 「では、初代の神武天皇だけが架空で、第二代から第九代までは必ずしも架空ではない、という説は出ていないのかね」 「聞いたことはありません。私自身、�欠史八代�の天皇は実在していたと信じていますが、さて、第一代の神武天皇ということになると、なんとも申せません。神武天皇だけ架空で、以後の天皇は実在だ、というのはへんですから、じつは、困っているのです」  恭介は、話題を転じた。 「日本の天皇の漢字で二字の諡号《おくりな》というのは、いつごろつけられたのだろうか」 「通説では、奈良時代の後半に、淡海三船《おうみのみふね》という漢学者がつけたとされています。十世紀の初めごろに中国で書かれた『旧唐書《くとうじよ》』という歴史書には、日本の歴史として、神話時代の神々の名のあとに、神武以下の天皇の名を漢風の諡号《おくりな》つまり、神武《じんむ》・綏靖《すいぜい》・安寧《あんねい》・懿徳《いとく》というふうに記しています」 「それでだね。その漢風の諡号で、�神�という文字のつく天皇は、神武・崇神のほかにもう一人、応神《おうじん》天皇がいるね。それに、応神天皇の母の神功《じんぐう》皇后にも�神�の字がつく。これはどういうことだろうか」 「はい。もしかすると、淡海三船あたりが日本の歴史の真相を知っていて、応神天皇も建国者の一人、いいかえれば、九州からやって来て新しい王朝を開いた人物だと意識していたからかもしれません。もちろん、想像にすぎませんが」 「案外、的を射ているともいえそうだ。それは、それでいいとして、もし、崇神天皇や応神天皇が九州あたりから大和にやって来て最初の天皇になったと仮定すると、それまでは大和には豪族たちはいたが、その連合体の首長のようなものはいなかった、ということになるね。そうだろう。最初の天皇という意味からすれば、そういうことになる。  逆にいえば、崇神天皇以前に、豪族連合の盟主、つまり、諸王の王である大王がいて、その地位を崇神天皇なり、応神天皇がついだというふうに考えれば、あながち�欠史八代�の天皇を架空として却《しりぞ》ける必要はないことになる」 「わたくしもそう思います。そのことを間接的に裏づけることは可能だと思っております。崇神天皇の場合でいいますと、史書では第九代の開化《かいか》天皇の子ということになっておりますが、どうも、それらしくないのです。わかりやすくいえば、崇神天皇はさきほども申しましたような入婿《いりむこ》であり、いわば開化天皇とは血のつながらない婿養子のように思われるのです」 「なるほどね。それは重大なことだから、わかりやすく説明してくれないか」 「少し煩雑《はんざつ》ですけれど勘弁してください。系図に書いてみましょう」(*参照)   ・ ・   ・ ・ 「伊香色謎《いかがしこめ》は開化天皇の正式の皇后として記されていますから、その子であるとされる御真木入日子《みまきいりひこ》が後継者であることは、少しも不自然ではありません。ただし、それはあくまで男系の長子相続制という目で見た場合のことです。  しかし、崇神《すじん》天皇の皇后の名を見ますと、御真木比売《みまきひめ》となっています。兄妹が同じ名をつけている例はいくらもありますが、夫婦が同じ名であることは異様です。なんとしても理解に苦しみます。  このこと一つからも、わたくしは、崇神天皇というのは外来者で、たまたま、孝元《こうげん》天皇の皇子の大彦命の娘の御真木比売《みまきひめ》のところに入婿《いりむこ》したからこそ、御真木入彦《みまきいりひこ》という名をもらい、大和《やまと》王朝の後継者となったのだ、と考えたいのです」 「うーん。なかなか魅力的な解釈だ」 「それだけではなく、わたくしは、御真木入彦すなわち崇神天皇の子であるとされている伊久米伊理毘古伊佐知命《いくめいりひこいさちのみこと》、つまり垂仁《すいにん》天皇も、同様に、男系相続ではなく、入婿《いりむこ》であろうと思います。つまり、垂仁天皇は崇神天皇の子ではなく、日子坐《ひこいます》王の子の丹波道主《たんばみちぬし》王の娘の日婆須比売《ひばすひめ》のところに婿入りしたのだというのです」 「ということは、こういう意味だね。その当時、豪族連合の盟主である大王の位は、男系の血筋ではなく、女系の家がにぎっており、そこに婿として入った男がつぐのだというわけだね」 「そうです。母系から父系に相続制がかわってくるのは、たぶん、これより二世紀くらいのちのころからだろうと思います」 「その点は、洋子さんの説を一応、尊重するということにしよう。ただ、問題なのは、それなら、大王位権継承のために婿を取る立場にある母系家族はどの氏族ということになるかだ。さっきの話では、第二代の綏靖《すいぜい》天皇から、第九代の開化《かいか》天皇までの天皇は、すべて物部《もののべ》氏の娘に婿入りしていたということだったが、いまの話では、そうではないね」 「はい。その点がいちばんたいせつですし、三世紀から四世紀にかけての近畿地方の各豪族の勢力関係を知るうえで、最も有力な手掛かりとなるところなのです。少しこまかなことになりますが、許してください」 「いいとも、聞かしてもらうよ」 「第九代の開化天皇の妃《きさき》を見ますと、丹波《たんば》(京都府北部)の大県主《おおあがたぬし》の由碁理《ゆごり》の娘がいます。また、開化天皇の子の日子坐《ひこいます》王は、近江《おうみ》(滋賀県)の息長水依比売《おきながみずよりひめ》とのあいだに丹波道主《たんばみちぬし》王をもうけており、丹波道主王も同じ丹波の河上真若郎女《かわかみまわかいらつめ》を妃としています。くわしくは、『書紀』などによって調べていただけばわかることですが、このころから皇統に結びつく豪族の相当部分は、丹波・近江・山城、つまり大和(奈良県)から見て北方の地域にひろがっているのです。私の考えでは、大王位権継承の主導権は大和から北へ移ったということになるのです」 「ということは、奈良盆地の豪族連合、すなわち物部一派にかわって、北方勢力が優勢になったというのだね」 「そうです。前に申しました丹後《たんご》の海部《あまべ》氏——日本最古の系図が残っている氏族なども、この勢力の変動に大きな役割をはたしているようです。わたくしは、それだけではなく、ヒボコ系の一族も、同じように勢力をもっていたに違いない、と思っています。  そういう事情をふまえて、崇神《すじん》天皇の四道将軍《しどうしようぐん》の派遣という史実が『日本書紀』に現われて来たのだと思います」 「ほう、四道将軍について、何か問題点でもあるのかい」 「はい。『日本書紀』では、北陸道には大彦命《おおひこのみこと》、東海道には武渟名川別命《たけぬなかわわけのみこと》、丹波には丹波道主命《たんばみちぬしのみこと》、西国には吉備津彦命《きびつひこのみこと》を派遣し、全国平定に乗り出したと記されています。しかし、このことについては、疑問点が多く、事実とは遠いことのように思えてなりません。  という根拠は、まず、その時期と期間のことです。四道将軍の派遣が飢饉《ききん》がやんで三年後というふうになっているのは早すぎる感じがしますし、崇神天皇の十年の秋九月に、四道将軍は出発し、翌年の四月には各地の平定を終えています。冬をはさんだ半年あまりで、雪の多い北陸道の平定など考えられません。それに、この途中で、武埴安彦《たけはにやすひこ》の謀反《むほん》があり、その鎮圧もしているのですから、なおさらのことです。また、四人の将軍のうち、大彦命は崇神天皇の叔父《おじ》だからまだしも、吉備津彦命は、三代前の曾祖父《そうそふ》の孝霊《こうれい》天皇の子ですから年齢的にも大いに無理な感じがします」 「そうだね。人の年齢というものは動かせない証拠になる。あなたのいうことは、説得力は十二分にあるよ」 「そのうえ、『書紀』では四道将軍になっていますが、『古事記』には吉備《きび》への将軍の派遣の事実はのっていません。また、わたくしにいわせれば、少なくとも、丹波《たんば》路(京都府北方)へは将軍など派遣する必要はまったくなく、むしろ、大和王朝の姻戚《いんせき》のホーム・グラウンドだったはずです。  わたくしは、仮説ですけれど、この当時、今の滋賀県・京都府・兵庫県にかけて、�五タン王朝�とでもいうべき豪族連合体があり、それと、大和王朝とが同盟関係を結んでいたと想定しているのです」 「何だね。�五タン�というのは?」 「丹波・丹後・但馬の�三丹《たん》�と、淡海《おうみ》(近江)・淡路の�二淡《たん》�とを足して�五タン�と名づけてみたのです。大和王朝とよばれるものは、それまでは、天火明命《あめのほあかりのみこと》系の物部《もののべ》氏に婿入りしていましたが、開化《かいか》・崇神《すじん》・垂仁《すいにん》天皇の時代には、同じく天火明命系の海部《あまべ》氏やヒボコと姻戚関係にあった息長《おきなが》氏などの連合勢力のところに婿入りするようになったというのがわたくしの解釈です。四道将軍の派遣というのは�五タン王朝�の有力者の勢力範囲を記したものではないでしょうか」 「なかなかいい線をいっているようだ。この仮説は、あるいは、事実に近いかもしれない」  研三には、よく理解はできなかったが、もう一度、じっくり『日本書紀』の天皇家に関する系譜を読みなおしてみようという気になった。恭介は、意外と平静な様子で、先をうながした。 「ところで、崇神天皇がほかの系統から入婿《いりむこ》したということを証明する、もっと有力な資料はないのかい?」 「はい。そのことについて、もっとも決定的と思えることは、天照大神《あまてらすおおみかみ》の霊《みたま》を宮廷外に遷《うつ》さなくてはならなくなったという話があることです。崇神天皇の五年に、国中で疫病がはやり死者が国民の半数を越えました。そして、社会不安がつのりました。その原因は、宮殿の中に、天照大神と倭大国魂神《やまとおおくにたまのかみ》の二つの神をいっしょに祀《まつ》ったことにあったというのです。そして、豊鍬《とよすき》入姫が天照大神を大和の笠縫《かさぬい》の邑《むら》に遷《うつ》して祭り、さらに、垂仁天皇の時代に伊勢《いせ》の現在の皇大神宮のある地域に遷座《せんざ》したということです。  そして、天皇の夢の中に、大物主神《おおものぬしのかみ》が現われ、�大田田根子《おおたたねこ》を以《もつ》て吾《わ》れを祀れ�というので、そのとおりにすると世の中は治まり、五穀も豊かに実るようになった、ということです。つまり、崇神天皇は、いわば、招かれざる客だったので、土地の神に忌避《きひ》されたということを意味する説話になっています」 「その話は、僕も気がついていたよ。もし、崇神天皇が史書にあるとおり、実際に物部氏の娘である伊香色謎《いかがしこめ》を母としていたのなら、物部氏の神ともいえる大物主神の祟《たた》りなど、そもそも受けるはずのないことだからね」  今日は、問題提起をした松下研三の出る幕はない。ほとんど、三宅洋子の独壇場になっている。研三は、話題を変えようとして質問を発した。 「崇神《すじん》・垂仁《すいにん》の二人の天皇をめぐる皇族の名前には、�入《イリ》�という文字がついている例が目立ちますね。そのことは、婿入りのことをさしているのでしょうか」  洋子は、それに答えた。 「わたくしは、そうだと信じているわけではありません。御真木入彦《みまきいりひこ》とは、朝鮮《ちようせん》半島の南部にあったと伝えられる任那《みまな》の国から大和《やまと》に入って来た人物という説もありますが、三輪《みわ》山の真木《まき》——神木の霊に関わる�依憑《いひよう》する�という意味だと説く人もいて、いろいろの説があるようです。わたくしには、ちょっと判断はできかねます」 「いいじゃないか、名前の点は。そういうことをいいだすと、その後の、景行《けいこう》天皇が大帯日子《おおたらしひこ》、成務《せいむ》天皇が若帯日子《わかたらしひこ》、仲哀《ちゆうあい》天皇が帯中日子《たらしなかつひこ》、その皇后が息長帯日売《おきながたらしひめ》とよばれていることについても、タラシとは何かという説明もしなくてはならなくなる」 「そうですね。そういえば、応神《おうじん》天皇以後の数代の天皇やその一族には、�別《ワケ》�という文字がつく人名が多いですね。�イリ�も�タラシ�も�ワケ�も、それぞれ意味がありそうですが、本題とはあまり関係なさそうですから、ここでは、�イリ王朝�・�タラシ王朝�・�ワケ王朝�という呼び方があり、それぞれ別の血統をさしているのかもしれないというくらいのことにして、先に進みましょう」  洋子は、研三の言葉が終わるのを待ちかねていたかのように話を続けた。 「崇神・垂仁天皇の二代については、それまでと違って、やっと中身のある記事が出てきます。崇神天皇については、伯父《おじ》に相当する武埴安彦《たけはにやすひこ》の謀反《むほん》事件を鎮圧した話があり、垂仁天皇については、皇后の沙本毘売《さほひめ》の兄の沙本毘古《さほひこ》の謀反事件があり、兄妹とも稲城《いなぎ》の中で焼き殺されます。  また、垂仁天皇については、前に出てきたように、ヒボコの神宝を取りあげる話がありますが、崇神天皇の場合には、出雲振根《いずもふるね》の神宝を取り上げる話があります。  そのほか、この二人の天皇は、どちらも天照大神を遷祀《せんし》していますし、ともに池や水路を掘って開墾《かいこん》事業をいとなんでいますし、神社を建てたり神社に仕える者を定めたという点でも共通しています。というように、崇神・垂仁の二天皇の治績はよく似ています」 「出雲振根の神宝を取り上げた事件というのはどういうことだったっけね」 「『書紀』の記事によれば、これは、崇神天皇の六十年に、天皇は�武日照命《たけひてるのみこと》が天から持って来た神宝が出雲大社にあるので、それを見たい�と言いだし、出雲がわに神宝の献上を求めます。  そこには、出雲臣の先祖の出雲振根《いずもふるね》と、その弟の飯入根《いいいりね》がいて、兄の振根《ふるね》が筑紫《つくし》に行っていて不在のときに、弟の飯入根《いいいりね》は神宝を天皇に献上してしまいます。帰ってきた兄の振根は弟を責《せ》めただけでなく、ついに弟をだまし討ちにします。  兄は真刀に似せた木刀を作り、二人して川で水浴をして、先に岸に上がった兄の振根は、弟の持っていた真刀を手にし、弟には木刀をにぎらせ、とうとう弟を打ち殺してしまいます」 「洋子さんはどう思う。この事件は、正しく事実を伝えているのか、それとも、四道将軍《しどうしようぐん》の場合のように、事実かどうか疑わしいものなのか、どちらだと思う?」 「はい。この物語りと、まったく同じ内容の話が、『古事記』では、日本武尊《やまとたけるのみこと》の話としてのっています。こちらでは、だまし討ちをするのが日本武尊で、討たれたのは出雲建《いずもたける》ということになっています。しかも、このときのことを歌った歌が両方の本にありますが、そっくり同じ内容になっています」 「ということは、事実かどうか疑わしいということだね」 「はい。出雲に関する事件は、いろいろと複雑な事情がありますから、別の機会にあらためて検討したほうがよいと思います」 「なるほどね。そうしよう。忘れないでおこう」 「崇神《すじん》天皇・垂仁《すいにん》天皇そして、そのつぎの景行《けいこう》天皇の三代は、奈良盆地の東側の三輪《みわ》山の麓《ふもと》に宮殿があったとされており、その御陵《ごりよう》として伝えられている古墳は、四世紀初頭から後半にかけてのものとされており、もっとも古い時代の前方後円墳だということも記憶しておく必要があると思います。ただし、ほんとうに、これらの古墳がこれらの天皇の御陵かどうかは確認はできません」 「ご苦労さま。では、つぎの景行天皇と、その皇子の日本武尊《やまとたけるのみこと》について、ひととおりの話を聞かせてくれないか」 「この二代の天皇と皇子については、『古事記』も『日本書紀』も、ともに全国平定の統一事業の話でつくされているといってもいいくらいです。西では熊襲《くまそ》、東では蝦夷《えぞ》という種族——まつろわぬ賊を征伐したという内容になっています。ただし、厳密にいうと、『書紀』にくわしくのっている景行天皇の九州征討については、『古事記』にはまったく書かれていませんし、日本武尊の東征についても、『古事記』では常陸《ひたち》(茨城県)までになっているのに、『書紀』では蝦夷《えぞ》征伐にまでおよんでいる、といった違いがあります」 「では、最初に、景行天皇の九州征討の話をしてくれないか」 「はい。『書紀』によると、景行天皇が即位して十二年の秋の七月の記事に、�熊襲反《くまそそむ》きて朝貢《ちようこう》せず�とあり、翌月、筑紫《つくし》に出向いています。九月に、周芳《すおう》の沙麼《さば》という所に着きます。そして、南を見ると煙がたっているので、賊がいると判断し、多臣《おおのおみ》の祖の武諸木《たけもろき》と国前臣《くにさきのおみ》の祖の菟名手《うなて》、物部《もののべ》君の祖の夏花《なつはな》をつかわして偵察させたところ、神夏磯媛《かむなつそひめ》という一国を率《ひき》いる女王がいて、天皇の軍に帰服したと書かれています。周芳は周防《すおう》つまり山口県ですが、女王というと邪馬台国《やまたいこく》を連想させるものがあるような気がします」 「周防の南は海だよ。国東《くにさき》半島や宇佐方面が遠望できたというわけだ。神夏磯媛は、卑弥呼《ひみこ》の宗女の台与《とよ》の子孫だ、という可能性が強いのじゃないか。その三、四代後の女王というふうに考えたくなるね。決め手はないけれど——」 「そうですね。そのつぎに、その女王がいうには、菟狭《うさ》(宇佐)の川上には鼻垂《はなたり》、御木《みけ》の川上には耳垂《みみたり》という賊がいて、さらに、高羽《たかは》の川上には麻剥《あさはぎ》、緑野《みどりの》の川上には土折《つちおり》・猪折《いおり》という頑強な敵がいて要害を頼って抵抗するので征伐していただきたいというのです。  景行《けいこう》天皇の軍は買収作戦で彼らを降伏させ、豊前《ぶぜん》国の長峡県《ながおのあがた》に行宮《あんぐう》を建て、そこを京《みやこ》と名づけたとしています。この長峡とか京というのは、今日の福岡県|京都《みやこ》郡であるとしていいでしょう」 「そうだね。ここまでの記事は、宇佐の邪馬台国《やまたいこく》の危機の情報を受けた大和《やまと》王朝が救援軍を派遣したと考えたくなるね」 「そして、十月には碩田《おおきた》国に到着し、速見邑《はやみむら》の主の速津媛《はやつひめ》の歓迎を受け、付近の土蜘蛛《つちぐも》を討ちます。そこには直入県《なおりあがた》の禰疑野《ねぎの》とか来田見邑《きたみむら》とか稲葉《いなば》の川上とかいう地名が現われます。前に出てきた、御木《みけ》は宇佐市の傍を流れる御炊《みけ》川(駅館《やつかん》川)のことですし、碩田《おおきた》は大分《おおいた》ですし、速見《はやみ》その他の地名や、『書紀』に描かれている地形も、大分県中部の山岳地帯とよく一致しているようです」 「土蜘蛛《つちぐも》というのは、山岳居住民のことだろうね」 「そうです。神武《じんむ》天皇の東征記にも現われます。弥生《やよい》文化をもった侵入者によって圧迫された縄文《じようもん》文化人という理解のしかたもあるでしょう。土蜘蛛を討伐したとき、天皇は、志我《しが》神、直入物部《なおりのもののべ》神、直入中臣《なおりのなかとみ》神に祈った、とあります。九州に物部がいるのは不思議ではないし、豊前に藤原氏の先祖の中臣氏がいたのは確かですから、不都合はないと思います。  十一月には、日向《ひゆうが》国に到《いた》り行宮《あんぐう》を建て、いよいよ熊襲《くまそ》征伐を討議します。天皇は、襲《そ》の国の厚鹿文《あつかや》、|※鹿文《せかや》という二人に率《ひき》いられた八十《やそ》梟帥《たける》とよばれる一党は人数が多いから、武力で征服するのは得策でないとし、買収戦術を採用します。市乾鹿文《いちふかや》と市鹿文《いちかや》という容貌《ようぼう》端正な姉妹がいたので、天皇はこの二人を買収し、姉の市乾鹿文を欺《あざむ》いて寵愛《ちようあい》し、彼女の父を酒に酔わせ、眠っているうちに殺す手引きをさせます。可哀想に、父を裏切った姉娘は殺され、妹娘は天皇の家来に与えられてしまいます」 「日本武尊《やまとたけるのみこと》が女装して熊襲の川上建《たける》を殺したというのより、ずっと策略としては狡猾《こうかつ》だね」 「ここに出てくる固有名詞ですが、襲《そ》の国というのは、大隅《おおすみ》国(鹿児島県東部)の贈於《そお》郡をさし、鹿文《かや》という人名は、いまもある鹿屋市の地名に因《ちな》むものと考えていいでしょう。ただし、この地方は隼人《はやと》の居住地です。ということは、熊襲というのは、熊本一帯の勢力と、鹿児島の贈於《そお》にいた隼人を総称した言い方かもしれません」 「そうとも考えられそうだね。その後の行動はどうなっていたっけね」 「その翌年、襲《そ》国を完全に平定し、日向《ひゆうが》の高屋《たかや》宮に六年間滞在します。その地で御《み》帯刀《はかし》(美波迦斯)姫を娶《めと》り、豊国別《とよくにわけ》皇子を産ませます。その皇子の子孫が日向国造《くにのみやつこ》となったとされています。また、日向の子湯県《こゆのあがた》に行幸し東方を眺め、都をなつかしんだので、以後この地を日向《ひゆうが》というようになったとしています」 「ちょっと、待って。これは重大なことだよ。景行天皇は、この地方に来たとき、一度も天孫降臨のことを思ったり、神武天皇の東征の出発地であることを偲《しの》んだりしていないね。そして、新しくこの地を日向と命名したというのだろう。そうなると、天孫降臨があった土地は、現在の宮崎県ではないし、神武天皇の出発地も、別の場所だったことになる」  恭介の、この指摘の重要性は、研三には、よくわからなかった。しかし、これが大きな意味をもつことは、やがて、はっきりしてくる。 「では、最後のコースに入ります。景行天皇は、十八年の春、いよいよ行宮《あんぐう》を出発し、熊本県を経て西海岸に達し、海路で葦北《あしきた》の小島に泊《とま》り、さらに船で火の国に着きます。葦北は熊本県南部、火《ひ》の国は肥《ひ》の国で熊本県のことでしょう。景行天皇は、夜、不思議な光を見ています。これは有名な不知火《しらぬい》であることもたしかです。  ここが八代《やつしろ》で、以後、高来県《たかくのあがた》、玉杵名《たまきな》(玉名)を経て阿蘇《あそ》国に着き、次いで筑後の御木《みけ》(三池)から八女《やめ》につき、耳納《みのう》山地の北側を通って的《うくは》(浮羽)に至ります。九州の西側の行動については、征討ではなく、巡狩《じゆんしゆ》という言葉を使っています」 「景行天皇の通ったコースは、ごく自然だね。船を利用したほうがいいと思われる所は、ちゃんと航海したように書かれている」 「どうでしょう。この七年間の九州への出陣の記事は歴史的事実と考えていいでしょうか」 「天孫降臨《てんそんこうりん》とか、神武東征《じんむとうせい》とかについての感想がないことはともかく、とりわけ、おかしいとはいえないだろう。洋子さんは、どう思うの?」 「はい。いま一つ、すっきりしない点もあります。なぜ、福岡県の中南部の土地で征討・巡狩が終わったのでしょうか。筑前《ちくぜん》国つまり福岡県の西部や佐賀・長崎方面には見向きもしないのが不思議といえば不思議です」 「その点については、これからゆっくり考えてみることにしようよ」  恭介のこの言葉を、研三は軽くみていた。しかし、あとになって、恭介はこのとき、すでに一つの構想をもっていたことがわかってくる。 「では、今度は、日本武尊《やまとたけるのみこと》に移りましょう。『書紀』では、景行天皇の二十七年秋に、熊襲が叛《そむ》いたので日本武尊が派遣されます。彼は女装して敵地に侵入し、川上|梟帥《たける》を刺し殺しています。日本武《やまとたける》という名は、川上|梟帥《たける》からもらったことになっています。『古事記』の伝える話もまったく同じ内容です」 「そうだね。有名な話だけれど嘘《うそ》っぽいところも感じられる。もっと、壮絶な征服戦があったのを、エピソードだけを取り出して物語化したのだ、というくらいに考えておこう」 「では、続けます。『古事記』では、そのあとに、出雲建《いずもたける》を討つ話が出てきます。ただし、その内容は、崇神《すじん》天皇の時代の出雲振根《いずもふるね》が弟の飯入根《いいいりね》をだまし討ちにした話と同じだということは、たったいま、申しましたとおりです。 『日本書紀』では景行天皇の二十八年に、熊襲《くまそ》を平定してのち、記事がなく、突然、四十年に東国の不安な状況が述べられ、蝦夷《えぞ》の征討の命令が日本武尊に下されます。  蝦夷についての描写は、性格が凶暴で、男女雑居し、父子の別なく、冬は穴に寝、夏は木に住み、毛皮を着、獣を殺して食い、山野を駈《か》けめぐる、といった原始人的な種族として描かれています。その記事をそのまま信じれば、縄文《じようもん》時代の狩猟人のイメージということになりますし、いずれにしても、大和王朝の下で農耕に従事していた人たちとは相いれない種族ということになります。  日本武尊が、東征の途中で野火に焼かれそうになったとき、叔母《おば》の倭姫命《やまとひめのみこと》から授った草薙剣《くさなぎのつるぎ》で草を刈り、向かい火をして脱出した話だとか、弟橘姫《おとたちばなひめ》が海神に身を捧《ささ》げて波を鎮《しず》めた話や、姫を偲《しの》んで�吾嬬《あづま》はや�といったという話、そして、最後に、伊吹山《いぶきやま》に入り、病気にかかって伊勢《いせ》の能煩野《のぼの》で亡《な》くなる話など、『書紀』も『古事記』も、だいたい同じです」  そこで、恭介は洋子を制し、日本武尊について、結論的な意見を述べた。 「どうだろう。この話は、こんなふうに考えたらいいのではないだろうか。  僕は、この東征談は、いくつかの出来事を合成したものだと思う。『常陸国風土記《ひたちのくにふどき》』には、倭武《やまとたける》天皇——ここでは皇子ではなくて天皇になっているね——の巡幸説話が十三か所の地点について出てくる。その内容は、地名の起源を説くもので、海岸で海苔《のり》を乾したから能理波麻《のりはま》の村と名づけたといった他愛《たわい》のない物語ばかりだ。また、それとは別に、景行天皇が、日本武尊の平定したあとを見るために、上総《かずさ》(千葉県中部)にまで来たという伝承も文書になって残っている。こうしたことから考えると、四世紀ごろから五、六世紀にかけての大和王朝による東国支配の進行にともなういろいろな出来事を一つにまとめたのが、『記・紀』の日本武尊像だ。  それというのは、日本武尊には、三人の妃《きさき》があったとされているね。一人は、仲哀《ちゆうあい》天皇、稲依別《いなよりわけ》王など四人の王子を産んだ両道入姫《ふたじいりひめ》。もう一人は、吉備《きび》の穴戸武姫《あなとたけひめ》、それに、弟橘姫《おとたちばなひめ》の三人だ。そのほか、尾張に日本武尊が行ったときに立ち寄った宮簀姫《みやずひめ》もいたね。こういう、お妃《きさき》たちを出した各氏族の伝承を合成した物語りが、日本武尊一人のこととして作り上げられたと考えれば理解しやすくなってくる」  恭介の解釈は、いかにも合理的で、説得力もある。研三は、あらためて恭介の論理的な構想力の冴《さ》えをつくづくと感じた。 「最後に、成務《せいむ》天皇ですが、この天皇は、全国の国造《くにのみやつこ》(長官)や県主《あがたぬし》(地方官)を定めたことになっています。父の景行天皇の晩年以来、淡海《おうみ》(近江=滋賀)の高穴穂《たかあなほ》の宮に住まわれたとあり、『旧事紀《くじき》』にも成務天皇の名は何度も出てきていますから、あながち虚構の天皇とはいえないでしょう。ただし、それ以上の治績は伝えられていません」 「やあ。ご苦労さん。ここで、一息入れようよ。だいぶ肩がこったから」  八 神功皇后《じんぐうこうごう》と応神天皇《おうじんてんのう》  二日ほどおいて、研三と洋子は恭介の病室を訪れた。これまで、研三の妻の滋子《しげこ》が、たびたびやって来て身辺の世話をしたり、部屋の整頓《せいとん》などをしていたので、殺風景なはずの病室も小ざっぱりと片づいていた。 「やあ。退屈しながら君たちが来るのを待っていたよ。今日は、神功《じんぐう》皇后と応神《おうじん》天皇のことを勉強するのだろう。そのつもりで、『古事記』と『日本書紀』とを読み比べていたよ。さっそく、始めようじゃないか」 「今日は、僕からやらしてください。ただし、困ったことがあったら、洋子さんに助け舟を出してもらいますよ。  第十三代の成務《せいむ》天皇には子がなかったので、異母兄の日本武尊《やまとたけるのみこと》の子の帯中津日子《たらしなかつひこ》が即位しました。これが第十四代の仲哀《ちゆうあい》天皇です。この天皇は容姿端正で身長十尺の大男だったと書かれています。成人に達しないうちに即位しますが、それより前に、従姉妹《いとこ》にあたる大中姫《おおなかつひめ》をお妃《きさき》として、香坂《かごさか》王と忍熊《おしくま》王という二人の子をもうけていた、と書かれています。  皇后は、息長帯比売《おきながたらしひめ》で神功皇后のことです。前に、洋子さんから話があったように、息長《おきなが》氏は近江《おうみ》(滋賀県)の豪族で、神功皇后の母はヒボコの子孫だったことも記憶しておいてください。  仲哀天皇と神功皇后のあいだの皇子こそ、宇佐《うさ》八幡の祭神であり、今回の研究のメイン・テーマ——九州勢力の大和東遷《やまととうせん》の主人公の候補者でもある応神天皇です。  というわけで、仲哀天皇と神功皇后のことは重要ですから、少しくわしく調べてみることにしましょう。奇妙なことに、仲哀天皇は、即位の翌年には、これも先回ありましたように、角鹿《つぬが》・淡路《あわじ》・紀伊《きい》を経て穴門《あなと》に出かけます。つまり、大和地方には少年期と即位後一年間しかいないで、以後、八年間を旅先で過ごします。その原因が熊襲《くまそ》の叛乱《はんらん》に対応するためであり、やがて、筑紫《つくし》に出向いたとき、崗《おか》の県主《あがたぬし》の祖の熊鰐《くまわに》や伊都《いと》の県主の祖の五十迹手《いとで》が出迎えに来たという話はすでに見たとおりです」 「五十迹手というのはヒボコの子孫だったね」 「そうです。その後、仲哀《ちゆうあい》天皇と神功《じんぐう》皇后は、香椎《かしい》宮に入ります。その場所は地図で見てください。現在の福岡市の東区にあります。  そして、この香椎宮で作戦会議ということになります。このとき、神功皇后に香椎の神が乗り移り、�海の彼方に新羅《しらぎ》の国があって金銀がたくさんある。神を祀れば戦わずして宝が手に入る。そうすれば熊襲も自然に征服できる�という神託が下されます。  ところが、仲哀天皇は�海の向こうに国などは見えない�といって神託を疑い、それに従うことを拒みます。『古事記』では、神が怒って�この国は汝《なんじ》が治める国ではない。一つ道に向かえ�——つまり�死ね�といったところ、琴《こと》を弾《ひ》いていた天皇は、いつのまにか死んでいた——と記しています」 「その場には、武内《たけのうちの》宿禰《すくね》と神功皇后しかいなかった。ということは、二人で仲哀天皇を暗殺したのだ——というのが推理作家のいいたいところだね」 「ところが、『日本書紀』には、仲哀天皇は熊襲討伐に出かけ、勝つことができず、翌九年の二月五日に�怪我《けが》が原因で亡《な》くなった�とも、�熊襲《くまそ》の矢にあたって戦死した�とも書いています。真相は不明ということです」 「亡《な》くなった時の年齢が五十二歳というのも、即位の年から計算して、おかしいと思わないかい」 「そうですね。なにかの間違いでしょうか」 「それから、いわゆる神功皇后の�三韓征伐《さんかんせいばつ》�ということになるわけだね」 「そうです。『古事記』では、ごく簡単に、住吉《すみよし》大社の神々の加護で、海の魚が船を背負って順風に乗り新羅《しらぎ》に着くと、新羅の王は皇后の御馬甘《みまかい》となる——皇后に貢物《みつぎもの》をさし上げる、と誓ったとしています。 『日本書紀』のほうは、だいぶくわしく、仲哀天皇の死後、皇后は、九州北部で熊襲《くまそ》や土蜘蛛《つちぐも》を討ち、さらに諸国に命令して軍船を整え、十月三日に出陣した、とあります。新羅王は戦わずして降服し、微叱己知波珍干岐《みしこちはとりかんき》を人質としてさし出し、貢物を捧《ささ》げ、高麗《こま》・百済《くだら》王もそれにならったというふうに述べています。ただし、倭国—当時の日本に、それだけの威力があったとは、ちょっと考えにくいという疑問はあります」  恭介は、研三の話を途中でさえぎり、するどい推理を展開した。 「神功皇后が、そのとき、妊娠しており、腰に石を巻きつけて出産をおさえ、九州に帰って来たとたんに応神天皇が生まれた——という有名な話は文字通りには信頼できないね。  その件については、『書紀』には、十二月十四日、筑紫の宇瀰《うみ》で出産した、と書いてある。仲哀天皇がなくなった日が二月五日ということだから、その日から数えて十月十日《とつきとおか》目に出産というのは、あまりにも作為的で、これを信じろ、といわれても無理な話だ。なにしろ、応神天皇の父は、死ぬ当日の仲哀天皇だったとはね。  それなら、仲哀天皇以外の人物で、応神天皇の父の可能性があるのは誰《だれ》だろうか——。熊襲《くまそ》と戦って負けたのだとすれば、熊襲の一族の誰か、ということも考えられなくはない。しかし、子が出来たのは、誕生日から逆算すると、神功皇后がまだ九州にいた期間のことなのだから、新羅《しらぎ》王とか百済《くだら》王ということは絶対にあり得ないね。  べつに、神功皇后をかばい立てする気はないが、敵対関係者とすべきではないと思うよ。味方のうちの誰かだとすれば、最有力候補は、いつも皇后の側についていた武内《たけのうちの》宿禰《すくね》ということになる」  さすがは恭介だけあって鮮やかな推理だと研三が感心していると、突然、洋子が意外な事実を指摘した。 「神功皇后に協力したとされている住吉大社に『神代記』という書物があります。そのなかに、神功皇后と住吉大神《すみよしおおかみ》との間に�密事《ひそかごと》あり�と書かれているのを読んだことがあります。つまり、住吉大神と神功皇后は夫婦のような関係だった、というのです。大神といっても、宮司《ぐうじ》さんか誰かのことでしょう」 「へえ、そんな記事があるの。だとしたら、それが本星《ほんぼし》かな。もっとも、誰にしてみても、自分のほんとうの父親が誰かは、母親しか知らない——というのが正確だろう。ここでは、応神天皇の父親は仲哀天皇である可能性もわずかながらある——ということにしておこうじゃないか。いずれにしても、朝鮮《ちようせん》に行ってからできた子ではありえないよ」 「ご参考までに申し上げますが、住吉大社は大阪の住吉区にあるりっぱな神社で、航海の神として全国に同名の神社がたくさんあります。社格は高く、津守氏と船木氏が祭祀《さいし》をつかさどっておりますが、そのころの政治などに特に影響をおよぼしたりした事実はないようです。ついでですが、津守氏の先祖は火明命となっています」  応神《おうじん》天皇の父は誰《だれ》かは、ここでは決定的な結論を出すところまでいかなかった。三人はしばらく沈黙していたが、やがて、恭介が口を開いた。 「ところで、神功《じんぐう》皇后については、実在の人物ではないという説もあるのだろう」 「そうです。伝説上の人物に、朝鮮関係の歴史の本の記事を適当にアレンジしてでっち上げた物語りというのが一般的な解釈です」  研三は、この点について調べてきたことを二人の前で一気にまくしたてた。 「まず、伝説のほうですが、九州各地には、腰に石をはさんで赤ん坊が産まれるのをおさえて海を渡った姫について、いろいろと言い伝えがありますし、『万葉集』の巻五にも、こんなことが書かれています」  研三は、用意して来た書物で『万葉集』第八一三歌の前書きの文を示した。   「筑前国|怡土《いと》郡深江村|子負《こふ》の原に、海に臨《のぞ》める丘の上に、二つの石あり。大きなるは、長さ一尺二寸六分、囲《かこ》み一尺八寸六分、重さ十八|斤《きん》五両、小さきは、長さ一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。並《ならび》に皆《みな》楕円にして、状鶏子《かたちとりのこ》の如《ごと》し。其《そ》の美好《うるわ》しきこと、論《あげつら》うに勝《た》う可《べ》からず。……古老相伝えて曰《い》わく、往昔《いにしえ》、息長足日女命《おきながたらしひめのみこと》、新羅《しらぎ》の国を征討し給《たま》いし時に、茲《こ》の両《ふた》つの石を用《も》ちて、御袖の中に挿着《さしはき》て、鎮懐《しづめ》と為《な》し給《たま》いき。……」 『万葉集』には、このほかに、八六九歌、三六八五歌にも息長足日女命《おきながたらしひめのみこと》の名が出てくる。そのほか、『風土記』などにも息長足日女命の記事は数多く見られる。 「こういうわけで、伝説上とはいえ、息長帯《たらし》日女という人物が朝鮮に出向いたという話は、少なくとも奈良時代の人たちには事実であると信じられていたことは確実です。 『日本書紀』では、仲哀天皇が亡くなり、十月十日《とつきとおか》後に応神天皇が生まれ、神功皇后は幼い皇太子を抱いて大和に帰還することになります。ただし、すんなりとはいきません。  仲哀天皇の前の妃が産んだ香坂《かごさか》・忍熊《おしくま》王にしてみると、十年近くも都を離れていた皇后が新しい王子を連れて帰ってくるとなると、自分たちの立場がなくなるというので叛逆《はんぎやく》を決意します。それには、犬上君《いぬがみのきみ》の祖の倉見別《くらみわけ》と吉師《きし》氏の祖の五十狭茅宿禰《いさちすくね》とが味方します。香坂王のほうは菟餓野《とがの》という所で、赤い猪《いのしし》に食い殺されます。これも、何か象徴的な書き方で、誰かに暗殺されたのでしょうか。  皇后側では、数万の軍勢を武内宿禰と和珥《わに》臣の祖の武振熊《たけふるくま》が率《ひき》い、忍熊王の討伐にあたります。忍熊王側には、葛野城《かどのき》の首《おびと》の祖の熊之凝《くまのこり》が先鋒《せんぽう》となります。そのとき、武内宿禰は偽計を用いています。すなわち、�われわれは天下を取ろうというのではない、忍熊王に従おうというのだ�といって、武器を捨て、戦う意志がないというようなふりをします。それを信じた忍熊王側も武装をといたとき、武内宿禰たちは頭髪の中に隠し持っていた弓弦《ゆみづる》を取り出して矢を射かけ、宇治川のほとりで忍熊王を討ち、王は水死してしまいます」 「あまりほめられるやり方ではないね。謀殺というのは、いつの時代にもあることだろうが——。しかし、『日本書紀』は、よくもこういう卑劣なやり方を正直に書くね。もし、神功皇后の話が『古事記』や『日本書紀』の編集者の創作だとしたら、むしろ平気で嘘《うそ》をついてでも神功皇后を美化するはずだ。このことは逆に、『記・紀』の信頼度を高めているといえなくもないね」 「そうかもしれませんね。ところで、ちょっと気になることがあるのです。神功皇后は九州から大和へ帰ると、住吉神社のお告げを聞いています。そして、香坂《かごさか》王・忍熊《おしくま》王を討つときにも、天照大神《あまてらすおおみかみ》と事代主尊《ことしろぬしのみこと》の教えを受けています。そのうちの天照大神の教えというのが、ちょっと妙です。�我が荒魂《あらたま》をば皇居に近づくべからず。当《まさ》に御心|広田《ひろた》国に居《お》らしむべし�というのです」 「ほう。面白いね。夫の仲哀《ちゆうあい》天皇のご先祖を遠ざけ、誰《だれ》の子かわからない応神《おうじん》天皇を将来の天皇にするとなると、これは問題だな」 「二人の皇子を殺したあと、じつに、六十九年間もの長いこと神功《じんぐう》皇后は摂政《せつしよう》となり、応神天皇の後楯《うしろだて》として権力を維持することになります。その間、角鹿《つぬが》(敦賀)の笥飯《けひ》(気比)の神に詣《もう》でて、応神天皇と神との間で名前の交換をしているわけです。つまり、応神天皇の幼名は去来紗別《いざさわけ》で、名を換えて後は、誉田別《ほむたわけ》になるわけです」 「その後の神功皇后の記事は、朝鮮関係のことばかりだったね」 「そうです。摂政期間中には、新羅《しらぎ》王が朝貢《ちようこう》したとか、百済《くだら》王が七枝刀《ななさやのたち》(七支刀)を皇后に贈ったとか、葛城襲津彦《かつらぎのそつひこ》を新羅に派遣したというような史実を思わせる記事がいくつか記されています。この七支刀らしい刀が石上《いそのかみ》神宮に保管されてあり、その銘文と『書紀』の記事とをめぐって、いろいろと論じられていますが、ここであつかうのは無理だと思うので、その道の人にお任せしたいと思います」 「『神功皇后紀』に出てくる朝鮮《ちようせん》関係の記事は、向こうの国の史書にある出来事と時代的に照合はできるのかい」 「はい。『書紀』の編集者は、いろいろと操作をして時代合わせのくふうをしていますが、もし、神功皇后が実在したとすれば、朝鮮と交渉のあったのは四世紀の後半から五世紀初頭であれば、何とか、つじつまが合いそうです。しかし、『書紀』に記されている神功皇后は三世紀前半ということになっていて百数十年もの開きがあることも神功皇后が架空の人物として創作されたという説の根拠の一つにされているのです」 「さあ、コーヒーでも入れて一服したら、応神天皇の検討をしようよ。宇佐《うさ》八幡が出発点だったのだろう。その祭神のことが最後に一つだけ残ってしまった。ここで、なにか決定的なものをつかまえないと。いままで、なにをやってきたのかわからなくなってしまう」 「ほんとうにそうですね、神津さん。一ついい手がかりを見つけてくださいよ。僕には、あまり自信がありません。なにしろ、応神天皇が九州で生まれたということ以外、いまのところ、宇佐八幡と結びつきそうなものは一つもないのですから」 「そうだろうか? 僕は、いろいろと面白いことがあったと思うよ。まあ、いい。文献の検討を進めようじゃないか。まず、応神天皇の后妃《こうひ》と皇子の名前の分析でもしてみようよ」  恭介のその言葉を待っていたかのように、洋子は一枚の紙片を取り出して二人の前に示した。それは、次のようなものだった。 「応神天皇、后妃、皇子・女一覧」    ——『古事記』の記載による—— (A)品陀真若《ほむたまわか》と志理都紀斗売《しりつきとめ》の間の娘(三名)  ㈰ 高木之入姫《たかぎのいりひめ》——額田大中日子命《ぬかたのおおなかつひこのみこと》         ——大山守命《おおやまもりのみこと》         ——伊耆《いざ》の真若命《まわかのみこと》         ——大原郎女《おおはらのいらつめ》         ——高目郎女《たかめのいらつめ》  ㈪ 中日売命《なかひめのみこと》———木之荒田郎女《きのあらたのいらつめ》         ——大雀命《おおささぎのみこと》         ——根鳥命《ねとりのみこと》  ㈫ 弟日売命《おとひめのみこと》———阿倍郎女《あべのいらつめ》         ——阿具知能三腹郎女《あぐちのみはらのいらつめ》         ——木之菟野郎女《きのうののいらつめ》         ——三野郎女《みぬのいらつめ》 (B)丸邇《わに》の比布礼《ひふれ》の意冨美《おほみ》の娘(二名)  ㈬ 宮主矢河枝姫《みやずやかわえひめ》——宇遅之和紀郎子《うじのわきいらつこ》          ——八田若郎女《やたのわかいらつめ》          ——女鳥《めとり》王  ㈭ 袁那弁郎女《おなべのいらつめ》———宇遅之若郎女《うじのわきいらつめ》 (C)咋俣長日子《くいまたながひこ》王の娘(一名)  ㈮ 息長真若中姫《おきながまわかなかひめ》——若沼毛二俣《わかぬけふたまた》王 (D)桜井田部連《さくらいたべのむらじ》の祖の島垂根《しまたるね》の娘(一名)  ㈯ 糸井姫《いといひめ》—————速総別命《はやぶさわけのみこと》 (E)父が不詳の娘(三名)  ㉀ 日向《ひゆうが》の泉《いずみ》の長姫《ながひめ》——大羽江《おおはえ》王           ——小羽江《おはえ》王           ——檣日《はたひ》の若郎女《わかいらつめ》(*)  ㈷ 迦具漏姫《かぐろひめ》—————川原田郎女《かわはらだのいらつめ》(*)           ——玉郎女《たまのいらつめ》(*)           ——忍坂大中姫《おしさかのおおなかひめ》(*)           ——登冨志《とほし》の郎女《いらつめ》(*)           ——迦多遅《かたじ》の王(*)  ㉂ 葛城之野伊呂売《かつらぎののいろめ》——伊耆《いざ》の麻和迦《まわか》王(*)    并《あわ》せて二十六王(男王十一、女王十五) (*は、『古事記』のみ。他は『書紀』と一致) 「やあ、便利なものをつくってくれたね。ちょっと見せてほしい」  恭介は、数分間、このメモ用紙とにらめっこをしていたが、やがて、ニコリと笑って二人のほうを振り向いた。 「こうして一覧表に整理してもらうと、いろいろと見えてくるね。どうもご苦労さんでした。僕の気がついたことをいおうか。この表の中身には、だいぶ重複があるね。誰でも気がつくはずなのは、伊耆《いざ》の真若命《まわかのみこ》《と》と伊耆《いざ》の麻和迦《まわか》王とが、どう見ても同じだ、ということだ。  そのほかにも、根鳥《ねとり》と女鳥《めとり》、八田《やた》と檣日《はたひ》などはそっくりだ。川原田《かわはらだ》というのも、川の字を横にすると三になる。そうすると三腹《みはら》と一致してくる。実際には、もっと同一人物の組み合わせがあるかもしれない」  恭介の眼力には恐れいった。天皇の后妃の数が多いこと自体は怪《あや》しむにたりないとしても、こういう重複もあるものかと研三は、ただただ感嘆するだけだった。 「洋子さん、応神天皇の皇后は�中日売�となっていて、もう一人�弟日売�という妹がいるね、中姫とか弟姫というのは二番目、三番目の姫ということで、固有名詞ではないね。姉の高木之入姫だけが本名で、あとの二人の名が書かれていない。なんとしても不思議なことと思わないかい。  ほかの天皇の皇后で、固有名詞の欠けている例はあるのかしら。そういうことは調べたことはないの」 「じつは、わたくしもその点に気がついていました。第二十代の安康《あんこう》天皇の皇后は『日本書紀』では、中帯姫命《なかたらしひめのみこと》となっていますが、『古事記』では、長田|大郎女《おおいらつめ》となっていて、天皇の異母妹であるように記してあります。それ以外に、固有名詞のない皇后はありません」 「そうかい。応神天皇に限って、皇后の名を書かないということには、きっとなにか理由があると思うよ。しかも、きわめて重要な——」  恭介は、いったい、なにを考えているのだろうか? 研三には、まるで見当がつかなかった。しかし、のちになって、これが応神天皇をめぐる謎解《なぞと》きの重大な手がかりとなったのだった。 「では、質問だけれど、この三人の姫の両親はどういう人物なのだね。父の品陀真若《ほむたのまわか》と、母の志理都紀斗売《しりつきとめ》というのは?」 「はい。『古事記』には、�品陀《ほむた》�とありますが、『日本書紀』の流儀では�誉田《ほむた》�です。その真若の父親は五百木入日子《いほきいりひこ》です。景行《けいこう》天皇が美濃《みの》(岐阜県)に行幸したとき、その土地の美女を見出して妃《きさき》として生ませた七男六女の二男が五百木入日子《いほきいりひこ》です。その美女の名は八坂入姫といいます。三人の姫の母親の志理都紀斗売は、尾張の連《むらじ》の祖の建伊那陀宿禰《たけいなだすくね》の娘とされています」 「誉田《ほむた》天皇とよばれる応神《おうじん》天皇の皇后の父親が誉田真若《ほむたのまわか》かい? 応神天皇と名を交換する前の気比《けひ》大神は誉田大神のわけだね。だとすると、誉田真若は気比大神と関係があるのか、あるいは、もともとは、イザサ真若だったのが、イザサワケ皇子が誉田天皇になったので、それにあやかって、ホムタ真若になったのか、どちらだろうね」 「わたくしには、なんともお答えできません。志理都紀斗売も、意味ありげな感じがする名ですが、尾張氏の系図には、建稲種命《たけいなだねのみこと》の子に志理都彦命《しりつひこのみこと》という名があり、建稲種命の四代後に尾綱志理都岐根命《おつなしりつきねのみこと》という名がありますから、あながち正体不明ともいえないのではないでしょうか」 「そういうことか。じゃあ、先に進もう。洋子さん。要領よく、応神天皇と仁徳《にんとく》天皇の二人について気づいたことを話してくれ」 「応神天皇については、『古事記』では、まっさきに、皇太子を決める話が出てきます。天皇は、大山守命《おおやまもりのみこと》と大雀命《おおささぎのみこと》の二人にたいし、�男の子が二人いたとき、兄と弟とどちらが可愛いか�と問い、�兄のほうが可愛い�と答えた大山守には山林の管理を命じ、�弟が可愛い�と答えた大雀命には、天下の政治を任せることにし、宇遅《うじ》の和紀郎子《わきいらつこ》を帝位につけると宣言しています。この話は、『書紀』では、『応神紀』の最後の個所にのっています」 「大山守命は、長女の高木入日売の子ということになっているね」 「はい、そうです。この話の後日談として、応神天皇が亡くなったあと、大山守命は土地支配権についての不満と、弟に皇位をつがれてしまうことの恨みとから叛逆《はんぎやく》を決意します。そのことを知った大雀命《おおささぎのみこと》と宇遅《うじ》の和紀郎子《わきいらつこ》は協力して大山守命を討ちます。『書紀』には、応神天皇に次期の天皇位後継者として指名されていた菟道《うじ》の稚郎子《わきいらつこ》は即位を辞退して、自殺して大雀命が仁徳天皇になる道を開いたとしています」 「何となく、作り話めいているね。まあ、いい。続けてくれ」 「はい。この応神天皇と仁徳天皇との二人の天皇は同一人物だ、という説もあります。その説から申しましょう。  同一人物とする理由の第一は、『古事記』の応神天皇の段に、�品陀《ほむた》の日の御子《みこ》、大雀《おおささぎ》、大雀。佩《は》かせる大刀《たち》、本《もと》つるぎ 末《すえ》ふゆ。冬木の すからが下木の さやさや�という歌があり、大雀《おおささぎ》つまり仁徳天皇のことを、品陀《ほむた》つまり応神天皇にたいする呼び名で呼んでいることです。  第二の理由は、『古事記』で仁徳天皇のこととして述べていることが、『日本書紀』では応神天皇のこととして記されている例があることです。『古事記』では、仁徳天皇が吉備《きび》の黒比売《くろひめ》を召したが、石之比売《いわのひめ》皇后の嫉妬《しつと》を恐れて本国に逃げ帰ったのを、天皇は淡路《あわじ》行幸を口実として吉備に出かけて再会するという話がのっています。ところが、『日本書紀』では、応神天皇が身辺において愛していた吉備の兄媛《えひめ》が郷里を恋しがるので帰してやり、のちに天皇は、淡路島へ狩猟に出かけ、そこから吉備に出向く話になっています。  また、�枯野《からの》�という名の船をつくる話も、『古事記』では仁徳天皇、『日本書紀』では応神天皇の時代のこととしています。  そのほか、『古事記』で応神天皇の時代に朝鮮から渡来したという酒つくりの名人の須須許理《すすこり》に似た名が、『新撰姓氏録』では仁徳天皇時代の渡来人となっております」 「ほう、それは面白いね。古代史にも�一人二役�があったというのだね。歴史学の先生も、なかなかやるじゃないか。僕も、崇神《すじん》天皇と垂仁《すいにん》天皇とはよく似ていると思ったけれど——。それで、一人二役という決め手はないの?」 「決め手になるかどうかわかりませんが、『日本書紀』には、すべての天皇の御陵《ごりよう》の所在地はちゃんと記録してあるのに、どういうわけか、応神天皇の御陵だけは記録されておりません。ところが、天皇の歿年齢のほうになると、応神天皇は百十歳と明記されているのに、仁徳天皇については何も書かれていないのです。じつに、不思議なことだと思います」 「そうだね。�一人二役�ならば、一方が活躍するときは、他方は姿を消している。墓は当然、一つしかないわけだ。ところで、あの有名な応神天皇陵は、いったい誰《だれ》の墓なのだろうね」  この重大な疑問にたいし、洋子は、ちょっと「困ったな」という表情を示したが、さりげなく話題を転じていった。恭介も、あえてそれを咎《とが》めようとしなかった。しかし、この問題は、もう一度、浮かび上がってくる。 「応神《おうじん》天皇については、各地の海人族が騒がしいので、安曇連《あずみのむらじ》の祖の大浜宿禰《おおはますくね》を海人の宰《みこともち》(長官)としたということが『書紀』にのっています。また、『古事記』には、秦《はた》氏を用いて、茨田《まむだ》の堤と茨田の三宅《みやけ》(倉庫)とをつくり、丸邇《わに》の池、依網《よさみ》の池をつくり、難波《なにわ》の堀江を掘って海にかよわせ、小椅《おばし》の江を掘り、墨江《すみのえ》の津《つ》を定めたとあります」 「この二つは、注目すべきことだね。というのは豊前《ぶぜん》(大分県)に安曇族と秦氏が勢力をもっていたことと確実につながってくるからだ」 「それから、応神天皇の時代には、朝鮮《ちようせん》からの渡来人が多かったことも見逃すことができません。まっさきにやって来たのは弓月《ゆづき》の君です。これが秦《はた》氏の祖ということになっています。応神天皇の十五年に百済《くだら》王の阿直岐《あちき》が良馬二匹を献上しています。皇太子の菟道《うじ》の稚郎子《わきいらつこ》は阿直岐から経典を学んでいます。彼の推薦《すいせん》で、もっと学識があるという王仁《わに》も来ました。それだけではありません。応神二十年には、阿知使主《あちのおみ》と子の都加使主《つかのおみ》が十七県の人民を連れてやって来ます。そして、三十七年には、阿知使主を高麗《こま》(高句麗《こうくり》)国に派遣して縫工女《きぬぬいめ》を求めさせています」 「これは、神功《じんぐう》皇后の時代に、朝鮮半島との間に交流関係ができたことの結果だろうね。朝鮮と倭《わ》と、どちらが政治的に優位にあったかということは別として、文化・技術面ではわが国のほうが教わることが多かったという点は認めなくてはいけないね」 「わたくし、ふと気がついたのですが、応神天皇の時代に、上毛野《かみつけぬ》君の祖の荒田別《あらたわけ》、巫別《かんなぎわけ》が百済に派遣されています。上野《こうずけ》といえば現在の群馬県をさす古代地名ですが、先日、宇佐八幡関係のことをお話ししていたとき、豊前の国に、上毛《かみつみけ》・下毛《しもつみけ》という郡名があるのを見て、�あれっ�と思ったものです」 「そのほか、応神天皇と仁徳天皇に関する記事で注目すべきものがあったらあげてくれないか」 「そうですね。応神天皇については、�蟹《かに》の歌�というのが出ています。これは、宇遅《うじ》の和紀郎子《わきいらつこ》の母に関するもので、角鹿《つぬが》の地名が出てきます。それから、応神天皇は、日向《ひゆうが》(宮崎県)の諸県《もろあがた》の君の女の髪長比売《かみながひめ》を召した話があります。  あとは、国主《くず》の歌が出てきます。『書紀』には国樔《くず》と記され、吉野の山中に住む人たちで、性質は淳朴《じゆんぼく》で木の実や蛙《かえる》を食べているとしています。この国樔たちが、栗菌《くりたけ》や年魚《あゆ》を天皇に献上したというのです」 「仁徳《にんとく》天皇のほうは、聖天子として描かれていたね。国中を見渡すと、民家から煙が上がっていないので、民の暮らしは苦しいのだろうと察して、三年間、課税や苦役を免除したという話があったね。僕らが小学生だったころは、偉い天皇の話として教えられたものだよ」 「このことについては、土木工事などを盛んに行った反動で、やむをえない措置《そち》だったと考える説もあります。また、仁徳天皇は、吉備の黒比売や八田《やた》の若郎女《わかいらつめ》とのロマンスが描かれ、皇后の石《いわ》の日売《ひめ》が嫉妬《しつと》したというように、聖天子といいにくい面もあります。そのうえ、速総別《はやぶさわけ》王の妻の女鳥《めとり》王を召そうとして拒まれ、とうとう、速総別王を死刑にしてしまいます。こうなると、聖天子どころか、暴虐な君主ということです。  そのほか、武内宿禰《たけのうちのすくね》についてのエピソードとして�雁《かり》の卵�の歌がのっていますし、皇后の石《いわ》の日売《ひめ》の御名代《みなしろ》として葛城部《かつらぎべ》を定め、皇太子の御名代として壬生部《みぶべ》を定めたということが出ていますが、松下先生が小説をお書きになるときには利用されるといいでしょう」 「ご苦労さん。これで、どうやら、問題解明に必要な資料は出揃《でそろ》ったようだ」  恭介は、そういうと、背筋を伸ばし、休憩でもしようという意志表示をした。  九 歴史と神話の懸《か》け橋 「神功《じんぐう》皇后の誕生は、『日本書紀』では、いつの時代になっているのだ?」  恭介は、突然、質問を発した。研三が、かねてから気にしていた�歴史の実年代�という問題の核心に触れる発言だった。 「二世紀の末ごろです。皇后が摂政になったのが、西暦二〇〇年で、六十九年間にわたって応神《おうじん》天皇を補佐して政治をとったことになっています」 「だとすると、『書紀』の編集者は、明らかに卑弥呼《ひみこ》と神功皇后をダブらせて考えているとみていいね」 「そうです。『神功皇后紀』の中に、さりげなく�魏志《ぎし》に云《い》う�として、倭《わ》女王が中国に朝貢《ちようこう》した記事をのせています」 「神武《じんむ》天皇の即位は、紀元前六六〇年ということになっていたね。なぜ、この年を『日本書紀』は紀元の年と定めたのか、その点について学者はどういっているのだ?」 「このことについては、明治時代に那珂通世《なかみちよ》という学者が発表した辛酉《しんゆう》革命説というのが定説となっています。中国で流行していた占《うらな》いに関する讖緯《しんい》説というのによると、十干・十二支の組み合わせが、�辛酉《かのととり》�の年には革命が起こるというのです。干支は六十年ごとに一巡しますが、六十年を�一元�といい、七元で三変があり、二十一元を�一|蔀《ぼう》�といい、一蔀つまり、一二六〇年で歴史上の大きな一|巡《めぐ》りがあるという考えがあったというのです」 「それで、どういうことになるのだ」 「わが国で修史事業が始められたと思われる推古《すいこ》天皇の九年(六〇一年)が辛酉《かのととり》の年で、その一二六〇年前を神武天皇の即位にしたに違いないというのが那珂通世の説です。部分的には修正意見もあるようですが、この考えが学界の定説になっています」 「推古天皇は第三十三代の天皇ということになっているね。そうすると、一二六〇年だから、一代平均がだいたい四十年ということになるわけだ。それで、年齢百歳以上の天皇が何人もでてくることになったというのだね」 「そうです。『日本書紀』には、十三人もの天皇が百歳以上ということになっているのです。こうしたことが、『記・紀』の信用をおとす大きな理由になっています」 「そういう点について、合理的な解釈をしようという学者は当然いただろうね」 「もちろん、います。『古事記』に記されている天皇の歿年《ぼつねん》の干支を尊重して、なんとか百歳以下の寿命におさまるように歿年を定めようとしたり、いろいろと工夫《くふう》をしています。  比較的近年の例では、高天原《たかまがはら》=甘木《あまぎ》説の安本美典《やすもとびてん》氏は、数理統計学の手法を用い、歴史上の各時代の天皇の平均在位年代を計算し、一代の平均は十年余ということから、それをさかのぼらせる方法をとりました」 「安本説では、神武紀元はいつということになるのだ?」 「神武即位は西暦二七一年前後になり、魏使《ぎし》が邪馬台国《やまたいこく》に来たころは、ちょうど天照大神《あまてらすおおみかみ》の時代ということになるというので、甘木=高天原説が生まれたのです」 「ふうん。それで、その方法では、歴史書の内容は無視したのかい。たとえば、兄弟の相続が多い時代と父子相続が原則の時代とで、平均の取り方を変えるというような配慮をしているのかい?」 「いいえ、すべて均一にしています。同じ天皇が二度即位した場合は、二代に数えています。統計学では、個別的な差は無視するのが大原則だというのです」 「何百代という長い期間ならともかく、二十代か三十代で、そういうことをするのは危険だと思うね」 「岩下徳蔵さんという人も『パソコンで解く女王国の謎《なぞ》』という書物で、似た方法によって計算したところ、今度は、神武天皇は一六六年ごろ生まれ、二三七年ごろになくなったという数字が出たということです」 「統計学で推計するのでは、ぼんやりと範囲が示されるだけで、年代の確定はできないね。そのほかには、どんな方法があるだろうか?」 「変わった例としては、天皇の年齢が、たとえば百三十七歳というのは、モモ余リミソナナツと読ませていますが、じつは、それは百歳プラス三十七歳ではなく、百歳マイナス三十七歳という意味だとする解釈です。井上赳夫《いのうえたけお》という機械工学の専門家の説です」 「思いつきとしては面白いが、その説は成り立たないよ。いまの例ならいいが、もし、百六十八歳というのがあったとしたら、それは三十二歳のことだとでもいうつもりかね。それ以外には何かないのかい?」 「いちばん、信頼できそうだと思えるのは、�一年二倍暦�があったとする説です」 「何だい。�一年二倍暦�というのは?」 「例の『魏志《ぎし》』に注をつけた斐松之《はいしようし》という人が引用した『魏略《ぎりやく》』という本に、倭《わ》国の風俗は�正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をもって年紀とする�という文があります。つまり、二季節で一年としていたというのです。  その証拠として、貝田禎造《かいたていぞう》さんという人は、『書紀』の記事の日付を細かく統計にとってみたところ、第二十二代の清寧《せいねい》天皇以前の記事には、月の前半つまり十五日以前の日付がほとんどで、後半の記事は例外的にしかないことをつきとめています」 「ほう。それは面白いね。もし、一年を二年として記録したというのがほんとうなら、いつから、そうでなくなったかが決まれば、『日本書紀』の年代の修正復元は可能じゃないか」 「そのとおりといいたいのですが、それでも期待するほどうまくはいかないのです。山本武夫《やまもとたけお》さんという人が、『日本書紀の新年代解読』という著書で、同じ方法を採用しています。ただし、山本さんは仁徳《にんとく》天皇までさかのぼったものの、神功《じんぐう》皇后と応神《おうじん》天皇の年代については、どうみても無理としか思えない状況におちいり、それ以上の追究は放棄しています」 「もう少し、そのへんを説明してくれたまえ」 「まず、基点を雄略《ゆうりやく》天皇の時代に定め、その実際の在位期間を四六二年から四八四年としています。『書紀』では、雄略天皇の在位期間は、それより五年ほど古くなっていますが、山本さんは細かく考証していますから、この数字は尊重したいと思います。 『書紀』に記されている�皇紀�つまり、紀元前六六〇年を神武元年とする計算法では、山本さんのいう雄略元年、つまり西暦四六二年は皇紀一一二二年に相当します。一年二倍暦があったとすると、一一二二年を二で割ると五六一年になりますから、雄略元年の四六二年の五六一年前が神武元年ということになるわけです。しかし、この方法でも、神武元年は西暦紀元前の弥生《やよい》時代中期になってしまいます。また、この計算だと、崇神《すじん》元年も二世紀末になり、常識よりも、だいぶ古くなりすぎます」 「それは困ったね、せっかく、いい方法が見つかったと思ったのに——。崇神天皇の在位が、せめて五十年くらいあとならばいいということかい」 「そうです。一方の、貝田禎造さんの著書によると、仁徳《にんとく》天皇から安康《あんこう》天皇までは、一年二倍暦を使い、応神《おうじん》天皇以前は一年四倍暦を使って、この困難を解消させています」 「では、それで万事解決したのかい」 「ところが、どうも僕には納得できないのです。なぜ、応神天皇と仁徳天皇のところで、一年二倍暦を四倍暦に切り換えるのかが不明ですし、この方法だと、神武《じんむ》紀元が二世紀末とほぼ妥当な線におさまりますが、今度は、崇神《すじん》天皇の歿年が三三二年ごろとなり、いくらか遅すぎる感じがするうえに、仲哀《ちゆうあい》天皇が四人も子を産む年齢にはならないことになります」 「それはどういうことだね」 「一年四倍暦を使うと、『記・紀』ともに五十二歳でなくなったと記している仲哀天皇は、その四分の一、つまり、十三歳で亡くなったという奇妙なことになってしまいます」 「それは困ったね。では、とにかく、一年二倍暦説を信用して、君が信頼できるという仁徳天皇以後の年代修正を表にしてみてくれないか」  研三は、すでに用意してきたメモを取り出して恭介に示した。   ・ ・   ・ ・ 「雄略《ゆうりやく》天皇の在位年数の二十三年はそのままとし、山本武夫さんの説にしたがって、在位期間は、『日本書紀』より五年ほどくり下げてあります。安康《あんこう》天皇は在位三年とあるので、それを一年半とみなし、允恭《いんぎよう》天皇の在位四十二年は二十一年に短縮し、……というふうに、仁徳《にんとく》天皇までの合計百五十三年間を半分の七十六年半にすると、まあ、なんとかいくのですが、そのまま神功《じんぐう》皇后の摂政元年を計算すると、三三五年になります。これでは、残念ながら、朝鮮の史料と神功皇后の新羅《しらぎ》行きを照合することは不可能になってしまいます。できれば、五十年ほど時代が下がってくれないと困るのです」 「ということは、山本説が計算の根拠とした一年二倍暦説を放棄しなくてはならないということかい?」  恭介は、研三が用意してきた天皇在位年代表の数字を見ながら、この難問題の解決の糸口を見出そうと、全回転で頭を働かせている様子だった。 「何とか説明がつきそうだよ。いましがた出てきた、応神・仁徳同一説というのがあったね。それからもう一つ。神功皇后は天皇にはなっていない。摂政だ。そこで、こう考えてはどうだろう。仁徳天皇は架空《かくう》の人物とする。そして、伝えられていた記録のほんとうの姿は、神功皇后が摂政になってから、応神天皇がなくなり履中《りちゆう》天皇が即位するまでの年数が、仁徳天皇が在位したという八十七年に相当すると考えるのだ。その八十七年は、一年二倍暦の数字だから、実際には四十三年半ということになる。つまり、君の作った表の仁徳天皇在位期間の修正数値の三九〇年から四三三年というのが、神功摂政・応神天皇の在位期間というわけだよ」 「えっ。それはおどろいた。なるほど、そうすれば、朝鮮の歴史ともぴったり合います。これで万事解決だ」 「ついでに、もう少しさかのぼってみてごらん」  研三は、急いで、この方法を延長し、崇神《すじん》天皇以後の天皇の在位期間の表をつくった。 「これなら、何とか中国や朝鮮関係の史実ともつながりそうです。『日本書紀』がでたらめに年代を書きつらねたのではなく、春耕・秋収をもとに一年を二年として記録していたため、年代が引きのばされたのだとして、合理的に説明がつきます」 「ためしに、各天皇が誕生したときの父の年齢だとか、各天皇の即位したときの年齢なども調べてみてごらん。きっとうまくいくはずだよ」  研三は、その示唆《しさ》によって表をつくってみた。 「うまくいきました。履中《りちゆう》天皇の誕生年が少し早すぎるようですが、それ以外はぴったりです。親子の年齢差も、即位したときの年齢なども、じつに自然です。そのうえ、�倭《わ》の五王�の遣使の年代もうまく説明できます。四二一年と四二五年に宋に貢献した�倭王讃�は、応神《おうじん》=仁徳《にんとく》天皇で、四三八年の�珍�は反正《はんぜい》天皇、四四三年の�済�は允恭《いんぎよう》天皇、四六二年の�興�は、その年になくなった安康《あんこう》天皇、そして、四七八年の�武�は雄略《ゆうりやく》天皇ということになります。ほんとうに、おどろくべきみごとさです」(*参照)   ・ ・   ・ ・  年代の復元表が出来て喜びにふけっている研三を見やりながら、ニコニコしていた恭介は、洋子に語りかけた。 「あなたは宗教を研究しているといっていたけれど、日本神話のことをどう思う? 宗教的なものか、それとも政治的な創作によるものか、どちらだろうね」 「はい。一概にはいえないと思います。�混沌《こんとん》とした宇宙から神が自然に生じた�とか、陰陽を表わす男女の二神が国産みをする話などは中国思想と思われますし、風や波のような自然現象あるいは動植物を神とする考え方は多くの国の原始宗教と共通していると思います。また、太陽崇拝や地下の黄泉《よみ》の国(あの世)という信仰は南島系のようですし、天から支配者が降りてくる神話は北東アジア大陸の民族の思想といえるかと思います。つまり、宗教とか信仰という点では、雑多なものの集まりという印象がぬぐえません。  また、天照大神《あまてらすおおみかみ》が孫の邇邇芸命《ににぎのみこと》に下界を支配する使命を与える話は、女帝の持統《じとう》天皇が孫の文武《もんむ》天皇に皇位を伝え、女帝の元明《げんめい》天皇が孫の聖武《しようむ》天皇に同じく皇位を伝えたという七世紀末から八世紀初頭にかけての天皇家の特殊事情を反映していると説く人もいます。いずれにしても、これらの史書が天皇家の統治権を正当化するという政治的使命をもってつくられていることは否定できないでしょう」 「ところで、松下君。これまで、�欠史八代�から第十六代の仁徳天皇まで、ひととおりのことは調べてきたけれど、神話の部分だけは見送ってきたね。そこで、このへんで�神々の物語り�についても、目だけはとおしておきたいのだ。案外と、重要な史実が隠されているかもしれないし、歴史の�謎《なぞ》�を解く鍵《かぎ》が見つかるかもしれないからね。一つ、概略をたどってみてくれないか」 「いいですよ。むかし、小学校や中学校で学んだことを思い出しながら聞いてください。  まず、天地の開闢《かいびやく》の話があります。最初に自然発生した神は、天の御中主命《みなかぬしのみこと》、高御産巣日神《たかみむすびのかみ》、神産巣日神《かむむすびのかみ》の三神です。これは、『古事記』によるもので、『日本書紀』では、最初の神の名は国常立尊《くにのとこたちのみこと》としています。  その後、つぎつぎと数多くの神々が現われます。神々の住んでいた場所は高天原《たかまがはら》とよばれています。そして、神々の命令を受けて、伊耶那岐《いざなぎ》、伊耶那美《いざなみ》の男女の神が、国産みをします。天《あめ》の浮橋《うきはし》の上から海中に天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》をさしおろして掻《か》きまわすと、矛《ほこ》の先からしたたり落ちた塩が固まって、淤能碁呂島《おのころじま》ができます。二人の神は、この島に降《お》り、天の御柱を立て、その柱の周囲をまわって結び合い、日本列島を産むことになります。この場合、女性の神がさきに�あなたはよい男だ�と声をかけたので、最初に産まれた子は水蛭子《ひるこ》でした。それで、葦《あし》の船に乗せて流したということです。  そこで、男性の神のほうから声を掛けなおし、淡路《あわじ》の島を手はじめに、伊予《いよ》の二名《ふたな》の島(四国)、隠岐《おき》の三つ子の島、筑紫《つくし》の島(九州)、壱岐《いき》の島、対馬《つしま》、佐渡《さど》が島を産み、最後に、大倭豊秋津島《おおやまととよあきつしま》(本州)を産みます。  筑紫の島は、身一つで四つの顔があって、筑紫《つくし》の国を白日別《しらひわけ》、豊《とよ》の国を豊日別《とよひわけ》、肥《ひ》の国を建日向日豊久士比泥別《たけひむかひとよくじひねわけ》、熊曾《くまそ》の国を建日別《たけひわけ》という、と書いてあります」 「うん。九州に熊曾《くまそ》(熊襲)の国があったと書いてあるのだね。このことは注目すべきことだと思うよ」 「さて、伊耶那岐・伊耶那美の神は、その後も、海の神である大綿津見神《おおわたつみのかみ》や、山の神である大山津見神《おおやまつみのかみ》など数多くの神々を産み、最後に、伊耶那美命《いざなみのみこと》は火の神を産んだためになくなり、黄泉《よみ》の国——あの世のことですね——に行ってしまいます。夫の伊耶那岐命《いざなぎのみこと》は妻を追って黄泉の国まで出かけますが、妻の姿が醜く変わっているのを見てしまい、�われに恥をかかせたな�と伊耶那美命にいわれて逃げ出します。そして、この世にもどってくるわけですが、そのときの出口にあたる黄泉比良坂《よもつひらさか》は出雲《いずも》の国の伊賦夜坂《いうやさか》ということになっています」 「出雲の国は、穢《けが》れた死者の国に通ずる場所にあるというふうになっているわけだ」 「さて、伊耶那岐命《いざなぎのみこと》は、穢れを清めるために、筑紫の日向《ひゆうが》の橘《たちばな》の小門《おど》の阿波岐原《あはぎがはら》で禊《みそ》ぎ祓《はら》いをします。このときも、いろいろの神々が産まれますが、左の目を洗ったときに天照大神《あまてらすおおみかみ》、右の目を洗ったときに月読命《つくよみのみこと》、そして、鼻を洗ったときに、建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》が産まれたということになっています」 「この三神には、それぞれ使命が与えられているね」 「そうです。天照大神は高天原《たかまがはら》を、月読命は夜《よる》の食《お》す国を、そして、須佐之男命は�海原《うなばら》を治めよ�と命ぜられます。ところが、須佐之男命は、その命令を聞いて、大声を上げて泣き騒ぎ、そのため青山は枯山となり、河や海はことごとく干上《ひあ》がったということです」 「うん。須佐之男命は、まるで暴風みたいだね。むかしの九州の人は暴風を恐れていたことが、こういう物語りになったのだろう」 「そういう解釈も可能でしょうね。ところで、伊耶那岐命は、怒って、須佐之男命を母の国である根《ね》の堅洲国《かたすくに》へ追放するよう命令します。しかし、須佐之男命はそれにしたがわず、高天原《たかまがはら》にやって来ます。そのとき、山川は動揺し、国土は大きく震動したといいます」 「今度は大地震だ。この場合の須佐之男命は災厄の神ということになるね」 「これにたいして、女神である天照大神は武装して弟を迎え、�なぜ、高天原へやって来たのか�となじります。そこで、須佐之男命はみずからの潔白を証明しようというので、天の安河《やすかわ》において、姉と誓約《うけい》をします。天照大神は、須佐之男命の佩刀《はいとう》を受け取り、それを三段に打ち折り、天の真名井《まない》の水を吹きかけますと、その霧の中から、多紀理毘売《たぎりひめ》、市寸島比売《いちきしまひめ》、多岐都比売《たぎつひめ》の三女神が現われます。これが宗像《むなかた》の三女神です。この三女神は、海北道中《うみきたみちなか》の沖つ島などの三社に祀《まつ》られているだけでなく、宇佐《うさ》神宮の第二殿に祀られていて、比売《ひめ》大神とよばれています」 「第一殿の祭神は応神《おうじん》天皇、第三殿の祭神は神功《じんぐう》皇后で、この二人は親子だけれど、第二殿には、これとは縁のなさそうな宗像《むなかた》三女神が祀られているということの意味は重大だね」 「いったい、どういう関係があるのでしょうか? それはそうと、須佐之男命《すさのおのみこと》は自分の潔白は証明できたとして、ここで大暴《おおあば》れをしてしまいます。姉の天照大神《あまてらすおおみかみ》の田の畔《うね》を毀《こわ》し、溝を埋め、宮殿に屎《くそ》を撒《ま》き散らし、機織場《はたおりば》の屋根をはいで、天の斑馬《むちこま》を逆剥《さかは》ぎにしたものを投げこみ、衣織女《はたおりめ》を死なせるほどの乱暴を働きます。そこで、天照大神は、天の石戸《いわと》に隠れてしまい、高天原は暗黒にとざされてしまいます」 「むかしを思い出すよ。小学校でも教わったね。天《あま》の安河《やすかわ》の河原に神々が集まって相談し、石戸《いわと》の前でお神楽《かぐら》をしたんだっけね。もっともそのときの天《あめ》の宇受売命《うずめのみこと》の踊りがストリップ・ショーだったことは教わらなかったが」 「とにかく、神々の笑い声に誘《さそ》われて天照大神は石戸《いわと》を開け、再び、高天原に光明はよみがえったわけです。須佐之男命は、千座《ちくら》の置戸《おきど》という賠償刑を課せられ、鬚《ひげ》と手足の爪《つめ》を切られて追放されます。ところが、須佐之男命は、その後、出雲《いずも》の河上に突然現われ、八岐《やまたの》大蛇《おろち》を退治して住民を救う英雄に変身します。これも、不思議な話です。  その後、『古事記』には、大国主命《おおくにぬしのみこと》の話——稲羽《いなば》(因幡=鳥取県)の白兎《うさぎ》の話や、兄の八十神《やそかみ》たちと八上比売《やがみひめ》をめぐって争う話があり、さらに、海の彼方からやって来た少名毘古那神《すくなひこなのかみ》と国土を治める話などが続きます」 「須佐之男命は、いろいろな性格をもっているね。まるで怪人二十面相みたいだ。『日本書紀』には、新羅《しらぎ》に行った話も、のっていたね」 「そうです。韓国《からくに》から樹木の種を持って帰り、紀伊《きい》の国(和歌山県)に植えています」  そのとき、二人のやり取りを静かに聴《き》いていた三宅洋子は話のあいだに入ってきた。 「須佐之男命を祀《まつ》る神社は、八岐《やまたの》大蛇《おろち》に因《ちな》む氷川《ひかわ》神社や八雲《やくも》神社のほかに、京都の八坂《やさか》神社があります。祇園《ぎおん》祭りで有名なお社《やしろ》です。毎年、七月十七日には、市内を山車《だし》が練り歩く盛大なお祭りがあることはご存じだと思います。ところが、この神社では、須佐之男命は牛頭天王《ごずてんのう》ということになっているのです」 「何だね。牛頭天王というのは」 「八坂神社の古伝によると、斉明《さいめい》天皇の二年(六五六年)に、韓国の調進副使の伊利須使主《いりすのおみ》が、新羅《しらぎ》の国にある牛頭《ごず》山に鎮座する大神の霊をお招きして、山城国(京都府)愛宕《あたご》郡の八坂郷《やさかごう》に社《やしろ》を作ってお祀りしたというのです。  牛頭天王《ごずてんのう》というのは、もともとはインドの祇園精舎《ぎおんしようじや》の守護神で疫病除《よ》けの神ということになっています。ところが、韓国つまり朝鮮には、なんと牛頭山という山があるのです」(*地図参照) 「ほんとうかい。それはどのへんにあるんだ」 「二か所あるのですが、そのうち慶尚北道の牛頭山は別名を伽耶《かや》山といい、大邱《テグ》の西のほうにあります。しかも、面白いことに、牛頭を韓国流に発音すると、牛が�ソ�で、頭が�モリ�に近いのです。つまり、須佐之男が新羅で行ったことがあるという曾尸茂梨《そしもり》に通ずるのです。それから、『日本書紀』の『一書』に、須佐之男が根《ね》の国《くに》に入る前にいたという熊成《くまなり》の峯《みね》というのがありますが、韓国には二か所、熊川という地名があり、現在ではコムナルと読んでいます。それだけではありません。大阪府の枚方《ひらかた》市に百済神社というのがあり、そこには�百済国王�と�牛頭天王�という額が掲げられています。しかも、この付近には、須佐之男命を祀る神社が、なんと二十三社もあります」 「ほう。それは面白いね。牛頭《ごず》といえば、牛の頭のことだね。牛には角がある——。なにか思い出すじゃないか。角のある人のことを」  研三は、思わず叫び声をあげた。 「あっ。都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》のことですね。例のヒボコと同一人物の——。しかも、どちらも朝鮮からやって来ている。そうすると、須佐之男命の正体も朝鮮の王子かもしれない」 「ねえ。洋子さん。祇園《ぎおん》の社《やしろ》のことを八坂神社とよぶわけはなんなのだろうね?」 「それは、神社が東山の麓《ふもと》にあり、そこには八つの坂があるからだという俗説もありますが、第十二代の景行《けいこう》天皇の妃《きさき》となった八坂入姫《やさかいりひめ》に因《ちな》んでいるという説のほうが正しいようです。八坂そのものは神社のある地名にもなっていますが、『新撰姓氏録《しんせんしようじろく》』によると、八坂神社を建てたのは、斉明《さいめい》天皇二年に高麗《こま》から派遣されて来た使節の副使の伊利之《いりし》という人で、その子孫が八坂造《みやつこ》という姓《かばね》を賜《たまわ》っています」 「八坂入姫というのは、景行天皇が美濃《みの》で見つけた美女ということだったね。そして、その第二子が五百木入日子《いほきいりひこ》で、また、その子が誉田真若《ほむたまわか》、つまり、応神《おうじん》天皇の后妃《こうひ》となった三人の姫の父親だったね」 「そうです」 「ところで、妙なことをきくけれど、宗像《むなかた》の三女神は独身だったのかい」 「ええと、『古事記』には、長女の多紀理毘売《たぎりひめ》は大国主命と結婚し、|阿遅※高日子根命《あじすきたかひこねのみこと》を産んでいます。あとの二人については、なにも記されていません」 「ありがとう。それから、ふと思い出したのだけれど、僕らが宇佐に行ったとき、たしか八坂社とか牛頭《ごず》社というのがあったように思うけれど、松下君は覚えていないかい」 「そういえば、ありましたね。たしか、弥勒《みろく》寺の鎮守神とかいって、金堂《こんどう》の東側にそういう社《やしろ》がありました」  神津恭介の記憶力は超人的だ、と研三は思った。 「それでは、松下君、日本神話の残りの部分を大急ぎで片づけてくれないか」 「承知しました。高天原《たかまがはら》では、下界の国々を支配するために、神の子を天降《あまくだ》りさせることになります。天照大神《あまてらすおおみかみ》は、最初は、息子の天忍穂耳命《あめのおしほみみのみこと》を選び、�豊葦原《とよあしはら》の千秋《ちあき》の長五百秋《ながいほあき》の水穂《みずほの》の国《くに》�を統治するように命じます。そして、神々が天《あま》の安河《やすかわ》に集まって相談し、まず、天《あめ》の菩比《ほひ》の神が葦原の中つ国に派遣されます。しかし、この神は、いくら待っても報告をして来ないので、今度は、天《あめ》の若日子《わかひこ》が送りこまれます。しかし、若日子も大国主命の娘の下照比売《したてるひめ》と結婚し、八年たっても帰ってきません。とかくしているうちに、しびれを切らした高天原では、とうとう武勇に優れた建御雷《たけみかずち》の神《かみ》と天の鳥船の神とを派遣することになります。  そして、建御雷の神は、出雲の国の伊耶佐《いざさ》(伊那佐《いなさ》)の小浜に降り立って、十掬《とつか》の剣《つるぎ》を抜き、浪《なみ》の穂に逆さに刺し、その剣の前に坐《すわ》り、大国主命《おおくにぬしのみこと》にたいし、国土献上を強要します。大国主命は、�私には答えられません。息子の事代主《ことしろぬし》にきいてください�といいます。事代主は、�畏《おそ》れ多いことです。国土を献上いたします�と答えました。  しかし、もう一人の息子の建御名方《たけみなかた》の神は降伏には反対で抵抗するのですが、ついに敗れて逃走し、科野《しなぬ》(信濃《しなの》=長野県)の洲羽《すわ》(諏訪《すわ》)に隠遁《いんとん》することになります。大国主命は、杵築《きつき》に宮を建て、そこに住みます。これが出雲大社の起源です。以上が、国譲りの荒筋です」 「ところで、天照大神が、わが子に治めさせようとしたのは�水穂《みずほ》の国�だね。神々が派遣されたのは�葦原《あしはら》の中つ国�だろう。それなのに、強制的に献上されたという国は�出雲�ということになっている。これは不思議なことだね」  恭介のこの指摘は実に重大な意味をもっていた。�出雲�が献上されたとしても、下界のすべてが高天原《たかまがはら》の神のものとなったとはいえない、ということになるからだ。 「まあ、いい。先に進もう」 「そののち、天忍穂耳命《あめのおしほみみのみこと》は、子が生まれたので下界に降りる任務を息子に譲りたいと申し出ます。ここで、あらためて天照大神から、孫の邇邇芸命《ににぎのみこと》にたいし�豊葦原の水穂の国は、お前が支配する国だから天降《あまくだ》りせよ�という命令がくだされます。これが�天孫降臨の神勅《しんちよく》�です。こうして、邇邇芸命は、豊葦原の中つ国を目ざして天降りします。  降臨した地点は、『古事記』では、筑紫の日向《ひむか》の高千穂《たかちほ》の久士布流多気《くしふるたけ》となっています」 「このことについては、『日本書紀』ではいろいろと別の書き方をしているね。いずれ、比較しながら、じっくり読んでみることにしたいと思う。ただ、筑紫《つくし》の日向《ひむか》というのがちょっと引っかかる。すまないが、松下君、今度来てくれるときに、九州全土のうちで、�日向�という名と関係がありそうな場所がどのくらいあるのか、一つ調べておいてほしいのだ。よろしく頼みます」 「わかりました。天孫降臨のあとは、邇邇芸命《ににぎのみこと》は、大山津見命の娘の神阿多都比売《かむあたつひめ》——別名、木花佐久夜毘売《このはなさくやひめ》を娶《めと》って、例の三火神——火照命《ほでりのみこと》、火須勢理命《ほすせりのみこと》、火遠理命《ほおりのみこと》を産みます。  火照命《ほでりのみこと》とは火明命《ほあかりのみこと》のことで、海幸彦《うみさちひこ》であり、隼人《はやと》の祖・丹後の海部《あまべ》氏の祖であることは前に見ました。  火遠理命《ほおりのみこと》は、『書紀』では彦火火出見命《ひこほほでみのみこと》といい、山幸彦《やまさちひこ》で、神武《じんむ》天皇の祖父に相当するわけです。山幸彦は、海神の娘の豊玉姫《とよたまひめ》と結婚し、波限建鵜葺草葺不合命《なぎさたけうがやふきあえずのみこと》が生まれます。この三代を、�日向《ひゆうが》三代�とよんでいます」 「どうもありがとう。これで、必要な材料は全部|揃《そろ》った。では、次回は�謎《なぞ》�の解明をしようじゃないか」 「えっ。ほんとうですか。僕には、まだ、雲をつかむみたいで、何もわかりませんが、神津《かみづ》さん。いいのですか。そんなことをいって」 「とにかく、やってみますよ。おおよその筋は浮かんできていると思うよ」  十 葦原《あしはら》の中つ国の発見  恭介の怪我《けが》の回復は順調だった。三日ほどおいて、研三たちが訪ねたときは、右手首のギプスは取れて、副木《そえぎ》をあてて包帯を巻いただけになっていた。しかし、右脚のほうは、依然として足首を高く吊《つ》られたままで、なんとなく痛々しかったが、表情は明るかった。  今日は、日本古代史の秘密を解き明かしてみせると恭介が予告をした日だ。洋子の助けで、数多くの興味ある事実も見つかったし、これまで誰《だれ》も指摘していない新しい視点も見出されたとはいうものの、研三としては、いまだに五里霧中というか、ますます謎《なぞ》が深まってきた、とさえいえそうだ。それなのに、恭介は、�謎解き�を始めるという。 「どうだい。松下君、これまでにわかったことをひととおり復習してみてくれないか。三人で共通理解をしておかないと、先に進めて行くわけにいかないだろうから」 「承知しました。一般の歴史書によると、紀元前三世紀ごろ、朝鮮《ちようせん》半島から水田稲作農業と金属器をもった人たちが北九州地方にやって来て、いわゆる弥生《やよい》式文化を日本列島に導入します。その後、数百年間に弥生式文化は東日本にまで普及し、それまでの縄文《じようもん》式文化にとってかわります。つまり、それまでは、海岸や河川に沿って住み、魚貝類を獲《と》ったり、山野で狩猟や採集生活をしていた原住民たちは、次第に東のほうへ追われるか、新しい文化に同化していったものと思われます。  山林を切り開いて、イモや雑穀を栽培する原始農業はあったとしても、弥生式の稲作が受け入れられてから、急速に食糧生産も進み、人口も増加していったものと思われます。  さて、僕らの研究の出発点は、饒速日命《にぎはやひのみこと》に率《ひき》いられる九州勢力の集団大移動でした。その発進地は、遠賀《おんが》川河口付近や甘木《あまぎ》地方、あるいは筑後《ちくご》川下流地域もふくめた方面でした。とにかく、北九州の相当に広い地域に住んでいた人たちがもっていた進んだ文化があった地方です。  移動集団の中心になったのは物部《もののべ》氏で、金属|精錬《せいれん》技術や木工技術をもつ氏族や、安曇《あずみ》氏などの海人集団もいっしょでした」 「うん。この大移動の時期だけれど、だいたい、いつごろと考えたらよいだろうか」 「そうですね。北九州から大和《やまと》地方に移動した集団が青銅器製作技術を伝え、銅鐸《どうたく》をもたらしたのだとすると、一世紀半ばごろまでということになりますが、移動があるていど段階的に行われたとすると、決定的な大移動は二世紀に入ってからだったと考えていいかと思います。というのは、『魏志《ぎし》』に記されている倭国《わこく》大乱があったというのが二世紀の後半のことになっているからです。いずれにしても、二世紀中には大移動があったことでしょう」 「それで、三世紀の半ば近くになって、魏使がやって来たころの九州と近畿地方の情勢はどうなっていたかということだが——」 「北九州の一帯には、移動しなかった連中が、斯馬《しま》国とか已百支《いほき》国とか、巴利《はり》国などに分かれて並立しており、それを宇佐《うさ》にあった邪馬台《やまたい》女王国が統率していたということになります。問題なのは、豊前《ぶぜん》・豊後《ぶんご》地方(福岡県東部と大分県)です。僕らの比定では、関門《かんもん》海峡の西に伊都《いと》国があり、その南に奴《な》国と不弥《ふみ》国があったことになりますが、その一方、中国風の文化をもつ秦《しん》王国がこのあたりにあったという説や、山国《やまくに》川の下流——つまり、奴国のへんに『山国』があったというような説もあることです」 「それは、それでいいじゃないか。魏使《ぎし》の来た三世紀以後には、当然、変化があったことだろうし、伊都国には一大|率《そつ》が置かれて諸国を検察していた、というくらいだから、朝鮮や中国系の渡来者とも接触が多かったことだろうね。したがって、中国文化を守っている朝鮮系の渡来者が住む国があっても不思議ではないだろう。現在でも華僑《かきよう》(在外中国人)の街はアジアの各地にあるものね」 「近畿地方については、大和《やまと》(奈良県)に入った物部氏などの諸氏族は、三笠《みかさ》山・笠置《かさぎ》山などの九州にあった地名を系統的に移植するかたちで奈良盆地の各地の名とし、甘木《あまぎ》にあった三輪《みわ》の名を、大和の山にもつけて聖山とし、大神《おおみわ》神社を建て、物部氏の神である大物主神を祀《まつ》りました。  そして、同じく九州から移住して来た、蘇我《そが》・平群《へぐり》・巨勢《こせ》・葛城《かつらぎ》などの氏族とともに連合王国をつくりました。�欠史八代�とよばれる、綏靖《すいぜい》・安寧《あんねい》以下、開化《かいか》天皇までは、すべて物部《もののべ》母系氏族に婿入《むこい》りした王族でした。第十代の御真木入彦印恵《みまきいりひこいにえ》すなわち崇神《すじん》天皇は、ちょうど三世紀の半ばに即位しますが、洋子さんは、この天皇は別の系統から大和王朝に参入した人物である疑いが濃厚だといっています」 「ところで、洋子さんのご先祖だという天《あめ》の日矛《ひぼこ》という朝鮮《ちようせん》の王子が、多数の人民を率《ひき》いてやって来たのはいつごろだろうね」 「それは、三世紀末の垂仁《すいにん》天皇の三、四代前のはずですから、二世紀末ごろ、どんなに遅くとも三世紀の初頭までのことだったはずです」 「ヒボコが最初に上陸した地点は不明だが、北九州であることは間違いないね。そして、神功《じんぐう》皇后を筑紫《つくし》で出迎えた五十迹手《いとで》はヒボコの子孫であり、しかも、伊都県主《いとあがたぬし》の祖だというのだから、つぎのように考えてよさそうだ。  ヒボコは北九州に上陸後、自分の子の一人を関門海峡の西の伊都国王として残し、それから東へ進み、播磨《はりま》(兵庫県南部)に上陸し、その土地の王——葦原志挙乎《あしはらのしこお》(大国主命《おおくにぬしのみこと》)と戦い、ついに但馬《たじま》(兵庫県北部)の出石《いずし》に王国を建てたということだね」 「その後、ヒボコの勢力は、近江《おうみ》(滋賀県)や越前《えちぜん》・若狭《わかさ》(福井県)にもおよび、大和王国連合をもしのぐ勢力とまでなったかどうかはともかくも、金属|精錬《せいれん》や陶器製作などの進んだ文化を持ちこみ、有力な地位を占めたことは確実です。洋子さんは、崇神《すじん》天皇の二代前の孝元《こうげん》・開化《かいか》天皇のころ、大和の北方に、�五タン王朝�があったという仮説を述べ、それがヒボコと関係が深いのではないか、としています」 「うん。近畿地方では、崇神《すじん》・垂仁《すいにん》天皇の時代に周辺への勢力拡張が行われ、つぎの景行《けいこう》天皇の時代には九州を一巡する熊襲《くまそ》征討が行われ、東日本には日本武尊《やまとたけるのみこと》の東征もあったとされているね。そして、成務《せいむ》天皇を経て、仲哀《ちゆうあい》・神功《じんぐう》皇后の時代に、熊襲の叛乱《はんらん》の鎮圧のはずの出陣が朝鮮への渡航となり、その実態はまだ分析していないが、その帰国直後に、応神《おうじん》天皇が九州で生まれている」 「そうです。僕が、いちばん知りたいのは、四世紀から五世紀ごろ、九州の邪馬台国《やまたいこく》がどうなったのか、そして、なぜ、応神天皇や神功皇后が宇佐《うさ》八幡の祭神になったのかということです。そして、もう一つは、神武《じんむ》天皇の東征ということが、ほんとうにあったのかどうか、ということです。これが僕らの探究のメイン・テーマです」 「そうだったね。ところで、いよいよ�謎解《なぞと》き�を始めたいのだが、先日、お願いをしておいたこと、調べておいてくれたかい」 「ええ。いい資料がありました。吉村豊《よしむらゆたか》さんという人の著書で『卑弥呼《ひみこ》の道は太陽の道』という本に、ちょうどお誂向《あつらえむ》きのリストがのっていました。さっそく、見てください」  研三が取り出したメモは、九州各県の日向という地名の一覧表だった。  [福岡県]    ㈰ 日向峠——糸島郡前原町    ㈪ 日向石——甘木《あまぎ》市秋月日向石村    ㈫ 日向石——筑紫野《ちくしの》市大字武蔵    ㈬ 日向山——大野城《おおのじよう》市御陵    ㈭ 日 向——浮羽《うきは》郡浮羽町    ㈮ 日向神社——八女《やめ》郡黒木町大淵    ㈯ 日向神岩——八女郡黒木町大淵    ㉀ 日向神川——八女郡矢部村    ㈷ 日向東——朝倉郡|杷木《はき》町  [大分県]    ㉂ 日向山——玖珠《くす》郡|玖珠《くす》町    ㉃ 日向岳——別府市    ㈹ 日 向——東|国東《くにさき》郡|国東《くにさき》町    ㈺ 日 向——東国東郡武蔵町    ㈱ 日向泊——佐伯《さいき》市大入島    ㈾ 日 向——日田《ひた》郡前津江村    ㈴ 日向郷——日田市    ㈲ 日向野——日田市    ※ 日田市内の日向地名     大|字《あざ》高瀬、大字小迫、大字東有田(二か所)     大字小野、大字堂野、大字日高     天ケ瀬町日向市および日向神社  [熊本県]    ㈻ 日 向——菊池市下河原町    ㈶ 日 向——玉名郡三加和町    ㈳ 日 向——鹿本郡菊鹿町    21 日向上——菊池郡|合志《かわし》町    22 日向上・下——熊本市戸島    23 日 向——阿蘇《あそ》郡産山村    24 日 向——阿蘇郡西原村    25 日向泊——阿蘇郡蘇陽町東竹原    26 日 向——上益城《かみましき》郡御船町  [宮崎県]    27 日向郷——日向市    28 日向松島——延岡《のべおか》市島浦島  恭介は、メモを受け取ると、九州全図を拡げさせ、数分間、照合を続けていた。そして、顔を上げると明るい声で言った。 「やはり、予想したとおりだったよ。奈良時代の日向《ひゆうが》つまり、いまの宮崎県には、たった二か所しか日向という地名はない。しかも、この二か所はどちらも後世になってつけられた名前のようだね。面白いじゃないか。  それに、玄界灘《げんかいなだ》に面した博多《はかた》のすぐ近くに㈰の日向峠があるね。それから、例の甘木市の付近にも㈪の日向石がある。また、景行《けいこう》天皇の巡回コース上にもいくつか日向という地名があるじゃないか。  何といっても、日田《ひた》市に圧倒的に多くの日向名が集まっていることが肝心なことだ」  恭介は満足そうに、もう、なにもかもわかったという表情で微笑《ほほえ》んでいる。研三にも理解できることは、宮崎県の二か所を除くと、すべての日向地名が、国東《くにさき》半島・糸島《いとしま》半島・宇土《うと》半島を結ぶ三角形の中におさまり、ほぼその中心に日田市があるということくらいだ。(*地図参照)  日向といえば宮崎県のことであり、天孫邇邇芸命《ににぎのみこと》が降臨した土地であり、神武東征《じんむとうせい》の出発点であるという常識が、どうやら怪しげなことになってきた。 「日向と書いて、なんと読むかが一つの問題だよ。ふつうは、ヒュウガといっているが、それは音便で、もともとはヒムカだったと考えられるね。では、その意味はなんだろう。日に向かう、というだけではわからない。太陽は、東から上り、南を通って西に沈む。日に向かってとか、日を背に受けてといっても時刻によって方角が違ってくる。景行天皇が都を偲《しの》んだときは、東を向いていた。しかし、どこの場所にも、東の方角はあるし、西も南もあるのだから、そういう方向説で日向名の起源を説明できるはずがないのではないか」  恭介のいうことは至極もっともだ。九州から見れば、大和《やまと》はどこから眺めてもほぼ東ということになる。大和が真東に相当するのは対馬《つしま》で、宮崎県からは東北東になってしまう。 「文字にとらわれてはいけないとすると、ヒムカという発音に注目するしかないよ」  そういうと、恭介はいかにも得意そうな顔をして研三を見やった。 「それは、卑弥呼《ひみこ》のことさ。僕らはヒミコとよんでいるが、�呼�の字の発音は、�カ�に近かったということを聞いたことはないかい。中国人の書いた文字にとらわれず、�日の御子�とか�姫子�とかいう言葉にも惑《まど》わされず、発音だけからヒミカを受けとめれば、日向《ひむか》イコール卑弥呼《ひみこ》だということになる。つまり、日向とは、�女王卑弥呼の行動範囲�ということさ。そして、その中心地点が日田市だということだよ」  そういわれただけでは、研三には何一つのみこめない。たしかに、宇佐は日向という地名が散在する三角形の中にある。だが、それだけのことでは謎《なぞ》は深まるばかりだ。 「このことはひとまずおいて、天孫降臨《てんそんこうりん》について考えようじゃないか。邇邇芸命《ににぎのみこと》が祖母の天照大神《あまてらすおおみかみ》の命令で、高天原《たかまがはら》から下界に降ったという神話の意味を明らかにしなければ、それが現実に存在した邪馬台国《やまたいこく》とどう結びつくか理解できないからね。まず、第一に、高天原は、本来、どこにあったのだね」  研三は、一応、調べてきたことを答えた。 「室町《むろまち》時代には、高天原は大和《やまと》であると考えていたようです。江戸《えど》時代でも、山崎闇斎《やまざきあんさい》やその一門は同じように考えていました。大和に高市《たけち》郡があり、神話に、�八十万《やそよろず》の神を天高市《あまのたけち》に会《あ》えて問わしむ�などとあるからです。  しかし、この説だと奇妙なことになります。なぜ、神々は高天原のあった大和から、わざわざ九州の山に天降りをし、そして、神武《じんむ》天皇がもう一度、大和に舞いもどって来るのかが説明できません。  その後、多田義俊《ただよしとし》や尾崎雅嘉《おざきまさよし》という国学者は高天原=九州説を唱えています。豊前《ぶぜん》(福岡県)の京都《みやこ》郡が高天原だというのです。景行《けいこう》天皇は、一時、そこに行宮《あんぐう》を定め、むかしを偲《しの》んだとしています。  明治になって、広瀬淡窓《ひろせたんそう》の弟子の挟間畏三《はざまいぞう》も豊前説をとっています。最近でも、邪馬台国=宇佐説を唱える方の中に、卑弥呼《ひみこ》イコール天照大神《あまてらすおおみかみ》だから、高天原はいまの福岡県か大分県だとする人は、何人かおられます」  恭介は、楽しそうに研三の話を聴《き》いていたが、突然、意味ありげな一言《ひとこと》を発した。 「高天原は、葦原《あしはら》の中つ国に降りるための出発点であることも忘れてはいけないね」  研三には、恭介のいう意味が理解できなかった。たしかに、神話ではそうなっている。しかし、高天原が大分県であっても、葦原の中つ国が出雲《いずも》(島根県)であれば別におかしくはないはずだ。 「そのほかに、九州の他の場所を高天原とする説があります。必要なら申しますが、一応、九州以外の説をあげますと、新井白石《あらいはくせき》の常陸《ひたち》(茨城県)説、明治時代の歴史小説家の塚原渋柿園《つかはらじゆうしえん》の鈴鹿《すずか》(滋賀県と三重県の境の山)説もあります。  一方、高天原《たかまがはら》=海外説も有力で、白柳秀湖《しらやなぎしゆうこ》の北西アジア説、中田薫《なかだかおる》の朝鮮《ちようせん》説、古くは林羅山《はやしらざん》らの中国南部説、ケンペルのバビロニア説もあります。木村鷹太郎《きむらたかたろう》や小谷部全一郎《おやべぜんいちろう》もその一派に属します。  そして、本居宣長《もとおりのりなが》のような天上説は論外としても、空想上の観念にすぎないとする架空説も有力だといえるでしょう」 「どうもご苦労さん。どれも、これも一応ごもっともだが、高天原を、どこか一か所に決めるという考え方はどうかと思うよ。僕にいわせれば、高天原には、三つの意味があると思う。第一は、最初に神が成《な》った場所というか、観念的な天上界のこと。第二は、みずからを天つ神の子孫と信ずる人たちにとっての先祖の住んでいた場所。つまり一族の原郷とでもいう所。そして、第三には、葦原《あしはら》の中つ国に下降する出発点であり、中つ国よりも理念的に優位にあるべき土地のこと。この三つを分けて考えなければいけないよ」 「だとすると、先祖が数か所を移転して歩いたとすれば、高天原もそれにつれて動くわけですか?」 「当然、そういうことになるね。じゃあ、もったいぶらないで、僕の意見をいおう。遠いむかしの高天原《たかまがはら》は、北西アジアかバビロニアか知らないが、西暦紀元前後の高天原は朝鮮のどこかだったと思う。そのつぎの高天原は、北九州のどこかさ。そこから、物部《もののべ》一族が分裂をおこして生駒《いこま》山に天降ったのさ」 「では、それからのちにも、高天原は移動したというのですか?」 「そうだろうね。というより、いわゆる天孫族は北九州に着いてからも、高天原を放棄しなければならないような目にあったというのさ」 「というと、どういうことですか」 「その問題に入る前に、天孫降臨とは、どういうことか、を突きつめてみようよ。いったい、なぜ、天照大神《あまてらすおおみかみ》は自分の可愛い孫を下界に向かわせたのか、その点がたいせつだよ」 「天孫降臨の話は、先日、お話ししたとおりですが、天照大神は葦原《あしはら》の水穂《みずほ》の国を支配するという重大な使命を自分の孫に課し、下界を統治するように命令したことになっています」 「僕がいいたいことは、その下界が稔《みの》り豊かな、希望に満ちた国だったか、平和で心優《やさ》しい人民が住んでいる安定した国だったか、ということだよ」 「それについては、たしか、�この国は、千早ぶる、荒ぶる国つ神が多《さわ》にいる�とか、�蛍火《ほたるび》の光《かがや》く神および蠅声《さばえ》なす邪《あ》しき神がいる�などと書かれています」 「そうだろう。�磐根《いわね》、木株、草葉もしゃべり、夜昼ともに騒がしい国�とも書いてあっただろう。では、なぜ、そんな、どうしようもないひどい国に、天照大神は可愛い孫を送り出そうなどと思ったのだろうか。そういう点に、何の疑問も感じなかったのかい?」 「それは、きっと高天原《たかまがはら》では、下界の騒動を鎮《しず》めることは神聖な神たるものの務めであり、人民を救ってやるのは慈《いつくし》みの心の顕《あらわ》れであるということでしょうか」 「それはないよ。僕は、宗教のことはよく知らないが、唯一《ゆいいつ》絶対神を信仰するキリスト教やイスラム教ならばともかく、八百万《やおよろず》の神々たちが相談して、わざわざ騒乱の激しい国にだいじな邇邇芸命《ににぎのみこと》を�平和の贈主《おくりぬし》�として派遣しようなどという思想は、いくら古代のことだといっても、わが国では考えられないことではないだろうか? ねえ、洋子さん。あなたはどう思う?」  突然、指名された洋子は、ちょっとおどろいた様子だったが、はっきりと答えた。 「わたくしも、神津先生のおっしゃるとおりだと思います。�平和回復の使命�などということではないでしょう。神武東征の場合は、�東に美《よ》き国あり�というので、それを手に入れてやろうという動機がありましたけれど——」 「そうだろう。だとしたら、それはどういう動機ということになるかね。それはね、つまり、逆表現なのだよ。わかりやすくいえば、乱れに乱れていたのは葦原《あしはら》の中つ国のことではなく、高天原《たかまがはら》のほうだったのだよ。もっと、はっきりいおう。高天原は存亡の危機に直面していたのだよ。だから、そういう場所からたいせつな邇邇芸命《ににぎのみこと》を脱出させようとしたわけさ」 「そうでしたか。�逃走�のことを�転進�といい、�敗戦�のかわりに�終戦�という言葉を使い、�占領軍�のことを�進駐軍《しんちゆうぐん》�と呼びかえた、例の手法と同じことだというわけですか——」 「まあね。危機から逃避することを、苦難覚悟で新天地へ展開する、といいなおしたかったわけさ。それが�天孫降臨《てんそんこうりん》�のほんとうの意味だったとわかれば、いろいろの謎《なぞ》も解けてくるのだ」 「なるほど、そういわれてみると、そのような気もしますが、まだ、なんとなく、すっきりしません」 「うん。じつをいうと、�天孫降臨�として書かれていることは、二つの事実を合成したものだよ。一つは、九州への上陸のこと。たぶん、朝鮮《ちようせん》半島にあった�第一次高天原�から北九州への移動のこと。その移住先は、例の甘木《あまぎ》付近であったとしてよいだろう。天《あま》の安河《やすかわ》と同じ名の夜須《やす》川もあるそうだから——。二つ目の天孫降臨こそ、�第二次高天原�からの脱出だったというのだよ」  恭介は自信に満ちた顔で、研三が予想もしなかった新解釈を下した。「そういう見方もあるのか——」研三は、目を洗われる思いだった。 「まったく、恐れ入りました。感心しました。では、神津さん、先に進めてください」 「ところで、天孫が降りた場所はどこになっているのかい。表記がいろいろあったね」 「そうです。『古事記』では、竺紫《つくし》の日向の高千穂《たかちほ》の久士布流多気《くしふるたけ》と書いてあります。『書紀』の本文では、日向の襲《そ》の高千穂峯、一書では、筑紫の日向の高千穂の|※触峯《くしふるのみね》とか日向の襲《そ》の高千穂の|※日二上峯《くしひのふたかみのみね》あるいは日向の襲の高千穂の添山峯《そほりのやまみね》というふうに、いろいろと分かれています」 「それで、その場所は、現実の九州のどこだということになるのかい」 「ごく一般的には、宮崎県と鹿児島県の境の霧島山《きりしまやま》の近くの高さ千五百七十四メートルの高千穂峯《たかちほのみね》があげられています。その近くに、韓国岳《からくにだけ》という山もあります」 「それで、その付近には、天孫降臨後の出来事と関連する何かが実際にあるのかい」 「なくはありません。鹿児島県の川内《せんだい》市には邇邇芸命《ににぎのみこと》の墓と伝えられる可愛山陵《えのさんりよう》があり、溝辺《みぞべ》町には日子火火出見《ひこほほでみ》陵というのがあります。吾平《あひら》町には、邇邇芸命の孫で神武天皇の父とされる鵜葺草葺不合命《うがやふきあえずのみこと》の陵と称するものもありますし、霧島神社の祭神は邇邇芸命ですし、宮崎県の西諸県《にしもろかた》郡の狭野《さの》神社は、日向三代の神を祀《まつ》っています」 「なるほどね。しかし、本物《ほんもの》かどうかは大いに疑わしいね。それは、いまの宮崎県に日向の名がつけられてのちに、神話に合わせて創作された遺跡だと思うよ。天孫降臨に似た話は外国にもあるだろう」 「これは南朝鮮の駕洛《から》国の神話で『三国|遺事《いじ》』という本に出ている話ですが、この国の始祖の首露《しゆろ》王は、紫の縄《なわ》が天から下がって来て、その先端の包みの中にあった卵がかえって生まれてきたというのです。その場所は、亀旨《くし》という峰《みね》のそばにあり、天から声があって、�この土地を治める者が来臨する�という予告があったとしています。久士布流多気《くしふるたけ》の�久士《くし》�は、この亀旨《くし》から出たと考えられます。また、さっき、天孫降臨地の一つという�添《そほり》�は朝鮮語の都を意味するソウルという言葉でしょう」 「つまり、降臨とは、何も天から地上に降りるということではなく、その土地を支配するべき天命をもった者が到来するというだけの意味だと解釈していいだろうね」 「そうですね。まるっきり近所に山がない場所ではなく、秀麗で神秘的な霊山を遠望できる所であればいいと思います」 「それならば、天孫降臨の場所は九州のどこだと思うかい? もちろん、宮崎県や鹿児島県という偏見を捨てての話でだよ」 「高千穂《たかちほ》という土地は宮崎県の北部にもありますが、そこでないとすると……」 「わからないかなあ。九州の真中《まんなか》だよ。久住《くじゆう》山という山があるじゃないか。海抜千七百八十七メートルで九州ではいちばん高い。すぐ、そのそばには九重《くじゆう》連山もある。その北東側は大分県|玖珠《くす》郡になっている。久士布流《くしふる》の久士《くし》、駕洛《から》の亀旨《くし》に通ずる地名だよ」 「しかし、山のてっぺんに降りるというのは変じゃないですか」 「そうさ。久住・九重の二上峯《ふたかみのみね》、つまり久士布流多気が遠望できる盆地だよ」 「えっ、阿蘇《あそ》谷ですか」 「いや、南側からではなく、北西側からさ。わかっただろう。日田《ひた》だよ。さっき、君のくれたメモを見て、日田こそ日向《ヒムカ》の中心だということが確認できて、僕の想定が裏づけられたわけだ」 「えっ。どうして、日田などという山の中の盆地に天降ったというのですか」 「まだ、わからないのかなあ。さっき、いっただろう。第二次|高天原《たかまがはら》に危機が訪れた場合、そこから比較的遠くなく、しかも、山に囲まれて安全な場所といえば、第一にあがるのは日田盆地じゃないか。地図をよく見てごらん」 「なるほど、そういわれてみるとそうですね。甘木《あまぎ》から東南東に三十キロくらいですから、ぴったりです。きわめて自然な考え方です。おどろきました。それで、邇邇芸命《ににぎのみこと》は、ずっと日田にいたことになるのですか?」 「そうではないさ。そこから、葦原《あしはら》の中つ国に出掛けたのさ」 「そうでしたね。天孫が久士布流多気《くしふるたけ》に天降《あまくだ》りするのは、葦原の中つ国に行くためでしたね。それで、その国はいったいどこにあったというのですか」 「そんなに人を頼りにしないで自分で探してごらん」  恭介にそういわれ、研三は、あわてて九州の地図を見まわした。葦北《あしきた》という地名はあるが、葦原らしい地名はない。千秋《ちあき》とか水穂《みずほ》という名も見あたらない。研三は、とうとう降参した。 「わからないかなあ。日田盆地から海に出る道をたどって見てごらん。どこに行き着くかな。ただし、西に向かってではなく、大石峠を越えて北側に向かうのだよ。山国《やまくに》川があるね、それを下《くだ》って行く」  研三は、地図の上を指でたどっていった。そして、山国川が海岸に達する場所の地名を見ると、「あっ」と叫び声を上げた。 「中津《なかつ》じゃないですか。豊前《ぶぜん》の中津。これなら、豊葦原の中つ国とぴったりですね。おどろきました。ほんとうに——」(*地図参照)  研三は、これまでも何度か難事件の解決の場面に立ち会っている。しかし、これほど劇的な発見のシーンはめったになかった。まるで、怪盗がさり気《げ》ない顔をして人通りの多い街中に住んでいるのを、名探偵《たんてい》が推理でもって発見してみせたときのような感激だった。  恭介も、いかにも満足そうだった。 「そうさ。�中つ国�はそこ以外にないよ」 「だとすると、三世紀に宇佐《うさ》にあった邪馬台国《やまたいこく》というのは、甘木《あまぎ》付近にあった第二次高天原から脱出した邇邇芸命《ににぎのみこと》の一行と、当然、関係がなくてはならないことになるでしょうね」 「もちろん、そういうことになるね。中津といえば、僕らの『邪馬台国の秘密』で、奴《な》国と不弥《ふみ》国との中間地点とした所だ。邇邇芸命の一行が、中津に移ったと考えられる時期は、例の饒速日命《にぎはやひのみこと》たちが大和《やまと》へ出て行ったあとであることは間違いないが、いつのこととは特定はできないよ。しかし、『魏志《ぎし》』で、邪馬台国には、はじめ男王がいて、国が治まらず、後に女王を共立して治まった、とある——卑弥呼《ひみこ》が登場するよりは以前に違いない」 「だとすると、葦原《あしはら》の中つ国には、邇邇芸命だけではなく、もしかすると、天照大神《あまてらすおおみかみ》も同行し、それが卑弥呼となった、とは考えられませんか」 「同行したのではなく、国が治まらないので、高天原から呼んで来た、というのならいいだろうが、無理にそう考えることもないだろう。�女王を立てるとよい�という高天原の知恵を伝授しただけかもしれない」  研三は、やっと納得した。これまで、甘木付近に高天原があったという説にひかれる点もあり、それが宇佐=邪馬台国説とは両立できないため、しいて目をつぶってきたのだったが、もう、その必要はなくなった。  それにしても、恭介の天才ぶりは遺憾なく発揮された。 「ほんとうにすばらしい解釈です。葦原の中つ国は、豊葦原の中つ国とよぶこともありますが、中津は、�豊《とよ》�の国のそれこそまん中にありますからね」 「どうだい。君の疑問も一つは解けたね。さっき、日向の地名一覧を見て、僕が立てていた仮説がこれで証明できたと思ったよ」  研三は、こうもみごとに、恭介が第一の難関を突破するとは思ってもいなかっただけに、感慨もひとしおだった。  十一 邪馬台国《やまたいこく》の消滅  神話の中に歴史が隠されている——ということは、研三も考えなかったわけではない。かといって、無理なこじつけでなしに、これほど自然に天孫降臨の意味が解けるとは予期しない収穫だった。 「ところで、神津さん。いまの話で、高天原《たかまがはら》が危急存亡の状況にあったという仮定を立てましたね。それは、いったい、どういうことだったのでしょうか」 「九州の内部で、きびしい対立・抗争があったとすれば、日本の史書では、天皇家と熊襲《くまそ》ということになるし、『魏志《ぎし》・倭人伝《わじんでん》』にしたがえば、邪馬台《やまたい》連合国対|狗奴《くな》国ということになるよね。それ以外にあったかもしれないけれど、この対立が、いちばん自然なケースだろうね」 「だとすると、宇佐《うさ》神宮が天皇家の宗廟《そうびよう》(本家の御霊屋《みたまや》)であり、邪馬台国が宇佐にあったのだから、熊襲《くまそ》と狗奴《くな》国は同一と考えていいということになりますね」 「常識的に考えて、そうなるね。それに、クマとクナは発音も通ずるし、現在の熊本県には球磨《くま》郡があり、そこが熊襲の本拠地だという説もあるだろう」 「あります。一般に、そう考えられています。また、『魏志』にも、�狗奴《くな》国あり、男子を以《もつ》て王となす。その官に狗古智卑狗《くこちひく》あり�とありますが、その発音が菊池彦《きくちひこ》に似ていることから、肥後《ひご》(熊本県)北部の菊池と結びつける説が有力です」 「熊襲の実態や、その動きなどについての考察は、機会があればすることにして、ここでは、二世紀ごろ、甘木《あまぎ》付近にあった第二次|高天原《たかまがはら》つまり、いわゆる天孫族の住んでいた地域にたいし、熊襲《くまそ》イコール狗奴《くな》国が攻勢をかけたということにしよう。それが、高天原の危機で、邇邇芸命《ににぎのみこと》の脱出、逃避行の原因になったと考えよう」 「まあ、いいでしょう。では、三世紀の邪馬台国《やまたいこく》はどんな国だったか、という問題に移りましょう。『魏志《ぎし》』には、このように書いてあります。�官に伊支馬《いきま》あり、次を弥馬升《みましよう》といい、次を弥馬獲支《みまかき》と曰《い》い、次を|奴佳※《なかで》という�そして、女王|卑弥呼《ひみこ》は、兵士に守られ、厳《おごそ》かに設けられた宮室に住み、楼観《ろうかん》・城柵《じようさく》もあったというから、相当な権力をもっていたことでしょう。魏使《ぎし》が来たころは、�年すでに長大なれども夫壻《ふせい》無し、男弟あり、佐《たす》けて国を治む�と記してあり、�婢《ひ》千人を以《もつ》て自ら侍《じ》せしむ、ただ男子一人ありて飲食を給し、辞を伝えて居処に出入す�ということですから、たいへんな権威があったのでしょう。だからこそ、卑弥呼は�鬼道に事《つか》え、よく衆を惑《まど》わす�ことができたのだと思います」 「それで、女王は二十余国の連合の上に君臨していたわけだ。当時の邪馬台国以下の諸国は、大人《たいじん》と下戸《げこ》との階級差は厳《きび》しかったようだが、国内に諍訟は少ないなど、平和な国として描かれていたね」 「そうです。ところが、卑弥呼が死んでのち、男王を立てたが国中が服さずに殺し合いになり、当時、千余人が殺された、とあります。結局は、年十三の宗女の台与《とよ》が立てられ、王となり、国中はようやく治まったということになっています」 「そこで、君が知りたいのは、その後の邪馬台国のことだろう」 「そうです。いったい、どうなったのか。それだけはぜひとも、知りたいですね。神津さん。どうか推理してみてください」 「それは無理だよ。とはいっても、あるていどの輪郭《りんかく》は描けると思うよ。想像力を用いて具体的な肉づけをするくらいのことはね。  いいかい。一般論として考えよう。二十余国の連合政権がある。そして、対立する難敵がいる。象徴的な君主である女王は、�年すでに長大�で、いつ死ぬかわからない。その権威も次第に色あせてきている。こういうときに、何がおきるだろうね」 「つぎの王位を狙《ねら》う陰謀でしょうね。女王を助ける男弟を打倒し、二十余国に号令しようとする者が出てきても不思議ではないと思います」 「その陰謀をめぐらすのは、どういう人物だろうか。小説家として推理してみないかい」 「そうですね。卑弥呼《ひみこ》のそばに仕える男弟ではありませんね。むしろ、官の伊支馬《いきま》か、副の弥馬獲支《みまかき》あたりでしょうね」 「では、そういう人物は、どこの国の出身者だろうか? 邪馬台国のはえぬきか、それとも二十余国の傍国《ぼうこく》の出か——」 「何ともいえませんが、王国の連合体が女王の政権を支えていたとすれば、邪馬台国の最高官僚は、傍国のどこかの国王の弟とか、次男坊あたりではないでしょうか」 「まあ、そんなところだろうね。ところで、松下君、君がその高級官僚の一員だったとして、クーデタを起こして政権を得ようとたくらむとすれば、どういう策を考えるかい?」 「いくつかの国に働きかけるでしょう。しかし、これはきわめて危険です。むしろ、外交政策、たとえば、敵対する狗奴《くな》国との交戦か和平かをめぐって国論を二分し、主流派に何か失敗をさせるといった手を考えますね」 「なかなか凄腕《すごうで》だね。僕もそう思う。その場合、君は主戦論を説くかい。それとも、和平論を支持するかい。どちらだね」 「主戦論は、大義名分があり一時的には多数派になれます。しかし、それでは政権奪取にはつながりません。だから、内部工作としては、主戦論者に過激なことをいわせておき、一方では、敵国に使者を送り、狗奴国の内部の和平論者と手をにぎります。そして、緊迫した情勢を解消して、両国の親善関係を実現する役割を買って出て、平和の使徒として世論を味方にし、過激派を一掃することによって政権を手に入れようとするでしょう」 「たいしたものだ。さすが、推理作家だけのことはある。やあ、どうも失敬。では、そんな筋書きが進んだとする。ところが、突然、卑弥呼《ひみこ》が死んだらどうなるだろう」 「狗奴《くな》国がわは、これぞ好機到来というのですぐさま、武力侵攻をしかけてくるということが考えられますね」 「想像でものをいうのはよくないが、具体的なイメージを描いてみないと、こういう出来事の実態はつかめないし、仮説を立てようにも立てられない。そこで、もう少し、君の想像力を借りることにしたいのだ。それでだね、狗奴国が邪馬台国に武力侵攻を始めたとすると、狗奴国内部の和平派の立場はどうなるだろうね」 「敵国と通じていたわけですから、それこそ、邪馬台国の和平派と組んで、両国の同時クーデタでもおこす以外に道はなくなることでしょう」 「それでは、そういう情勢の推移があったとしよう。その場合、和平派のクーデタが失敗すれば、その陰謀のリーダーは当然、殺されるよね。成功しても、永続きはしないだろう。一時的に政権を得ても、行きつく先は国外亡命ということになるのがオチだと考えていいだろうね。  ほんとうのことはわからない。しかし、卑弥呼の死が邪馬台国《やまたいこく》連合の分裂をもたらしたことは『魏志《ぎし》』にあるように史実だ。一時的に立てられた男王は、その後、どうなっただろうね」 「なるほど、そんなことを考えていたのですか。千余人が殺されるくらいの内紛になったからには、生きていたとすれば国外脱出ですね。それで、その男王だった人物の亡命先はどこだというのですか」  研三には、やっと恭介が考えていたことがいくらかわかりかけてきた。邪馬台国《やまたいこく》のクーデタ未遂事件などについて考えてみたこともなかった。まして、首謀者だった男王の亡命先など想像外だ。 「それは、大和《やまと》だよ。そこしかないじゃないか。もし、伊都《いと》国王に手引きをしてもらえるとすれば、ヒボコ系の誰《だれ》かに頼んで、近畿地方に逃げられる。そのころ、大和の権力者は誰だっただろうか」 「二四八年とすれば、崇神《すじん》天皇です」 「前に、三宅さんは、崇神天皇は外部から来た人物だろうといっていた。邪馬台国家連合国の男王として立ち、失敗した人物でも、有力なコネがあれば大和王朝を乗っ取ることができてもいいのではないかな」 「それはそうですが、僕らの推定では、崇神天皇の即位は二四二年です。六年ばかり年代がずれます」 「まあ、いいじゃないか、六年くらいは。あるいは、崇神天皇の大和でのほんとうの即位は、二四八年でも、邪馬台国では六年前に実権をにぎっていたのだと称し、記録上は即位年をくりあげたとしてもいい」 「ずいぶんと思い切った想定ですね。でも、なにか裏づけがないと、仮説としても成立しないと思いますが」 「それはそうだ。僕は、これを間違いなく事実だと主張する気はないよ。しかし、崇神天皇の名の御真木=ミマキと、邪馬台国の官名の弥馬升《みましよう》や弥馬獲支《みまかき》は、発音が似ていると思わないかい。それに、崇神天皇の子の垂仁《すいにん》天皇の名はイクメだろう。それは伊支馬《いきま》に似ているね。単なる偶然の暗合だといわれれば、それまでだが」 「ミマキやイクメを邪馬台国の官名と結びつけるアイデアは、これまでにも二、三の人が出しています。残念ながら、神津さんの発見というわけにはいきませんよ」 「誰《だれ》でも気がつきそうなことだものね。まさか、語呂《ごろ》合わせだけで、崇神《すじん》天皇が邪馬台国出身だなどとはいわないよ。僕が注目すべきだと思うことは、崇神天皇の軍事力のことだよ。もちろん、崇神天皇が九州から大和へ進出して来た人物だという仮定を前提としての話だがね」 「それはそうでしょうね。三世紀の近畿地方で、洋子さんがいうように�五タン王朝�があって、ヒボコ系が勢力をもっていて、その手引きがあったとしても、そうやすやすと外来者が連合王国の盟主の地位にはつけないでしょうからね。それで、神津さんは、崇神天皇を擁して近畿地方に乗りこんで来た軍事集団とは、いったいどういう勢力だというのですか」 「それは熊襲《くまそ》だよ」 「えっ。熊襲といえば、大和勢力の宿敵ですよ。現に、崇神天皇の孫の景行《けいこう》天皇は熊襲征討のために九州に出かけているではありませんか」 「だからこそ、そうだというのだよ。熊襲といういい方が悪ければ、狗奴《くな》国の和平派だよ。二国の同時クーデタに失敗すれば、当然、狗奴国にはいられなくなる。とすれば、弥馬獲支《みまかき》こと崇神天皇と同盟して近畿地方を目ざすことになる」 「なるほどね。筋はとおっていますね。しかし、それでは、やはり空想の域を出ないお話だということになりませんか」 「その狗奴国の和平派というのが、じつは、大伴《おおとも》氏のことであるといってもかい。熊襲の正体は大伴氏の同族だというのが根拠だよ」 「なんですって、大伴氏というのは物部《もののべ》氏とともに五、六世紀の大和王朝で最大の勢力者だし、天皇家のもっとも忠実な守護者ですよ。それが熊襲の出身だなんていえば、世間で笑い者にされますよ」 「そういうものかね。僕にいわせれば、そういう偏見が熊襲についての誤解の原因だと思うよ。前に見ただろう。国産みの最初のときから、筑紫《つくし》(九州)の四つの国の一つとして�熊曾《くまそ》の国の�名があげられていたね。ところが、歴史時代に入って出て来る熊襲といえば、景行《けいこう》天皇と日本武尊《やまとたけるのみこと》に征討されたという記事と、仲哀《ちゆうあい》天皇のときに叛乱《はんらん》を起こしたと書かれているだけで、以後、かき消すように姿が見えなくなってしまう。これはいったい、どういうことだね。まさか、一人残らず根絶やしにされたわけではないだろうね。熊襲はいかにも狂暴な種族のように書かれていながら、応神《おうじん》天皇の時代以後、まったく歴史に現われなくなることを、どう説明するつもりなのだ」 「しかし、大伴氏が熊襲の出だという積極的な証拠はないでしょう。それよりも、大伴氏の先祖は天つ神なのですよ。天孫降臨《てんそんこうりん》に随行した天忍日命《あめのおしひのみこと》が遠祖で、その二代後が道臣命《みちのおみのみこと》です。道臣命は神武《じんむ》天皇の東征のときの第一番の同伴者です。そして、その六代後の武日命《たけひのみこと》は倭健命《やまとたけるのみこと》(日本武尊)のお伴をして蝦夷《えぞ》征伐に出かけていますから、どう考えても熊襲《くまそ》出身であるはずはないでしょう」 「そうかね。僕はいっただろう。大伴《おおとも》氏は狗奴《くな》国の和平派だったとね。ということは、狗奴国には抗戦派がいたということだよ。崇神《すじん》天皇と大伴氏が大和《やまと》入りした後に、九州に残った狗奴国の抗戦派は、しばしば旧|邪馬台国《やまたいこく》にたいして攻勢をかけた。それは、きわめて自然なことだね。その狗奴国の残党のことを名づけて熊襲とよんだのさ。逆にいえば、彼らと同族の大伴氏は、新大和王朝に忠勤を励《はげ》み、進んで自分のかつての同族の討伐にも参加しただろうし、自分の出自については、天皇家と同じ天つ神の一族ということを強調し、熊襲系だったことは忘れてしまった顔をしたのさ」 「でも、それだけでは、大伴氏を熊襲と結びつける根拠としては不十分ではないでしょうか。もう少し、積極的な証拠がないと——」 「それならいおう。神武東征のとき、大伴氏の遠祖の道臣命《みちのおみのみこと》が率《ひき》いて行ったという軍団があったね。あれはなんといったっけね」 「久米《くめ》氏です。�みづみづし、久米の子らが……�という歌謡が『古事記』に出ています」 「そうだね。その久米氏というのは大伴氏の同族ではなかったかい」 「そうですよ。『万葉集』の歌人の大伴家持《おおとものやかもち》の歌にも出てきます。四〇九四歌——陸奥《むつ》国より金《くがね》を出せる歌——では、�大伴の遠つ神祖《みおや》の その名をば大|来目主《くめぬし》と 負《お》ひ持ちて仕《つか》へし官《つかさ》�と唱《うた》い、そのあとに、�海行かば水漬《みづ》く屍《かばね》、山行かば草むす屍《かばね》、大君の辺《へ》にこそ死なめ かへりみはせじ�という戦時中に愛唱された文句が続いています」 「それが証拠だよ。久米という地名は琉球《りゆうきゆう》(沖縄)にもあるね。それから、カンボジアもクメールという。勇猛な軍人のイメージがともなっている。久米はクメであり、クマでありクナだよ。熊襲《くまそ》、狗奴《くな》なのだよ」 「なるほど、そういうわけですか。それなら文句はありません。たしかに、神津さんがいわれるように、熊襲が歴史から消えてしまうのは不思議です。よく、熊襲と並べて論じられる隼人《はやと》のほうは、奈良時代以後にも名が出てきますし、隼人出身を名乗る人はいますが、熊襲出身だという人は聞いたことがありません。あれだけ強大な勢力があった種族が歴史から痕跡《こんせき》も残さずに消失してしまうことは、こう考える以外に説明がつきませんね」  恭介のこの奇想天外とも思える仮説には、研三は驚嘆すると同時に、次第に共鳴を感じてきた。 「では、神津さんの説が正しかったとして、崇神天皇たちが大和へ出て行ってしまった後の邪馬台国《やまたいこく》は、いったいどうなったのでしょうか」 「まず、いえることは、崇神《すじん》天皇の二代後の景行《けいこう》天皇の時代、それは四世紀前半だね、神夏磯媛《かむなつそひめ》の名が出て来たね。もう、ありし日の邪馬台国の面影はなく、鼻垂《はなたり》だとか耳垂《みみたり》だとかいう連中に手こずっている。そして、仲哀《ちゆうあい》天皇と神功《じんぐう》皇后が筑紫《つくし》にやって来たとき、伊都《いと》国王の子孫と思われる五十迹手《いとで》の名は出てくるが、邪馬台国を思わせる存在は『記・紀』には現われてこない。それどころか、応神《おうじん》天皇が北九州で生まれた記事のあと、第二十六代|継体《けいたい》天皇まで、つまり、五世紀いっぱい九州関係の記事は一つも出てこない。いいかえれば、邪馬台国は、ほぼ応神天皇の誕生と同時に地上から消滅してしまったわけだ」 「そうですね。じつに不思議です。邪馬台国はどこに行ってしまったのでしょうか」  そのとき恭介は、研三と洋子が耳を疑うような奇怪なことを、さり気《げ》なくいってのけた。 「須佐之男命《すさのおのみこと》が現われたのだよ。宇佐女王国は、須佐之男命の出現によって歴史的な役割を終え、その後は、宇佐《うさ》氏・大神《おおが》氏・辛島《からしま》氏らの三者|鼎立《ていりつ》の時代になり、やがて、宇佐神宮になってしまうのだ」  これには研三は開《あ》いた口がふさがらないほどおどろいた。恭介は、そういってのけると、すました顔で研三と洋子の二人を眺めている。 「なんですって、須佐之男命は神話上の人物ですよ。それが四世紀も終わろうというときに、突然、飛び出してきたりして、いいのですか」 「そうだよ。おどろいたかい。その証拠に、須佐之男命の三人の娘——宗像《むなかた》の三女神が宇佐神宮に祀《まつ》られているじゃないか」 「だからといって、時代がかけ離れすぎていますよ。そんなことをいったら、世間の人の物笑いの種にされますよ」 「それはそうだ。ただし、僕のいう須佐之男命というのは、神話上の人物のことではないよ。神話のモデルの一つになった歴史上の人物のことだ。  いいかい。『古事記』では、須佐之男命はいろいろの顔をもっていたね。まさに、怪人二十面相、いや、八面相くらいかな。あるときは荒ぶる神であるかと思えば、また、あるときは大蛇《おろち》退治をする英雄となる。そして、ときとしては、樹木の種を配ってくれる人民の救済者でもあったね。ヒボコと同じく牛の角をもった神、牛頭天王《ごずてんのう》でもあり、朝鮮《ちようせん》とも深い関係があったね。ところで、須佐之男命についての『記・紀』の記事で、もう一つ見逃すことのできない重要な�顔�があったね。思い出してほしいのだ」  そういわれて、研三は『古事記』の須佐之男命に関する記事を急いで頭の中に再現してみた。 「どうだい、気がついたかい。四世紀の末近くに宇佐女王の前に現われた須佐之男命は、乱暴者ではないさ。身の潔白を証明するために、女王と誓約《うけい》をしたのだよ」 「えっ。誓約《うけい》というと、天照大神《あまてらすおおみかみ》と須佐之男命《すさのおのみこと》が剣《つるぎ》を折って霧を吹き、そこから宗像《むなかた》の三女神が生まれたという、あの神話のことですか」 「そうだよ。そのとおりだよ」 「すると、どういうことになるのですか。まさか、その男が宇佐女王と結婚したとでもいいたいのではないでしょうね」 「いや、まさしく結婚したのだよ。そして、女王を国外に連れ出したのさ」  研三には、恭介のいおうとすることの意味が解しかねた。 「どういうことですか? そうすると、宇佐《うさ》女王は三女神を産んだというのですか。宗像《むなかた》の三女神というのは神話ではなく、事実だというのですか」 「そのとおりだよ。現に、宇佐神宮に祀《まつ》られているじゃないか」 「どうも、よくわかりませんね。三女神といえば、多紀理姫《たぎりひめ》・市寸島姫《いちきしまひめ》・多岐都《たぎつ》(田心《たごり》)姫《ひめ》といい、宗像神社の祭神ですよ。それがどうして宇佐女王の娘だというのですか」 「つまりね、僕が須佐之男命といったのは、本名が誉田真若《ほむたまわか》で、三人の娘というのは、応神天皇の后妃《こうひ》となった高木之入姫、仲姫、弟姫のことだよ」 「でも、三后妃を産んだのは尾張の連《むらじ》の祖の建伊那陀宿禰《たけいなだのすくね》の娘の志理都紀斗売《しりつきとめ》という女ですよ。それが宇佐女王だというのですか」 「うん。たしかに、『古事記』には、そう書いてある。しかし、『書紀』のほうには、誉田真若の妻の名は書いてはないね。それから、尾張の連《むらじ》の祖という建伊那陀宿禰《たけいなだすくね》という名は、須佐之男命が八岐《やまたの》大蛇《おろち》を退治して救った娘の櫛名田比売《くしなだひめ》とそっくりだね。須佐之男命は、この櫛名田比売と結婚している」  恭介がいいたいことは、こういうことだろうと研三は想像した。それは、宇佐女王が、八岐《やまたの》大蛇《おろち》のような恐ろしい敵によって苦しめられていたとき、どこからか須佐之男命のようにたくましい男、誉田真若がやって来て救ってくれた。櫛名田比売の立場にあった宇佐女王は、救い主である誉田真若と結婚して三人の娘を産んだ——ということだろう。 「そうすると、誉田真若と宇佐女王との間に生まれた三人の娘たちが、宗像の三女神というわけですね」 「うん。そういうことになる」 「では、この二人は宗像海人族と関係があることになりますね」 「その点は、こう考えたらどうだろうか。誉田真若の出身地は北九州のどこかにあったとして、尾張氏は天火明命系で海人族だから、同じ海人族の宗像氏とも結びつきがあってもおかしくないと言えないだろうか」 「まあ、それ以上のことは想像するしかないでしょうね。ところで誉田真若は宇佐には留《とどま》らないで、宇佐女王と三人の娘を外に連れ出したというのですか」 「そういうことになるね。たまたま、そのころ、朝鮮《ちようせん》から帰り、応神《おうじん》天皇を産み、さて、大和《やまと》に帰還しようと思うものの、夫の仲哀《ちゆうあい》天皇が大和に残してきたという香坂《かごさか》王と忍熊《おしくま》王たちが皇后の帰還を喜んでいないため、進退について悩んでいた神功《じんぐう》皇后を見て、誉田真若《ほむたまわか》は援助を申し出た——とこういう筋書きを考えたのだよ」 「つまり、誉田真若は、神功皇后の後楯《うしろだて》となって大和入りを実現させたというのですね。ということは、その後にできた河内《かわち》王朝——応神天皇の王朝というのは、誉田真若が実権をにぎっていたものだ、ということですか」 「察しがいいね。まさしくそのとおりだと思うよ。ただし、誉田真若は大王にはならず、王家の外戚《がいせき》となって実権をおさえていたということになるね」 「それは、こういうことですね。誉田真若が宇佐女王に産ませた三人の娘を、神功皇后の子の応神天皇の后妃《こうひ》にすえ、自分の孫が大王位につく日を楽しみにしていたということですね。ちょっと、系図の形式で書いてみましょう」 「どうだい、面白いだろう。応神天皇の子に、伊耆真若《いざのまわか》と伊耆麻和迦《いざのまわか》というのがいたね。応神天皇の幼名の去来紗別《いざさわけ》と、誉田真若の二人の名を合成した名といえるね。ついでだから、宗像《むなかた》三女神の系図も書いてごらん」 「話の筋というのは、わかりました。しかし、どうして、そういう仮説を証明するつもりなのですか」 「それには、まず、応神《おうじん》天皇の后妃《こうひ》のうち、皇后の中比売《なかひめ》と妃《きさき》の弟比売《おとひめ》の名が欠けていることがある。長女の高木之入日売《たかぎのいりひめ》も景行天皇の皇子と同名で実名かどうか怪しい。そして、なによりもの証拠は、宇佐八幡の祭神に宗像《むなかた》三女神がいることさ。須佐之男命《すさのおのみこと》の娘が、宇佐にいる理由はないよね。ところが、応神天皇の后妃だったら祀《まつ》られて当然だ。『記・紀』が后妃の実名を書けないのは、それが宗像三女神の名と同じだと、秘密が秘密でなくなってしまうものね」 「でも、宇佐神宮が、土地の女王や、その救い主を祀《まつ》るというのならわかりますよ。なぜ、応神天皇とその后妃を祀らなくてはいけないのですか」 「その点については、いまのストーリーを多少、補う必要があるね。誉田真若《ほむたまわか》は宇佐の救い主だ。しばらくは宇佐に滞在していたが、やがて女王を連れて宇佐を出て行った。しかし、宇佐を見捨てたわけではない。応神天皇自身も、神功《じんぐう》皇后も、河内《かわち》王朝を築きながら、つねに北九州を故郷同然に愛し続け、宇佐《うさ》氏を援助し、大神《おおが》氏を支えてきたことだろう。つまり、邪馬台国《やまたいこく》は消滅しても、応神天皇の子孫は宇佐を祖先の霊の宿る土地と考えた、ということになるね」 「宇佐神宮側が、宇佐女王の子の比売大神《ひめおおかみ》とよばれる三女神を祀《まつ》ることはわかります。しかし、その姫たちの夫となった応神天皇や、そのまた母の神功皇后を祀る理由はわかりませんね」 「うん。比売大神を祀っているのは宇佐氏だけれど、宇佐における第二勢力だった大神《おおが》氏が、時の大和王朝の力を借りて宇佐氏に対抗するために応神天皇を担《かつ》いだのだろうし、第三勢力だった辛島《からしま》氏も、ヒボコ系の勢力と結びつくために、ヒボコの子孫でもある神功皇后を持ってきたということは考えられる」 「そうですね。宇佐八幡に牛頭《ごず》社があるのは、誉田真若が須佐之男命である証拠になるわけですね。ところで、僕には、とても不思議に思えることがあるのです。それは、何だって、突如として、誉田真若が宇佐に出現するのでしょうね。真若の父は五百木入日子《いほきいりひこ》ですね。そのまた父は、景行《けいこう》天皇です。そのことは、誉田真若は大和に住んでいるはずの人物ということです」 「いいことに気がついたね。どうだろう。洋子さん。あなたには、この謎《なぞ》は解けるかい?」  恭介は、聴《き》き手一方になっている洋子に同情したのか、それとも、彼女をテストしようという意地悪い気を起こしたのか、風向きを洋子にかえた。 「はい。よくはわかりませんが、八坂入姫《やさかいりひめ》と関係はないでしょうか? 誉田真若の父の五百木入日子は、景行天皇が美濃《みの》で見つけた美女の八坂入姫の子です。そして、八坂神社は須佐之男命を祀《まつ》っています。そのへんから、何とか説明がつかないでしょうか」 「偉い。いい線をいっている。ただし、僕の答えはちょっと違う。五百木入日子は一度も大和には住んでいない。したがって、その子の誉田真若も大和の人間ではない」  今度は、研三が抗議した。いくらなんでも、そういう勝手なことをいってもらっては困る、といいたかった。 「だって、神津さん。それはないですよ。景行天皇が八坂入姫を見出したのは美濃(岐阜県)だったし、八坂入姫が最初に産んだ若帯日子《わかたらしひこ》は成務《せいむ》天皇ですから。二男の五百木入日子が大和の人間ではないなんていうことは考えられないじゃありませんか。いったい、どこの人間だというのですか」 「あっはっは。じらして悪かった。彼らは九州に生まれ、九州に育ったのだよ。それはどこか、というのだろう。已百支《いほき》国だよ。『倭人伝《わじんでん》』に出てくる邪馬台国《やまたいこく》の傍国の一つの已百支国だよ」 「でも、已百支《いほき》国が九州にあるからといって、五百木入日子《いほきいりひこ》が九州生まれだなどということはできませんよ。発音が似ているだけのことじゃないですか。五百木入日子の母は、美濃《みの》(岐阜県)の出身じゃないですか」 「そこに陥《おと》し穴があるのさ。八坂入姫のいたミノは岐阜県のミノではなく、九州のミノなのだよ」 「ほんとうですか? 九州のどこにミノという地名があるのですか? 聞いたことがないですね。よほど小さな地名でしょう」 「そんなことはないよ。君が持ってきてくれた地図帳を頼りに、僕は、景行《けいこう》天皇が歩いた道をたどってみた。すると、その終点の近くに、ちゃんとミノがあったよ。どうだい、地図帳を見てごらんよ」  研三は、いわれるままに、地図帳を開いてみた。景行天皇の九州巡行の最終地点は、筑後川中流の的《いくは》(浮羽)だ。その前の経過地は八女《やめ》だ。そのへんに、ミノなどという地名はいくら探してみても見あたらない。(*地図参照) 「なんだい。まだ、見つからないのかい。筑後川の南岸の山地の名前を見てごらん」  研三は、飛び飛びに活字が並んでいる山地名を見落としていたのだった。そこには、何と水縄《みのう》(耳納《みのう》)山地と書かれていた。 「あっただろう。八坂入姫は、この地方の人間さ。景行天皇は、長男の成務天皇のほうは大和に連れて帰ったが、二男の五百木入日子《いほきいりひこ》は、おそらく、土地の人たちに請《こ》われたので、九州に残したまま大和に帰ったのさ。そして、その子は成長すると已百支《いほき》国の王となったということさ。誉田真若は、その第二代目だよ。もし、暇《ひま》があったら、精《くわ》しい地図で、北九州の地名を調べてごらん。きっと、八坂という地名が見つかると思う。それから、イザサという地名もね。誉田真若も、応神天皇と同じく、イザサ真若だったと思えるからね」  研三は、恭介の推理に圧倒されてしまった。宇佐神宮には、須佐之男命が関係しているらしいことは、宗像《むなかた》三女神との連想でボンヤリ感じたことがないわけではない。しかし、景行天皇の九州巡回までが、応神天皇の后妃《こうひ》の父親である誉田真若と結びつこうとは夢にも思わなかった。  まったく手懸《てがか》りがなさそうな難問が、こうもみごとに解けるとは——研三は、しばらくの間、うっとりとしていた。  十二 神武東征《じんむとうせい》はなかった 「おい、松下君、どうしたんだ。先へ進もうじゃないか」  恭介にうながされて、やっと我に返った研三は、ぐっと深呼吸をすると、つぎの検討テーマを提出した。 「それでは、今度は�神武東征《じんむとうせい》�とは何であったか、ということについて考えていただきたいと思います。『記・紀』では、�欠史八代�の前に神武天皇がいて、日向《ひゆうが》(宮崎県)から出発し、大和《やまと》(奈良県)で即位して、日本最初の天皇になったように記されていますが、それが事実であったかどうかということです。ところが、第十代の崇神《すじん》天皇も、第十五代の応神《おうじん》天皇も九州からやって来たのだとすると、いったいどうなるのでしょうか」 「結論を急ぐことはないさ。まずは、神武東征のことが『日本書紀』にどう書かれているか。一つ、じっくり読んでみようじゃないか」 「そうですね。東征の動機は、東のほうに良い国があるというので移住しようということです。すでに饒速日命《にぎはやひのみこと》が行っていることを知ってのうえのことになっています。東征のコースは、日向——宇佐——崗《おか》(遠賀《おんが》川河口)——安芸《あき》(広島県)の埃宮《えのみや》——吉備《きび》(岡山県)の高島《たかしま》の宮を経て大阪湾に向かいます。それまでの日数は、『書紀』では、安芸まで二か月、吉備では三年ということになっていますが、『古事記』では、途中で十六年も過ごしたことになっています」 「上陸地点は難波《なにわ》というから大阪だね。最初の戦闘があったのは白肩《しらかた》の津の先で膽駒《いこま》(生駒)山の手前の孔舎衛《くきか》(衙)坂ということになっていたね」 「そうです。草香《くさか》(日下)といえば、物部《もののべ》氏の本拠地ともいうべき場所です。神武天皇——そのころの名は、狭野命《さぬのみこと》だったはずですが——の軍勢は、そこで長髄彦《ながすねひこ》の頑強な抵抗にあい、兄の五瀬命《いつせのみこと》は負傷します。そこで、�日の神の子が、日に向かって戦うのはよくない。日を背にして戦おう�というので兵を返し、紀伊《きい》半島の南端から再上陸をします」 「その途中で、同行の兄たちと別れることになっているね」 「そうです。長兄の五瀬命《いつせのみこと》は傷が悪化して紀伊(和歌山県)でなくなり、次兄の三毛入野命《みけいりぬのみこと》は、海神の娘だった母の玉依姫《たまよりひめ》がいる常世《とこよ》の国に行ってしまいます。もう一人の兄の稲飯命《いなひのみこと》は、暴風を鎮《しず》めるために剣《つるぎ》を抜いて海に入ったと書かれていますが、遭難したのでしょうか」 「熊野《くまの》から吉野《よしの》を経て奈良《なら》盆地に入る北上コースをとったわけだね。その進路には、いろいろな人物が現われてきたね」 「そうです。熊野川をさかのぼるコースはたいへんな難路です。というより、その当時では、とても踏破するのは無理ではなかったかとさえ思える山岳地帯です。上陸直後に、丹敷戸畔《にしきとべ》という女賊を討ちますが、なにやら毒気にうたれて神武軍は行動不能におちいります。すると、夢に天照大神《あまてらすおおみかみ》が現われ、建御雷神《たけみかずちのかみ》に命じて霊《ふつのみたま》という神剣を高倉下《たかくらじ》を通じて授けられることになります」 「神武東征には、天照大神が援助したことになっているね。道案内には八咫烏《やたがらす》が派遣されるし、長髄彦《ながすねひこ》との最後の決戦には、金色の鵄《とび》が飛んで来て天皇の弓の先に止まり、その輝きで敵軍の目をくらましている。戦前の日本軍人に授けられた金鵄《きんし》勲章のいわれだったね」 「山岳地帯を北上する途中では、吉野の国樔《くず》の祖先という磐排別《いわおしわく》だとか、吉野首《よしののおびと》の祖先という井光《いひか》だとか、阿太《あた》の鵜飼《うかい》の祖先という苞苴持《にえもつ》だとか、和珥《わに》の土蜘蛛《つちぐも》の居勢祝《こせのはふり》や臍見《ほぞみ》の長柄《ながえ》の土蜘蛛の猪《い》の祝《はふり》、高尾張の土蜘蛛の八握脛《やつかはぎ》などという奇怪な人物がつぎつぎと出現しています。彼らは、みな皇軍を歓迎したということになっています」 「彼らは、いわば現地の原住民と考えていいだろうね」 「そうです。吉野の山岳地帯の住民だった国樔《くず》は狩猟・採集生活者でしょう。井光というのは、たぶん水銀か何かの鉱物の採掘者だと思われます。阿太《あた》の鵜飼《うかい》が出てくるのも面白いですね。彼らは、天皇に服属したため、以後、その土地で生活することが保証されたわけです。土蜘蛛《つちぐも》とよばれる種族は、景行天皇の九州征討のときにも現われています。その名前から穴居生活者だったと考えられます。また、国樔《くず》の名は、『常陸国風土記《ひたちのくにふどき》』にも出て来ますから、関東地方にも住んでいたことになります」 「神武東征《じんむとうせい》というと、なかなか勇ましい戦闘をして賊を撃破したというふうに聞こえるが、じつは、たいした戦いはしていないね」 「そうなのです。『古事記』によると、兄宇迦斯《えうかし》を討つときは、弟宇迦斯《おとうかし》を手なずけ、兄の計略を密告させ、それを逆用しています。建物の天井に張った押機《おし》を落として圧死させるという方法です。兄宇迦斯は自分のつくった仕掛けにはまって殺されてしまいます。  また、『書紀』では、兄磯城《えしき》を破るために、弟磯城《おとしき》にたいして工作を加え、兄を裏切らせて策略によって倒しています」 「そして、『古事記』には�久米歌《くめうた》�がのっていたね。例の�撃ちてしやまん�という文句の入っている歌のことだ」 「そうです。敵を撃破するたびに、神武軍の兵士だった�久米の子�らは、勝利の歌を歌っています。しかし、『書紀』では、久米歌は国見丘で八十《やそ》梟帥《たける》を謀殺したときに歌われています。天皇側は、宴会を開き、八十梟帥たちを招待し、十二分に酒を飲ませ、酔い潰《つぶ》れたときに剣を抜いて皆殺しにしています」 「どうも、ほめられない方法だね。景行《けいこう》天皇の九州征討でも、日本武尊《やまとたけるのみこと》が出雲建《いずもたける》を討つときでも、皇軍の用いる戦法はすべて謀略だった。こういうことを、堂々と正式の史書に記録しているところは、逆に、フェアな編集態度だともいえないこともないが」 「神武東征の最終ラウンドは、土地の豪族の長髄彦《ながすねひこ》との決戦ですが、結果的には、長髄彦の妹を妻としている饒速日命《にぎはやひのみこと》が、長髄彦は性質がねじくれているからと称して殺してしまい、天皇——といっても、まだ即位前ですが、神武がわに降伏しています」 「東征軍のリーダー役をつとめたのは道臣命《みちのおみのみこと》ということになっているね。大伴《おおとも》氏の遠祖だという。ところが、この人物はあまり活躍していないね」 「そうです。丹生《にゆう》川の川上でお祭りをしています。高皇産霊尊《たかみむすびのみこと》など諸神のお祭りです。その方式は、五百箇真坂樹《いほつまさかき》を根からこじ抜いたものを使っています。道臣命の子孫の大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌(三七九歌)にも伝えられ『万葉集』にも出てきています。とにかく、道臣命のしたことは、これ以外には、八十《やそ》梟帥《たける》を謀殺せよという命令を忠実に実行したくらいのものです」 「東征が終わると、橿原《かしわら》の宮で即位し、神《かむ》日本磐余彦《やまといわれひこ》の名を称し、神武天皇となったというわけだね」 「そうです。磐余《いわれ》というのは、奈良盆地の東南で飛鳥《あすか》寄りの地名です。畝傍《うねび》山の南の橿原とは少し離れた場所です」 「それから、東征の功労者には表彰が行われていたね」 「大伴《おおとも》氏の先祖の道臣命《みちのおみのみこと》には築坂邑《つきさかむら》に宅地が与えられ、その部下の大来目《おおくめ》には畝傍山の西に土地が与えられます。また、道案内をした珍彦《うずひこ》には倭国造《やまとのくにのみやつこ》の地位が授けられ、兄を討った弟宇迦斯《おとうかし》は猛田邑《たけだむら》、同じく兄を裏切った弟磯城《おとしき》は磯城《しき》地方の、それぞれ県主《あがたぬし》に任ぜられます。そのほか、葛城国造《かつらぎのくにのみやつこ》も任命されます」 「神武《じんむ》天皇は、九州にいたころにお妃《きさき》と子があったね。何という名だっけ」 「日向の国の吾田邑《あたむら》の吾平津媛《あひらつひめ》を妃とし、手研耳命《たぎしみみのみこと》をもうけています。大和では、即位に先立って、事代主神《ことしろぬしのかみ》のとりもちで、|三嶋溝※耳神《みしまみぞくいみみのかみ》の娘の玉櫛媛《たまくしひめ》に事代主神が生ませた媛《ひめ》|蹈※五十鈴媛《たたらいすずひめ》を立てて皇后とします」 「事代主神といえば、出雲《いずも》の国譲りのときに、大国主命《おおくにぬしのみこと》の子として現われた神だったね。こんな所に出てくるのはおかしいね」 「おかしいといえば、霊剣《ふつのみたまつるぎ》が出てくるのも変です。この剣は鹿島《かしま》神宮(茨城県)に伝えられて現存しています。また、建御雷神《たけみかずちのかみ》は香取《かとり》神社(千葉県)の祭神で中臣氏・藤原氏の神です。そして、八咫烏《やたがらす》というのは、京都の上鴨《かみかも》・下鴨《しもかも》神社につながる賀茂《かも》氏の先祖ということになっています」 「こうやって、神武東征の話を見てくると、どうもリアリティは感じられないね。いわば、大和《やまと》王朝を取りまく豪族たちの先祖の名を出して、適当に物語りを書き並べたもののように見える」 「学者たちの多くの人も、そういった考え方をしています。『記・紀』の編集に際し、各氏族から伝承を提出させ、それをアレンジして東征談を創作したのだというのです」 「それはそれでいい。しかし、�神武東征�は虚構としても、九州からやって来た者が実際にいて、大和に新しい王朝を開いたのだ、という話の骨格が実在しなければ、そもそも、こういう話は創作できるわけはないよ。  そこで、�神武東征�の真の主体は誰《だれ》だったか、それを見つけなくてはいけないことになる。そのことをぬきにして、いくら�神武東征は虚妄《きよもう》である�と論じてもナンセンスだよ。何かがあって、�東征�の記事はつくられたのだ」 「ええ、僕らは、二つの東遷仮説を立てましたね。一つは、邪馬台国《やまたいこく》の副官の弥馬獲支《みまかき》が狗奴《くな》国の和平派である大伴《おおとも》氏と組んでやって来たというもの。これを�崇神東遷《すじんとうせん》�とよぶことにしましょう。  もう一つは、誉田真若《ほむたまわか》が後楯《うしろだて》となって、神功皇后と応神天皇を援《たす》けてやって来たというもの。これを�応神東遷《おうじんとうせん》�と名づけることにしましょう。  この二つの、どちらかが『記・紀』の�神武東征�のモデルだったと考えていいでしょうね」 「まあね。モデルといういい方は感心しないけれど、僕にいわせれば、その�応神東遷�の史実に即して、�神武東征�の物語りがつくられた、ということになる。だから、それを証明してみようじゃないか。とはいっても、生まれたばかりの応神天皇が、軍隊を率《ひき》いて大和征服などできるわけはない。応神天皇とは、直接には結びつかない。『書紀』の応神天皇や神功皇后の記事のほうをいくら読んでみても、九州遠征からの帰還と、それを妨害する二皇子を破ったという物語りしか書いてない」 「そうですね。では、いまの�神武東征�の記事の中のどこに、その証明の手懸《てがか》りがあるというのですか」 「うん。�神武東征《じんむとうせい》�のほうだけ見ていたのでは駄目だよ。今度は、神功《じんぐう》皇后の帰還の記事と比較してみよう。ただし、神功皇后の後ろには誉田真若《ほむたまわか》がいる、ということを念頭においての話だよ。そして、そのストーリーが、�神武東征�の記事と結びつくかどうか、について気を配りながら読むのさ」 「わかりました。そうしましょう。神功皇后の東上軍は、武内宿禰《たけのうちのすくね》が皇子をだいて紀伊《きい》水門に泊《とま》り、皇后の船は難波《なにわ》を目ざしますが進むことができず、務古水門《むこのみなと》(武庫=いまの神戸)にもどります。そこで、天照大神《あまてらすおおみかみ》と事代主神《ことしろぬしのかみ》、そして住吉《すみよし》大社の海神から教えを受けます」 「神武天皇のときにも、天照大神と事代主神が出てきたね。上陸作戦がスムースにいかなかった点も似ている」 「そうですね。皇后を迎え撃つ香坂《かごさか》・忍熊《おしくま》王は、最初、住吉に対陣しますが、その後、宇治《うじ》川で武内宿禰の軍と対戦します。ところが面白いことに、�日の光が輝いて日夜《ひるよる》が別れた�という金色の鵄《とび》を思わせる言葉があるほか、神武東征のときと同じく、和珥《わに》氏や葛野《かどの》という名が出てきます」 「戦闘のしかたはどうだろう。神武東征のときと似ていると思わないかい」 「表面上は似ていませんが、和平を申し出て武装解除をさせておいてから攻撃する点は、景行《けいこう》天皇が熊襲《くまそ》を討ったときも、神武東征のときも、武内宿禰による場合も謀略という点で同じです。それに、香坂王と忍熊王の二皇子という兄弟セットが登場することは�神武東征�のときの賊の兄弟の話に似ているといえるでしょう」 「まだ、あるじゃないか。この前の検討のときのことも思い出してごらん。応神天皇の話にも国樔《くず》が献上物をもって現われているよ。それとは別だが、さっき、阿太《あた》の鵜飼《うかい》の件が出たね。阿多というのは、隼人《はやと》の居住地だというじゃないか。その一方では、応神天皇が寵愛《ちようあい》したという日向の諸県《もろあがた》の髪長姫は隼人の居住地の女だね。だとすると、神功皇后の東征軍は隼人の男女を連れてきたのだろうか。とにかく、日向や隼人がからんでいる」 「じつをいうと、僕も、神武東征より前に、鵜飼《うかい》をする一族が近畿地方に住んでいたということは変だなと思っていました。鵜飼の習俗は、中国の南部にあることは、先日、あちらに行って確かめてきました。それが、九州の南部に伝わったのでしょう」 「問題は、鵜飼の風習が近畿地方に伝わった時期だ。それが、�神武東征�以前だったとは、ちょっと考えにくい。それに、阿太《あた》という地名は、神武天皇の九州時代のお妃《きさき》の出身地という吾田《あた》と同じ発音だ。吾田は『記・紀』では日向(宮崎県)だとしているが、ほんとうは鹿児島県の薩摩《さつま》半島の地名だ。こうなると、鵜飼の近畿地方進出は、�応神東遷《おうじんとうせん》�と同時ごろのことで、その記憶を史書の編集者が�神武東征�の記事にはめこんだと、するべきだね」  どうやら、『記・紀』に書かれている�神武東征�の記事は、�応神東遷�の史実をもとに、固有名詞を適当に変え、状況設定を巧みに組み立て、各氏族の大和王朝にたいする忠誠心が示されるように、先祖以来の伝承を集めて編集されたものではないか——という想定が、確かめられたようだ。  しかし、研三には疑問があった。 「では、�神武東征�の出発点は、なぜ、日向(宮崎県)だとされたのでしょうね」 「うん。それは、�崇神東遷《すじんとうせん》�のとき同行した大伴《おおとも》氏の一族が宮崎にいたからというふうにも考えられるし、�応神東遷�のときにも、誉田真若に呼応して、旧|熊襲《くまそ》の同族だった大伴氏の一派が宮崎から駈《か》けつけたから、と解釈をするところかな。いずれにせよ、大伴氏が提出した史料を基礎にして�神武東征�の記事を創作したことは間違いないだろうね」  研三は、まだ半信半疑だった。�応神東遷�が�神武東征�と多くの点で似ている、ということだけで、�神武東征はなかった�と断言していいのだろうか? 「でも、もう一つ、はっきりした証拠が見つからないものでしょうか」  研三は、恐る恐る質問した。それにたいして恭介は、ベッドに横たわっていた上体を起こすと、やおら二人に向かっていった。 「では、決定的な証拠をお見せしましょう」  研三と洋子は、思わず拳《こぶし》をにぎりしめ、心もち膝《ひざ》をベッドのほうに近づけ、聴《き》き耳を立てた。 「だが、その前に、『古事記』や『日本書紀』に書かれている�神武東征�が存在しなかったと考えると、どういうことになるだろうか。松下君はどう思う?」 「ちょっと質問の意味がわかりませんが——」 「それはこういうことさ。もしも、神武天皇がいなかったとすれば、その子の綏靖《すいぜい》天皇もいなかったことになるね。逆に、綏靖天皇がいたということになると、その父がいなくてはおかしいね。一方的に、神武天皇を抹殺《まつさつ》すればすむというわけにはいかない、ということだよ」 「困りましたね。�応神東遷�の事実を擬装《ぎそう》するために�神武東征�の話をつくった、ということまでしか考えていませんでしたので」 「では、洋子さんはどう思う?」 「わたくしは、�欠史八代�の実在説を唱えましたから、綏靖天皇の存在は否定できません」 「うん。それでね、初代と二代の天皇についての関係は、どういうことになる?」  洋子は、しばらく首をひねっていたが、 「そうですね。神武天皇が日向にいたときにその土地の吾平津姫《あひらつひめ》との間に生まれた手研耳命《たぎしみみのみこと》が、皇位を狙《ねら》ったので、天皇が大和に来てから正式の皇后にした五十鈴媛《いすずひめ》の子の、神八井耳命《かむやいみみのみこと》と神渟名川耳命《かむぬなかわみみのみこと》の兄弟が相談して、父の先妻の子である兄の手研耳命を殺したという話があります。ありそうな話ともいえますし、それだけに作り話くさいとも思えます」  恭介は、研三のほうを向いていった。 「君はどう思う? このことは重大だからはっきりさせる必要があると思うよ」 「僕には、なんともいえませんね。しかし、『古事記』には、この事件についての歌謡が二つもついているし、『書紀』では、兄の神八井耳命《かむやいみみのみこと》は手脚《てあし》がふるえて弓を射ることができなかったので、暗殺に成功した弟の神渟名川耳命《かむぬなかわみみのみこと》のほうが即位して綏靖《すいぜい》天皇になったというふうになっています。このあたり、真実の伝承といった感じがします」 「そうかい。そうすると、神武・綏靖の父子関係は事実らしいというのだね。ところで、応神《おうじん》・仁徳《にんとく》の両天皇の関係は、どうなっていたっけね」  そういわれて、研三は、まえに応神天皇のことを検討したときのことを思い返してみた。  応神天皇には、たくさんの皇子がいたが、皇位をついだ仁徳天皇は、若いときの名を大雀命《おおささぎのみこと》といった。父の応神天皇が、後継者と定めたのは、異母兄弟の宇遅之和紀郎子《うじのわきいらつこ》だった。それなのに、大雀命が天皇になれたのは、和紀郎子が皇位を譲って自殺したからだ、ということになっている。しかも、そのまえに、この兄弟は、力を合わせて、長兄の大山守命《おおやまもりのみこと》を殺している。弟たちに、皇位をとられたくないというので、大山守命が叛乱《はんらん》を計画したからだった。 「あっ。そういえば、仁徳天皇は綏靖《すいぜい》天皇と同じように兄殺しをしていますね」 「やっと気がついたね。この二組の父子関係を比較してみるといい。どうだい。仁徳天皇を綏靖天皇に重ね、宇遅の和紀郎子を神八井耳命の上に乗せれば、たちまち、応神天皇イコール神武天皇ということになる」  これは、すばらしい証明だ。いままで、日本の歴史学者も古代史愛好家も、だれ一人として気づかなかったアイデアだ。さすがは、天才神津恭介だけのことはある。研三は、しばし、言葉もなく、感動に酔いしれていた。恭介も無言で二人を眺めていた。  ところが、突然、研三の頭の片隅《かたすみ》には、一つの疑問が浮かんできた。それは、暗雲のようにみるみるうちにひろがり、とうとう、研三の頭の中をおおってしまった。  それは、仁徳天皇|架空《かくう》説のことを思い出したからだった。天皇の実年齢を修正して算定するため、�一年二倍暦�を採用したのはよかったが、そのとき、仁徳天皇とは応神天皇と同一人物だ、としたのだった。  そうなると、せっかくの解答は、すべてご破算ということになってしまう。研三の頭はすっかり混乱し、しばらくのあいだ、呆然《ぼうぜん》として考えこんでしまった。恭介は、面白そうな顔で研三を見やっていたが、 「仁徳天皇は実在しないはずだ、といいたいのだろう」  恭介には、何もかも見とおしのようだ。研三の心の動揺は、やっとおさまった。 「仁徳天皇がいなければ、こんな話は生まれてこないよね。しかし、そうむずかしく考えることもないさ。仁徳天皇のつぎの天皇は何といったっけね」 「第十七代の天皇は、履中《りちゆう》天皇で、その倭《わ》風の名は伊邪本和気命《いざほわけのみこと》です」 「そうだったね。まえに見せてもらった応神天皇の子の中にも、伊耆真若命《いざのまわかのみこと》がいたね。この二人は、どうやら同一人物らしい。どうも、あのリストの内容は、多くの情報が入り乱れていて、重複も多いし、装飾もある」 「では、ほんとうはどうだ、というのですか?」 「うん。真相を確定することはむずかしいね。ただ、いえることは、仁徳天皇の皇子たちは事実どおりであるということさ。応神天皇の后妃《こうひ》と皇子たちのほうは、いろいろの要素が入り混じっていて信用できないね」 「では、大山守命の叛逆《はんぎやく》事件も、宇遅《うじ》の和紀郎子《わきいらつこ》が大雀命《おおささぎのみこと》(仁徳天皇)に皇位を譲ろうとして自殺したという話も、架空の物語りというわけですね」 「いや、そんなこともないよ。すまないが、応神天皇以後の系図を簡単に書いてみてくれないか」  研三は、テーブルの上にあった紙片に、次頁のような略系図を書いた。(*系図参照)   ・ ・   ・ ・ 「つまり、こういうことになる。履中《りちゆう》天皇が大山守命を殺して即位したと考えられるというわけさ。そして、反正《はんぜい》天皇の死後、群臣が允恭《いんぎよう》天皇に即位するように求めたのに、『書紀』によればこの天皇は、しきりに辞退している。この話をもとにして、宇遅の和紀郎子が大雀命に皇位を譲るという物語りを創作したに違いない。  大山守命が叛逆を計画したという事件は、おそらく事実だろう。ただ、殺されてしまった人物だから、応神《おうじん》天皇の皇子として記録することはできるが、仁徳《にんとく》天皇の皇子のほうのリストにはのせられない。  応神天皇イコール仁徳天皇は、その後、河内(大阪府)に絶大な権力をふるい、巨大な前方後円墳を築きあげたわけだ」 「わかりました。それで、すっきりしました。やはり、�応神東遷《おうじんとうせん》�は事実で、それをもとにして、�神武東征《じんむとうせい》�という物語りをつくりあげたと考えていいわけですね」  研三は、ほっと胸をなでおろした。 「では、応神東遷の実像をまとめてみようよ。まず、その時期だね。それは、神功《じんぐう》皇后が新羅《しらぎ》から帰還し、応神天皇——まだ、生まれたばかりの赤ん坊だね——をかかえて、大和《やまと》へ帰ろうと決意したとき。それは西暦三九〇年代のことだ。宇佐《うさ》では、誉田真若《ほむたまわか》——これも正しくは去来紗真若《いざさまわか》のはずだが、宇佐女王と結婚し、三人の娘をもっていた。この真若が、神功皇后を助けて大和入りを実現させ、自分も近畿地方に移ろうと思った。その軍団の輸送は住吉海人族が担当する。豊前《ぶぜん》の住民を率《ひき》いて参加を申し出る者もいた。神武天皇の兄とされる三毛入野命《みけいりぬのみこと》で象徴される人物だ。�三毛�は豊前の郡名だしね。宇佐と遠賀《おんが》(崗)から軍団を編成して東進し、大和側の軍と戦うことになる。迎え撃つのは、香坂《かごさか》・忍熊《おしくま》皇子ということになっている。  ところがだね。この二人は仲哀《ちゆうあい》天皇の皇子なんかではないのだよ」  研三は、またしても飛び上がらんばかりにおどろいた。 「それはなぜですか。神功皇后の子に皇位を奪われたくないというので、前に生まれていた皇子たちが叛逆《はんぎやく》するというのは、ごく自然だし、疑問の余地はないと思うのですが」 「その、もっともらしい点があやしいのさ。いいかい、仲哀天皇の年齢を考えてごらん。君がつくった『修正年代表』によると、十七歳で即位し、二十一歳で死んだことになっているね。『書紀』にも、仲哀天皇が即位するとき�朕《ちん》いまだに弱冠に至らず……�といったと書いてあるね。成人前に即位した天皇に、叛乱を起こすことができるようなりっぱな皇子が二人もいたと信じる人がいたら、よほどおかしいよ」  恭介のこの指摘には研三は反論することはできなかった。なんで、いままで、こんな明々白々なことに気づかなかったのか、恥ずかしくなった。洋子も同じ思いだったらしい。 「わたくしも気がつきませんでした。大学では、文献の吟味は慎重にやるように、いつもいわれていましたのに、こんなにも明白な事実を見のがし、年齢について、少しも疑いをもたなかったということは、返す返すも不覚でした。専門史学者を志す者として、穴があったら入りたいくらいです」 「まあ、いいさ。大学者の先生方も見のがしていることのようだからね」  せっかく、�神武東征《じんむとうせい》�とは�応神東遷《おうじんとうせん》�のコピーだということが証明できたと思ったのに、これでは、また、振り出しにもどってしまったことになる。 「いったい、『日本書紀』の編集者は、なんでこんな嘘《うそ》を書いたのでしょうね」 「うん。九州から帰ってくる神功皇后と誉田真若にたいし、応神天皇——そのときは、まだ赤ん坊だけれど——が天皇になることを快く思わない連中がいたことは事実だろうね。そこで、別の皇子を立てて対抗した、ということも間違いないだろう。  しかし、この事件は、勝者の側としても、そのまま真相を書くわけにいかないし、一方では、�神武東征�の物語りとして利用する必要もある。そこで、いちばん真実らしい話として、仲哀《ちゆうあい》天皇に別の二人の皇子がいて反抗したということにしたわけさ。ただ、年齢的な点でとんでもないミスを犯してしまったことになる」 「では、香坂・忍熊皇子が架空の人物だとすると、ほんとうの叛逆者は誰《だれ》なのでしょうか?」 「それは、ただ�ある二人の皇子たち�としかいえないだろうね。それこそ、歴史から抹殺《まつさつ》されたのだからね」 「でも、なにか手懸《てがか》りはないものでしょうか? このままでは、僕の書こうという小説の筋立てができませんから、なんとか推理できないでしょうか」 「その人物は、勇猛だったことは確実だ。なにしろ、『神武天皇紀』では長髄彦《ながすねひこ》にもたとえられているわけだからね。それから、彼らの叛逆を助けた氏族もいたように書かれているのだから、あるていどのイメージは描けそうじゃないか」 「わかりました。今度、機会があったら、また、この問題も考えてみてください」  研三は、すっかり疲れきってしまった。神津恭介の超人的な推理によって、邪馬台国の消滅から応神・仁徳王朝成立までの歴史の実像は、なんとか出来上がったものの、また、新しい謎《なぞ》が生まれたことになる。研三は、この日の検討会は、これまでにしてもらった。  十三 渡来人《とらいじん》の王はいたか  その夜、研三は寝つかれなかった。恭介のあまりにもみごとな謎解《なぞと》きによってひきおこされた興奮がさめやらず、一度は寝床に入ったものの、また起き出し、日本分県地図帳によって九州地方の地名総覧のページを丹念に読んでいった。  すると、福岡県|小郡《おごおり》市に八坂という地名があることに気がついた。そこは、甘木《あまぎ》市の西方十キロ余で、耳納《みのう》山地からも十数キロしかない。誉田真若《ほむたまわか》の祖母の八坂入姫《やさかいりひめ》は、この土地の出身だったに違いない。  小郡市といえば、つい最近、そこの津古|生掛《しようがけ》遺跡で最古の前方後円墳が見つかり、三世紀末の土器が出土し、近畿《きんき》地方が文化的先進地域とする説を否定する根拠とされているだけに、研三にとっては、ひとしお感慨が深かった。  応神《おうじん》天皇の幼名であり、おそらくは誉田真若の本名であると思われる�イザサ�に相当する地名も見つかった。福岡県|遠賀《おんが》郡水巻《みずまき》町に伊佐座《いさざ》がある。佐賀県東松浦郡|相知《おうち》町にも伊岐佐《いぎさ》という地名があった。天《あめ》の日矛《ひぼこ》の神宝の一つも膽狭浅太刀《いささのたち》だった。  しかし、五百木入日子《いほきいりひこ》や已百支《いほき》国を連想させる地名は見あたらなかった。福岡県三井郡の北野町の大城《おおき》や、三潴《みつま》郡|大木《おおき》町は似ていなくはない。佐賀県の小城《おぎ》郡も、もしかするとという気はする。ともかくも、『魏志《ぎし》』にはっきり已百支《いほき》国という国があり、それが九州にあったことは確実なのだから、現代の地名の中からそれを見出せなくても別にかまうまい。  中国土産の紹興酒《しようこうしゆ》をチビリチビリとやっているうちに、一日の疲れが出てきたのか、ようやく瞼《まぶた》が重くなってきた。  二日ほどおいて、研三たちは恭介を見舞った。手術後の経過は申し分ないということだったが、まだ当分はこの状態が続くという。 「やあ、いらっしゃい、いつもいつもありがとう。このあいだは、謎《なぞ》のポイントだけは明らかにできたと思うけれど、また、宿題ができてしまったね」 「実際、おどろきました。誉田真若《ほむたまわか》が九州出身だとは。美濃《みの》が岐阜県ではなくて、筑後《ちくご》川の傍《そば》の耳納《みのう》だったというのもショックでした。地名総覧で調べたら、八坂もイザサも見つかりましたよ。五百木《いほき》=已百支《いほき》のほうはわかりませんでしたが」 「そうかい。僕の予言も少しはあたるようだね。ところで、今日は、何をやるつもりなのかい」 「洋子さんと相談したのですが、このへんで朝鮮《ちようせん》関係のことをひととおり見ておきたいということになりました。須佐之男命《すさのおのみこと》も新羅《しらぎ》に行っているし、神功《じんぐう》皇后も三韓《さんかん》に出向いています。また、洋子さんの先祖の天《あめ》の日矛《ひぼこ》や都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》も朝鮮の王子だし、ヒボコと同じような神宝をもっている物部《もののべ》氏も朝鮮系と考えていいようですから」  研三にうながされて、洋子は二人に向かって古代朝鮮史の概略を語り始めた。 「朝鮮の古い時代のことを書いた歴史書といえば、先日、松下さんがおとどけになった『三国史記』と『三国遺事』ということになりますが、どちらも十二、三世紀につくられたもので、中国の史書との照合も行われています。しかし、二、三世紀の時代の記事はあまり信用できません。 『三国史記』の『新羅本紀』には、西暦紀元前後に、瓢箪《ひようたん》を腰に下げて海を渡って来た瓠公《ここう》という名の倭人《わじん》がいたとか、第四代の脱解《だつかい》王は多婆那《たばな》国で生まれたという記事があります。その多婆那という国は倭国の東北一千里にあると書いてあり、それはヒボコの本拠地の出石のある但馬《たじま》国のことではないかという説もありますが、なんとも頼りにならない話です。  また、『三国遺事』には、新羅第八代の王の阿達羅《あたら》王の時代に、延烏郎《えんうろう》と細烏女《さいうじよ》という夫婦が倭国に出て行ったため、新羅の日月が暗くなったという記事もあります。それは天《あめ》の日矛《ひぼこ》のことだと考えられないこともありませんが、あまり歴史の解明には役立たないと思います。  お断わりしておきますが、三世紀ごろには新羅《しらぎ》という国も、百済《くだら》という国も存在していません。『魏志《ぎし》』の『東夷伝《とういでん》』によれば、当時の朝鮮半島では、今日の平壌《ピヨンヤン》の近くに魏《ぎ》の楽浪《らくろう》郡、京城《ソウル》の付近に同じく帯方《たいほう》郡があり、その一帯は中国人が管理していました。そして、北東部には半農半狩猟の騎馬民族国家の高句麗《こうくり》国があり、朝鮮半島の南半部には三韓の諸国がありました。  三韓というのは、馬韓《ばかん》・辰韓《しんかん》・弁韓《べんかん》のことで、馬韓は後《のち》の百済《くだら》、辰韓は後の新羅《しらぎ》、弁韓は後の任那《みまな》となります。そして、馬韓は五十四国の小国から成っており、辰韓・弁韓はそれぞれ十二か国の集まりでした」  洋子の話は、途中で恭介におし止められた。 「うん、そのへんのことは、僕もだいたい知っている。天の日矛がどこから来たかについては、洋子さんのいうとおり、自信をもって答えることは無理だと思うよ。そこで、倭・韓の関係だが、わが国に弥生《やよい》文化をもたらした人びとが、朝鮮《ちようせん》半島南部に住んでいたというのはいいとして、いわゆる天《あま》つ神《かみ》を信奉する氏族集団の故郷はほんとうに朝鮮半島だったといっていいのだろうか。まず、そのことを確認しようよ」  恭介は、一つ一つ、ダメを押しながら話を進めるつもりらしい。洋子は、すぐに答えた。 「それは間違いないと思います。考古学や民俗学あるいは言語学の方面でも認められていることですし、いままで私たちが調べてきたことの中からもいえると思います。天の日矛が新羅から持って来た神宝と、物部《もののべ》氏の神宝とがほとんど一致していることが第一の証拠ではないでしょうか。銅製の鏡や剣を尊重する風習は、古代朝鮮のものでもありますし、疑問の余地はないと思います」 「そうかい。では、『三国史記』に出てくる朝鮮の王族の誰《だれ》かが、わが国の歴史上の人物とつながるということを、はっきりと証明できるだろうか」 「それはむずかしいと思います。なにかの点で関係がありそうだくらいはいえても、証明となるとほとんど不可能ではないでしょうか。  しかし、朝鮮からの渡来人は多いし、いろいろの学者や研究者の説を読んでみますと、わたくしとしても、あるいは、ほんとうかなと思うものはあります。その一つは、物部氏の祖先についてです。  百済という国は、馬韓五十四か国の一つの伯済《はくさい》という国が諸小国を統合して成立したわけですが、その始祖伝説によると、紀元前一世紀に、高句麗《こうくり》王朝の朱蒙《しゆもう》という王に二人の王子があり、その弟のほうの温祚《おんそ》王というのが、いまの韓国の京城《ソウル》の近くの漢山《かんざん》という所で王位につき、その子孫が百済王朝を開いたことになっています。この地は漢《かん》の帯方郡があったとされている場所であり、温祚王に相当する人物がいたことは中国の史書にも記されているので一世紀に実在した人物といえます。  わたくしが注目するのは、温祚《おんそ》王の兄の沸流《ふる》という人物のことです。神津先生も、『三国史記』の『百済本紀《くだらほんぎ》』の最初の部分は目をとおされたことと思いますが、この兄弟たちが負児岳《ふるだけ》に上って住むべき土地を定めたとき、弟の温祚は河の南の慰礼《いれ》城に都を定め国家の建設に成功したのに、兄の沸流のほうは、海に面した弥鄒忽《みすこる》という場所がよいといい、民を分けて弟たちと別の国をつくったとあります。弥鄒忽というのはいまの仁川《イムチヨン》です。  ところが、温祚の国は栄えているのに、沸流の国は土地が悪く住みにくいので、沸流はそれを恥じて死んだように『百済本紀』には書かれています。  しかし、最近の韓国《かんこく》での研究では、中国の『後漢書《ごかんじよ》』などに出てくる目支《まき》国という国がこの弥鄒忽《みすこる》にあったとしているとのことです。『魏志』では馬韓五十四国の中に月支《げつし》国があったように書いていますが、目支《まき》国が正しいというのです。  それはともかく、『三国史記』で死んだとされている沸流の子孫こそ、物部《もののべ》氏ではないかと説く人がいます。沸流《ふる》という発音は、物部の神宝の布留《ふる》御魂に通じますし、物部の氏神に相当する石上《いそのかみ》神宮は布留《ふる》川のほとりにあり、物部氏の呪言《じゆごん》は�ふるえ、ふるえ、ゆらゆらと�です。物部と�フル�は切っても切れない関係にあることはたしかです」 「ほう面白いね。それ以外に、物部氏の先祖を朝鮮と結びつける資料はないのかい」 「あります。このまえ、出てきた、例の耳納《みのう》山地の西端に高麗《こうら》(高良)山という山があります。久留米《くるめ》市の御井《みい》町になっていますが、そこには、朝鮮系といわれる山城の跡や、祭祀遺跡《さいしいせき》があるだけでなく、高麗《こうらい》社という神社があり、その神官を物部氏がつかさどっていたことが古書に記されています。高麗社の祭神は、現在では、神皇《かんみ》産霊《むすび》神と玉垂《たまたれ》の神というふうになっていますが、本来は高麗玉垂《こうらいたまたれ》神と呼ばれており、明らかに朝鮮系です。  温祚と沸流の父の朱蒙《しゆもう》は、夫余《ふよ》族の出ですし高句麗《こうくり》王朝も同じく朱蒙を祖としていますから、沸流を高麗の神というふうに物部氏が受け取っていたとしてもおかしくない、といえそうです」 「それ以外には、何か証拠はないのかい」 「あとは、高句麗や、その先祖の夫余族が五部制を取っていたことと、物部氏も前に見たように五つの集団で東遷《とうせん》をしていることがあげられます」 「そういえば、天孫降臨のときも随行したのは五部族になっているね」 「ツングース系の種族は五という数字を聖なる数としていたということです」 「そうかい。だとすると、物部氏は一世紀には韓国の仁川にいて、やがて遠賀《おんが》川河口に上陸し、久留米《くるめ》付近にも定着したということになるね」 「それから、渡辺光敏《わたなべみつとし》という人は、『日本古代天皇家の渡来』という著書で、天孫降臨《てんそんこうりん》は天皇家が朝鮮から渡来したことであるとし、いろいろの説を唱えています。韓国の首府のソウルは都城の意味で、温祚《おんそ》王の城は高木城《こうもくじよう》と『三国史記』に記されていることを指摘しています。高木神《たかぎのかみ》は『記・紀』にも出てきますし、天孫降臨には、添《そほり》の峯《みね》があるし、古代の奈良盆地にも添上《そおのかみ》・添下《そおのしも》という郡名がありました。渡辺氏は、さらに、垂仁《すいにん》天皇の最初の皇后の兄の沙本彦《さほひこ》は、じつは、百済《くだら》王朝の六代目の仇首《きゆうしゆ》王の子の沙伴《さはん》王であったとしています」 「ほう、よく似た名だね。それで、その二人の同一人物説は成り立つのかい」 「渡辺氏は、この王が�幼少だったので政治をすることができず、大|伯父《おじ》の古爾《こじ》王が即位した�と書かれてあることから、沙伴王は百済王としてでなく倭国《わこく》に入り、�イリ王家�(崇神《すじん》系王朝)を起こしたというのです。周囲の数人の名前などもよく一致し、精密な論証だ、といいたいのですが、年代が三世紀半ばのことになっており、わたくしの考える沙本王の時代より半世紀近く早くなっています」 「それは残念だね。その本には、ほかには朝鮮王家とわが国の皇統を結びつける仮説は出ていないのかい」 「いわゆる�タラシ王朝�(景行《けいこう》天皇系)については、新羅《しらぎ》の阿達羅《あたら》王の阿達羅に、王を表わす方言で歯理《しり》という語があるのを結びつけ、アタラ・シリが語源ということになり、それが省略されて�タラシ�になったとしています。ただし、この王の在位は二世紀末ですから、やはり景行天皇とは一世紀以上の差があります」 「それも捨てがたい説だが、惜しいね」 「渡辺氏は、応神《おうじん》天皇についても、百済の十二代の契《せつ》王をあてています。この王も�幼くして死んだ�とあるので、幼童天皇の伝説のある応神天皇にふさわしいとしていますが、朝鮮での在位期間が四世紀半ばなので、やはり半世紀ほどのズレが出てきます」 「そうかい。それも惜しいね。その渡辺説以外にも、天皇家関係者が海外から渡来してきたという仮説を立てている人はいないのかい」 「いくつかあります。神武《じんむ》天皇の東征軍の水先案内をしたという椎根津《しいねつ》日子の椎《しい》を、百済の地名の�|泗※《しひ》�に結びつけたり、�イリ王朝�の�イリ�は敬称であるとし、高句麗系の泉や井戸を表わす語が起源だ、としたりして、日本語の固有名詞を朝鮮語で説明して、両者の関係を説く人はいます。そういう方法を用いて、崇神《すじん》天皇・景行《けいこう》天皇・応神《おうじん》天皇などを、朝鮮からの渡来者であると論じる例はいくつかあげることができます」 「ということは、大部分の説は、悪くいえば語呂《ごろ》合わせであり、万人が納得できるほどの根拠は見あたらないということだね。だとすると物部《もののべ》氏の渡来説や、紀元前の出来事はともかく、歴史時代に入ってのちの天皇や皇族について、海外からの渡来説を考えるのは無意味ということかな」 「必ずしもそうだとはいえないでしょう。一応、研究するだけの価値はあると思います。たとえば、『魏志《ぎし》』の『韓伝』に、辰《しん》王というのがあります。辰韓十二か国の王のことですが、�辰王は常に馬韓人を用《も》って、これを作《な》し、世々相|継《つ》ぐ。辰王は自立して王となるを得《え》ず�とあります。つまり、のちに新羅によって統一される辰韓には、馬韓、つまり百済系の王がいたということで、しかも、�辰王は流移の人なり�とも書かれています。この辰王がわが国に入って、�タラシ王朝�や�ワケ王朝�の開祖となったという可能性は、まったくないとはいえないのではないでしょうか」 「僕としては、『三国史記』などによってこの人物が、こういう事情でわが国に渡来し、天皇家の系図に、こういう形で入りこんだ、という具体的な説明がないと、仮説として論ずるまでにはならないと思うよ」  洋子の解説が一段落するのを待っていた研三は、騎馬民族征服説を話題にした。それは、昭和二十三年に、江上波夫《えがみなみお》氏が発表したもので、日本の大和王朝はアジア大陸から渡来した北方騎馬民族が征服王朝としてつくったものであるという。 「いま、洋子さんがいった辰王というのは、江上氏によると騎馬民族だというのです。最初のころは、江上氏は、崇神《すじん》天皇つまり御真木入日子《みまきいりひこ》のミマキは、朝鮮半島の南部にあった任那《みまな》の城《き》というふうに解釈して、崇神王朝を騎馬民族王朝としていたようですが、あとでは、北九州と任那をいっしょにした倭韓《わかん》連合王国があったとし、それを第一次|邪馬台国《やまたいこく》とみなし、崇神天皇はその王で、任那にいたというふうに説を変えています。  そして、この倭韓連合王国が追われて九州を放棄して、大和にできたのが第二次邪馬台国だとしています。その後、辰王が九州に上陸して応神《おうじん》天皇となって東遷《とうせん》し、五世紀に河内《かわち》王朝を建てたというのです。つまり、応神王朝が最初の騎馬民族の王朝だというのです」 「それで、その説には、どういう根拠があるのだ。立証方法が問題だと思うよ」 「主として考古学的な分野のものですが、北九州と南九州の古墳の出土物や墓制がよく似ていることが倭韓連合王国説の根拠です。また、五世紀初頭から、突然、近畿地方の古墳の出土物に馬具の類《たぐい》が現われることが騎馬民族説の根拠です。その他、五世紀に、倭国王が中国にたいして使を出し、みずからを�使持節都督《しじせつととく》、倭《わ》・百済《くだら》・新羅《しらぎ》・任那《みまな》・秦韓《しんかん》・慕韓《ぼかん》、六国諸軍事安東大将軍、倭王�と称していることも、倭国王はかつて朝鮮の王だった証拠だとしています。つまり、旧|朝鮮《ちようせん》諸国の王だった者が、新たに倭国王にもなったので、宗主国である中国に、�六国にわたる王としての称号を認めてほしい�と要求したというのです」 「それで、中国の皇帝はなんと答えているのだい」 「百済王という称号は認めていませんが、他の称号は認めています。しかし、考えてみるとおかしな話で、五世紀には、秦韓・慕韓などという国はなくなっているのです」 「その問題については、なんともいえないが、いわゆる天《あま》つ神《かみ》を奉ずる一族は、ある時期——それは魏使《ぎし》がやって来たときより一世紀か二世紀くらいは古い時期に、朝鮮半島にいた王族であっただろう、ということまではいえるだろうと思うよ。物部氏が百済王朝の沸流《ふる》系だとすると、それと似たような王族が天皇家の先祖だったと考えていいだろう。ということは、前にもいったように、第一次|高天原《たかまがはら》が朝鮮にあったということだよ。それが、日本列島に入ったのが第一次天孫降臨だったわけだ。ただし、騎馬民族とはどういうものをさすのか知らないが、�応神東遷《おうじんとうせん》�は海外からの侵入者によるものだとは考えられないね」  研三は、ここで、前回の証明を再確認しなければいけない、と思った。 「誉田真若《ほむたまわか》は、景行天皇の孫で、れっきとした大和《やまと》王朝の王位継承権のある人物ですからね。それに、応神天皇の父が新羅《しらぎ》人や百済《くだら》人でないことも確実ですね。ところで、神津さんは、誉田真若を須佐之男命《すさのおのみこと》にたとえましたね。その須佐之男命は牛頭天王《ごずてんのう》であり、ヒボコに通ずるものがあるとすると、まったく朝鮮とは無関係とはいえなくなるのではないですか」  そのとき、洋子が発言を求めた。ヒボコの名が出たからかもしれない。 「その件については、わたくしにいわしてください。騎馬民族というのは父系制です。日本で、はっきり父系制となるのは、七世紀の天智《てんち》・天武《てんむ》朝ごろからだと思います。しかし、応神天皇ごろから、それまでの母系制は少しずつ崩れてきている、とは思います。  ところで、誉田真若は、父系制の観点からすれば、景行天皇の孫で皇統に属します。しかし、母系制の観点からすると、已百支《いほき》国の系統に属します。誉田真若の父の五百木入日子《いほきいりひこ》は、八坂入姫《やさかいりひめ》の子ですね。八坂神社は牛頭天王《ごずてんのう》を祀《まつ》る神社です。だから、牛の角だとか新羅と結びつくのは八坂入姫の系統だということになります」 「そうでしたね。僕らは、つい父系制でものを考える習性が身についているので混乱してしまうのですね。よくわかりました」  こう考えれば、まえに、恭介が誉田真若を須佐之男命にたとえたことも、あながち荒唐無稽《こうとうむけい》なたとえではなかったことになる。真若の祖母が新羅系で、真若が育った已百支国が衰えかけた宇佐《うさ》の女王国の危機を救ったのだとすれば話の筋は通って来る。宇佐神宮に牛頭《ごず》社がある理由も納得できる。  宇佐にやって来た誉田真若は、ちょうど、八岐《やまたの》大蛇《おろち》を退治して櫛名田比売《くしなだひめ》を妻にした須佐之男命にふさわしいことになってくる。  研三は、朝鮮関係の話が出たので、もう一度、神功《じんぐう》皇后と朝鮮との交渉についての話を持ちだした。 「先日の年代修正で、神功皇后が摂政になったのは西暦三九〇年ということでした。あのあとで、『日本書紀』と朝鮮の史書とを照合してみたのですが、その結論を報告しておきます。いろいろのことがわかりましたが、二つ、三つあげてみましょう。  三九〇年という年は、有名な高句麗《こうくり》の広開土《こうかいど》王が即位する二年前です。この王は好太《こうたい》王ともいわれ新羅《しらぎ》や百済《くだら》と戦い領土を拡大しています。この王様の治績を讃《たた》えた高さ六メートルもある石碑が中国の吉林《チーリン》省の鴨緑江《おうりよくこう》北岸にあります。その四面には千八百字近い文字が刻まれていて、石碑の中に、�辛卯《かのとう》の年に、倭《わ》が海を渡って来て、百残・□□・□羅を破り、これを臣民とした——�と読める一節があります。辛卯年というのは三九一年のことです。百残は、それ以外の個所の記述から見て百済《くだら》のことです。□羅は多分、新羅《しらぎ》のことと思われます」 「ということは、その倭の女王が神功《じんぐう》皇后で、むかし僕らが教わった�三韓征伐�は史実だったということになるのかい」 「この碑文には改削説もあり断定はできませんが、それ以外にも、朝鮮三国——高句麗《こうくり》・百済《くだら》・新羅《しらぎ》の歴史を記した『三国史記』にも、三九三年に、倭《わ》が新羅の王城を攻めたと書かれていますし、四〇〇年代に入ってからも、新羅と倭の戦闘がくり返されていたことが書かれていますから、関係はありそうです」 「そこで、『日本書紀』には、神功皇后の時代に新羅といろいろ関係があったように出ていたけれど、その中に、朝鮮の歴史書にある史実と一致する個所はないのかい」 「ええ。新羅の第十八代の実聖《じつせい》王の元年、西暦四〇二年に、倭国と国交を結び、奈勿《なこつ》王——実聖王の一代前の王です——の王子の未斯欣《みしきん》は倭国の人質になった、とあります。そして、十六年後に未斯欣が倭国から逃げて来たとも書いてあります。『日本書紀』のほうでは、仲哀《ちゆうあい》天皇がなくなったのち、神功皇后が新羅に行ったときの記事に、�微叱己知波珍干岐《みしこちはとりかんき》を新羅王が人質としてさし出した�というのがあります。その一方では、同じ神功皇后の摂政になって五年目の記事には、微叱許智伐旱《みしこちほつかむ》——文字は違いますが——を新羅に返したと書かれています。この二組の記事は、『三国史記』と同一の事実を述べているものと考えていいでしょう」 「なるほどね。完全な一致は無理だとしても、そのくらいの共通点があれば、一応は、合格だろうね。神功皇后は新羅を征服したかどうかはともかくも、四世紀の末から五世紀の初頭にかけて新羅と関係があったと判定できるだろう」  わが国と朝鮮との関係を考える場合、もう一つ重大な問題がある。それは�任那《みまな》�のことだ。任那というのは朝鮮半島の南部にあった国で、『日本書紀』には、そこには�日本府�があったと書かれている。六世紀になると、新羅が南下し、五六二年には任那は完全にその支配下に入れられるが、七世紀には、推古《すいこ》天皇や斉明《さいめい》天皇の朝廷では、任那の復興の計画が何度か立てられている。  研三は、その任那《みまな》について発言した。 「朝鮮の南部には、任那という国がありました。(*地図参照)騎馬民族説では、崇神《すじん》天皇は任那の王で、倭韓《わかん》連合王国をつくっていたとしていることはいいましたが、この国にも注目すべきだと思います。 『三国史記』で金官加羅《きんかんから》国という名でよばれているのが、ほぼ任那と同じです。注目すべきだと思うのは、任那諸国の中に、安羅《あら》とか加羅《から》とか多羅《たら》という国があることです。�羅�という字は�耶�とも書き、安羅《あら》を安耶《あや》ということもあります。絹織物の綾《あや》という名の語源や渡来人の�漢人�をアヤヒトと読むのも、ここからきていると考えられます。また、加羅というのは、韓とか唐と書いてカラと読むようになったことの起源と考えられます。つまり、アヤとか、カラというのは、いわば�海の向こうの地方�というような意味だったわけです」 「朝鮮南部は、魏使《ぎし》が来た三世紀には、たしか、弁韓といっていたね」 「そうです。いわゆる三韓とは、馬韓・辰韓・弁韓で、『魏志』の『韓伝』には、弁辰十二か国の名がのっています。その中には、不斯《ふし》国とか、弥烏邪馬《みあやま》国、狗耶《くや》国、安耶《あや》国、斯盧《しろ》国などがあり、その斯盧国が強大になり、やがて新羅国になるわけです」 「ほう。狗耶《くや》国というのがあったのかい。安耶《あや》国もね。このことは覚えておこう。それでだね。『魏志』では、九州からその東の地方に住んでいた種族を倭人とか、倭種とよんでいたのだろう。朝鮮の南部に倭人がいたとは書いてないのかい」 「じつは、あるのです。弁辰十二か国の中に、涜盧《とくろ》国というのがあって、その国は�倭と界を接す�とありますから、三世紀には明らかに南朝鮮には倭人の住んでいた地域があったことになります。また、弁韓には鉄を産し、�韓《かん》・※《わい》・倭《わ》みな、ほしいままにこれを取る�と書かれていますから、やはり、倭人が南朝鮮で活躍していたことは間違いありません」 「日本人というのは、三世紀ごろの倭人の子孫ということだろうね。ところで、『日本書紀』は、新羅のことを半ば敵国のように書いてあるが、『古事記』ではそれほどのことはないね。それはどういうわけだろうか」 「その問題は、七、八世紀のわが国の内部事情、つまり親|新羅《しらぎ》系と親|百済《くだら》系の対立関係があったことの反映かと思われます。一方、『三国史記』のほうでも、『新羅本紀《しらぎほんぎ》』には、一世紀ごろから四世紀にかけて�倭兵が辺境に侵入して来た�という記事を二十回以上ものせています。ただし、その季節はほとんどが夏ですし、大規模な攻撃でもなさそうですから、朝鮮半島の南部に住んでいた倭人が集団を組んで掠奪《りやくだつ》行為をしかけたというくらいのことだと思います」 「もう一つだけききたいのだけれど、日本語と朝鮮語との関係はどうなのだろうね。親類関係にあるのか、それとも別系統の言葉なのだろうか」  研三は、最近、買ってきて斜め読みした書物のことを思い出した。それは、朴炳植《パク・ビヨン・シク》という韓国人の著書のことだった。内容は専門的なので、よく理解はできなかったが、結論的なことだけは頭に入っていたので、それを紹介した。 「日本語の系統論については、いろいろの説があるようですが、朴さんという韓国人の日本語研究家は、詳細な資料と綿密な考証によって、言語学の立場から、古代日本列島の主人公となったのは南朝鮮に住んでいた伽耶《かや》族であった、ということを突きとめた、といっています。その中で、ちょっと面白いな、と思ったのは、君と僕というのが、金《キム》と朴《パク》という朝鮮でもっとも多い姓によるという話でした。興味がありましたら、お持ちします」 「そうね。いつか読ませてもらおう。言語学は有力な決め手になりそうだと思う。しかし、徹底的にやらないと意味がないから、これからの若い人たちに大いに期待したいところだね」  古代の日韓関係については、もっともっと研究を進めるべきだ、というのが三人の共通した結論だった。研三の印象では、洋子はどちらかというと、朝鮮渡来王朝説に魅力を感じており、恭介は、その点には慎重な態度をとっている、ということだった。  十四 隼人《はやと》と熊襲《くまそ》をめぐって  このとき、思いがけない人物が三人の前に現われた。  洋子は、「あっ」と叫ぶと顔を硬直させた。研三も、その人物が、つい三か月ほど前に岡山で会ったことのある吉備《きび》女子大の三宅祥二郎《みやけしようじろう》教授、つまり、洋子の父親であることに気づくと、椅子《いす》を蹴《け》倒しそうになりながら立ち上がった。 「三宅先生、どうしてまた——」  上品な身なりの老教授は、恭介たちに向かってうやうやしく挨拶《あいさつ》をした。 「突然、お邪魔いたします。わたしは、ここにいる洋子の父でございます。このたびは、とんだご災難でお気の毒に存じます。うちの娘が何やら身のほどをわきまえずに、先生方に役にも立たない講釈などしているようですが、未熟者のことですから、間違ったこともいうかもしれませんので、どうぞお許しください」 「いやいや、とんでもない。洋子さんは、たいしたものですよ。なかなか、よく勉強しておられます。いろいろと教えていただいております。第二代の綏靖《すいぜい》天皇から後の八代の天皇が実在だったというようなことについても、りっぱな見解を示してくれましたし、僕らも大いに啓発されています」 「そんなことをいっているのですか。ほんとうに困った娘です。お気にかけないでください。先日、神津先生の所にかよって、何やら生意気なことをしているように電話で申しておりましたので、気になりまして、ちょうど、東京に用事もありましたのでお見舞いに上がったわけです」 「それはどうも恐れ入ります。今日は、崇神《すじん》天皇や応神《おうじん》天皇が朝鮮《ちようせん》からやって来たのであるかどうか、などということを話し合っていたところですよ。三宅先生はどうお考えですか」 「その話ですか。近ごろ�騎馬民族説�だとか�応神東遷《おうじんとうせん》説�だとか怪しげなことを唱える者がいるので困ります。まさか、うちの娘までそういう邪説にかぶれていることはないでしょうね」 「ほう。お嬢さんとは歴史のことでは対話をなさってはいらっしゃらないのですか? 洋子さんは、慎重な方ですから流行の学説をやみくもに追いかけたりはしないでしょうからご安心ください。  三宅先生のお説では、応神天皇は九州生まれであっても、もともとは近畿地方の大王だったということでしょうか」 「そうですとも。私は、応神《おうじん》・仁徳《にんとく》両天皇以後の政権のことを�河内《かわち》王朝�と名づけています。この王朝は、河内・和泉《いずみ》(大阪府)の平野部に早くから根拠を置いていた、大伴《おおとも》氏や紀《き》氏などの勢力に支えられた豪族の連合体が次第に力を伸ばし、瀬戸内海方面まで支配するようになったものだと考えています」 「そうですか、そうすると、応神天皇の王朝は征服王朝だという説は成立しないことになりますね。その理由を教えていただけませんか」  恭介は、初対面の三宅教授にたいし、まったく遠慮もしないで質問した。洋子は、気まずそうな顔をして二人のやり取りを傍聴している。 「五世紀ごろから、古墳の出土物が変わったなどという人もいるようですが、それほど本質的な変化などはありません。それに、応神天皇が侵入者などという説はまるで成り立たないことは、古墳の形態からいえることです。  たしかに、規模はいちじるしく巨大化しましたが、前方後円墳であることは応神天皇の前後で少しも変わっていません。もし、応神天皇が征服者だとすれば、当然、墓制も変わっているはずです。したがって、征服王朝説など根も葉もない妄想《もうそう》にすぎません」 「なるほど。古墳の形式が変わっていないのは確かですね。でも、だからといって、応神王朝を境として、九州方面から大勢力が近畿地方にやって来て、在地の豪族たちを支配したことを否定する根拠にはならないのではないでしょうか」 「それは、どういうことですか。征服王朝が前王朝の墓制をまねることがある、とでもいうつもりですか」 「いや、そうではなく、応神天皇は九州生まれ、つまり、赤ん坊のときに近畿地方にやって来たのだから、よその地方の墓のことなど知るわけはありませんね。だから、自分の母の神功《じんぐう》皇后の御陵と同じ形式のものを、ただ巨大化して、自分が生きているうちからつくらせたのだ、と考えれば何も不思議ではないですね」 「お見舞にやって来て、議論を吹っかける気はありませんが、先日、ここにおられる松下さんが岡山に見えたとき、あの地方の巨大古墳をご案内したついでに、五世紀ごろの瀬戸内海沿岸から畿内にかけての情勢はお話ししておいたので、その件は松下さんから聞いてください。とにかく、征服王朝説など、とんでもない話です。では、今日は、まだ寄り道する所がありますので、これで失礼させていただきます」  三宅祥二郎は、自分の学説の根拠を、ほんの素人《しろうと》である神津恭介に軽くしりぞけられたことに不快を覚えた様子だった。  洋子は、父が退室するのを見とどけると、恭介に向って頭をさげた。 「神津先生、申しわけございません。父は頑固者で、他人の説に耳を貸したりしないもので、失礼いたしました。父はどうあろうとも、わたくしは、わたくしです」 「いや、そんなことは気にしないさ。それより、いま、話題になった巨大古墳のことだけど、このまえ、僕が、二つの陵の被葬者は誰《だれ》だろうか、といったとき、あなたは答えなかったけど、ほんとうはどう思っているの?」 「ええ、一般に、大きいほう(堺市|大仙《だいせん》町・大山古墳・四八六メートル)が仁徳《にんとく》陵で、いくぶんか小さいほう(羽曳野《はびきの》市・誉田《こんだ》古墳・四一七メートル)が応神《おうじん》陵ということになっています。わたくしも、先日までは、深くも考えず、それでいいのではないかと思っていましたが、応神・仁徳同一人物説をとると、一つは、天皇陵であるとしても、もう一つのほうが誰の墓かわからなくなり、お答えできなかったのです」 「なんだ。そんなことだったの。もう一つのほうは誰の墓か、決まっているじゃないか」  恭介の大胆な発言に、研三は仰天した。 「えっ。いったい誰の墓だっていうのですか」 「あっはっは、誉田真若《ほむたまわか》に決まっているじゃないか。応神天皇が、大恩人でもある自分の后妃《こうひ》の父の墓をりっぱにつくらないはずはないものね」  こういってのけると、恭介は何事もなかったかのように、つぎの問題に移るよう提案した。 「ところで、倭人《わじん》というのは何なんだろうね。『魏志《ぎし》・倭人伝』では、からだ全体に入《い》れ墨《ずみ》をし、海に潜《もぐ》って魚や貝を取る海人族が倭人の典型のように描いているね。しかし、葦原《あしはら》の水穂《みずほ》の国というのだから、倭国は農業国だったことは間違いないね。いったい、われわれの先祖たちは、いつごろから日本列島に住み、どんな生活をしていたのだろうか」  恭介の質問に対して、研三は、すばやく返事をした。 「最近は、日本古代史ブームということもあり、�日本人の起源�とか、�倭人とは何か�といったことを論じた書物がいっぱい出ています。僕がこれから書こうとしている小説は民族学の論文ではないのですから、あまりこの問題を深く追究する必要はないのですが、やはり、ひととおりのことはおさえておきたいと思います。 『論衡《ろんこう》』という中国の書物には、周《しゆう》の時代つまり西暦紀元前十世紀ごろ、すでに倭人が来て暢草《ちようそう》を献じたと書いてあります。また、『山海経《さんがいきよう》』という本にも、�倭は燕《えん》に属す�と記しています。燕というのは中国の東北地方ですから、中国大陸内部に倭人がいたことになります。  一方、こういう記事も中国の本にあります。それは、『翰苑《かんえん》』という書物で、倭人がみずからを�太伯《たいはく》の子孫�だと称している記事がのっています。太伯というのは紀元前六世紀ごろ中国の江南地方にあった呉《ご》の国の始祖のことです。呉は越《えつ》と戦って滅ぼされます」 「ほう、例の呉越同舟の呉かい。ずいぶんと古い話だね」 「呉は揚子江《ようすこう》の河口近くの南岸にあり、越はその南の杭州《こうしゆう》湾の南にあった国で、どちらも漢民族とは異なる海洋系民族です。その呉の民や、呉を滅ぼした越の民は稲作をしていましたから、彼らが、漢民族に追われて海岸沿いに北上し、中国の東北地方や朝鮮《ちようせん》半島に移住したことは十二分にありうると思います」 「そうすると、松下君は、倭人《わじん》とは呉《ご》・越《えつ》人だった、といいたいのかい」 「断定はできませんが、可能性は高いと思います。稲作と金属器の技術は、彼らが朝鮮半島南部に持ちこみ、やがて日本にも入ってきたと考えられます」 「なるほどね。その呉・越人は、それ以前はどこに住んでいたのだろうね。海洋系民族というから、東南アジアとも関係があってもおかしくないだろう」 「はっきりしたことは誰《だれ》にもいえないと思いますが、東南アジア系の人たちが、中国大陸沿岸に入ったことは、当然あったでしょう。同時に、フィリピン、台湾《たいわん》、沖縄《おきなわ》を経て南九州、さらには、逆に朝鮮にまで北上するコースも考えられます」 「そうだね。『倭人伝』には、�女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。みな倭種なり�とあるね。これは、四国や本州のことだから、倭人の一種といっていいだろう。しかし、女王国を去ること四千余里の所に、侏儒《しゆじゆ》国——身長が三、四尺の小人族の国があったと書いてあったね。それから、裸《ら》国だとか黒歯《こくし》国などの名前の国もあったっけ。これらは明らかに南方系だ。こういう国が『倭人伝』の中にあることには意味があるだろうね」  研三は、新しい話題を持ちだした。 「ところで、熊襲《くまそ》と隼人《はやと》のことですが、『記・紀』を見ると、どちらも反体制というか、大和王朝の敵対者か従属者として、あたかも異人種であるかのように書かれています。しかも、どちらも九州に住んでいるので、しばしば混同されるようですが、このことはどう考えるべきでしょうね」 「僕の答えは明快だよ。彼らはすべて倭人だよ。しかも、天《あま》つ神《かみ》を祀《まつ》る同系の種族だよ」 「でも、一般には、そうは考えられていないようです。彼らは勇猛で度しがたい種族だと思われています。『古事記』には、隼人については、墨江中王《すみのえのなかつきみ》に仕えていた曾婆加里《そばかり》という隼人が、大臣《おおおみ》にしてやるという偽《いつわ》りの約束に釣《つ》られて主君の暗殺をはかり、失敗して殺されるという話が出ています。  それから、八世紀の奈良時代には、隼人たちは御所の警備や雑役に奉仕させられていただけでなく、行列のときには、吠声《はいせい》といって犬の遠吠《とおぼ》えのような声をあげさせられています。まるで、隼人は人間以下の扱いを受けているのです。その点はどうなのでしょうか」  この質問については、洋子が進んで意見を述べてくれた。 「そのことに関して、『大宝律令《たいほうりつりよう》』の注釈書である『令集|解《げ》』という書物に、�夷《い》人・雑類《ざつるい》とは何かといえば、毛《もう》人・肥《ひ》人・阿麻弥《あまみ》の三種なり�としています。毛人は蝦夷《えぞ》とよばれた東北方面の住民、阿麻弥は奄美《あまみ》大島の住民だとすれば、問題なのは肥人です。これを、ヒビトと読む人とコマビトと読む人がいますが、いずれにしても九州の南西部あたりの住民を異人種視していたことは事実だと思うのです。それに、『古事記』に出てくる隼人《はやと》の人名や現在の鹿児島県の地名を見ても、南九州には、北九州と別の言葉をしゃべる人たちが住んでいたとしか思えません」  それにたいして、恭介が待ったをかけた。 「いまの話に出てくる�肥人�というのは肥前《ひぜん》・肥後《ひご》(長崎・佐賀・熊本)の住民という意味だろうか。ほかの文献にも、肥人のことが出ているのかい」 「はい。『万葉集』に、肥人の風俗を歌った歌があります。(二四九六歌)   肥《こま》人の 額髪結《ひたいがみゆ》へる 染木綿《しめゆう》の   染《し》みにしこころ 吾《あれ》忘れめや  額髪というのは、額《ひたい》の前に垂れた前髪のことで、肥人たちは、結《ゆ》い上げた髪を木綿の布で結んでいたというのです。  ところが、『隋書《ずいしよ》』の『琉球《りゆうきゆう》伝』には、当時の沖縄《おきなわ》の住民の風俗について、�男女皆《みな》、白紵《はくちよ》の縄を以《もつ》て髪をまとい、項《うなじ》の後より盤繞《めぐ》らして額に至る�と書いています。  この二つの髪型は、正確にはどういうことかはわかりませんが、どうやら同じもののようです。ということは、わが国で夷人・雑類として考えられていた肥人は、沖縄の人と同族のようです。ということになると、肥人は一般の倭人からも差別を受けていただろうということも推定できそうです」 「�夷人・雑類�には隼人ははいっていない。とすると、肥人イコール熊襲《くまそ》で、隼人《はやと》はその中の一種ということになるのだろうか?」  恭介の問いにたいし、研三が応じた。 「隼人と熊襲を同一視する説もあります。熊本方面に住むのが�熊�で、大隅《おおすみ》(鹿児島東部)の贈於《そお》郡を中心に住むのが�襲《そ》�であるというのです。そして、隼人は�襲《そ》�に相当する、というふうに見るわけです」  しかし、恭介は別の視点を示した。 「熊襲と隼人について、その土地の人の考え方はどうなんだろうね。また、彼らは朝鮮半島の住民と無関係かどうか。その点はどうだろうね」 「鹿児島県の隼人《はやと》文化研究会の方の著書によると、隼人は海人族で、その部族名のイニシアルには、婀娜《あだ》(吾田)隼人というふうに、�ア�の字のつくものが多く、『三国史記』に現われる南朝鮮の安羅《あら》、あるいは安耶《あや》とよばれる国と結びつくのではないかと述べています。そして、北九州に住んでいた安曇《あずみ》海人族とも祖先を共通するという意識をもっていたとしています。前にも、天火明命《あめのほあかりのみこと》を祖とするのは安曇《あずみ》であり、海部《あまべ》であり、隼人も同様だったことに触れましたが、隼人=安羅説は大いに傾聴すべきだと思います」 「そうすると、僕が前に提案した、カンボジアのクメール、沖縄の久米、熊本の熊襲イコール狗奴《くな》、そして大伴《おおとも》氏は熊襲の出身であったのだ、という仮説も成り立ちそうだね」 「そうですね。大伴氏については、もう少し検討する必要があるとは思いますが、その可能性はかなり高いと思われます」 「そうかい。これは、たったいま、思いついたのだけれど、さっき、『魏志《ぎし》』の『韓伝』に、南朝鮮の弁韓には�狗耶《くや》�という国があったということだったね。この狗耶《くや》こそ狗奴《くな》国と同族だったというのはどうだろう」 「それは面白いですね。安羅《あら》・安耶《あや》が隼人《はやと》で、狗耶《くや》・狗奴《くな》が熊襲《くまそ》というわけですね。そうだとすると、天孫族の本流はどうなのでしょうか」 「うん。そこだよ、君が紹介してくれた、朴さんという人の説でも、倭《わ》の王族の原郷は大|伽羅《から》にあった、ということだね。だとすると、天《あま》つ神《かみ》系の三族は、伽耶・安耶・狗耶ですべて南朝鮮にいたことになるね」 「そうですね。六世紀から七世紀にかけて、欽明《きんめい》天皇から斉明《さいめい》天皇まで、何度となく任那《みまな》の回復運動が計画されますが、大和《やまと》王朝で任那を故郷のように思っていたのでしょうね。伽羅は、韓も唐も�カラ�と読むように、後世では外国という意味になりますが、その当時の人にとっては、�喪《うしな》われた祖国�という意味がこもっていた、と思えませんか」 「そこでね、こんなふうには考えられないだろうか。魏使《ぎし》が来た三世紀には、南朝鮮には弁辰という国があった。十二か国に分かれていたとあるが、その中に、安耶もあり狗耶もある。彼らは、その時代よりも四、五百年も前に、南方から流れ込んだ海洋系民族だ。そして、その同族は北九州に安曇族、南九州に隼人、九州の中西部に熊襲という名で生活していた。一方、弁辰の他の十か国は、後に伽羅国になり、任那ともよばれるが、その中に倭人の国があって自らを呉《ご》の末裔《まつえい》と称していた、——というような構図だ」 「同感です。きっとそうだと思います。魏使たちは、弁辰とよび韓人の一種としています。おそらくは、韓人と倭人は混在していたことでしょう。そして、安耶・狗耶も倭人の同族と考えられていたと思います」 「そこで、海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の説話の意味を考えると、こういうことになる。隼人《はやと》は海幸で兄に相当する。釣針を弟の山幸——これが倭人《わじん》の主流派だね——に貸し、それを失った山幸を責めたが、山幸は海神の助けを借りて、逆に海幸を降参させてしまう。このことは、倭人の主流派による隼人征服の物語りだ」 「そのとおりですね。その倭人の主流派は、自分たちの祖先を彦火火出見命《ひこほほでみのみこと》とし、隼人は天火明命《あめのほあかりのみこと》とした、——ということですね。そして、邇邇芸命《ににぎのみこと》と鹿葦津姫《かあしつひめ》との間の三人の火の神には、もう一人、火酢芹命《ほすせりのみこと》がいますね。それが熊襲の祖先ということになるのでしょうね」 「まあ、そんなところだろう。それで、神話では、海幸彦つまり隼人は、山幸彦つまり彦火火出見命の子孫に永久に服属すべきだという関係の話になったわけだ。もう一つ。熊襲は狗奴、狗耶につながるが、同時に、高句麗つまり�コマ�にも通ずるかもしれないね。だとすると、大伴氏も物部氏も同系統ということになるね」  このとき、研三は、重要なことを忘れていたことに気がついた。  それは、大伴《おおとも》氏のその後のことだった。恭介は、�崇神東遷《すじんとうせん》�には大伴軍団が同行したというが、それ以後のことは忘れたままになっている。 「大伴氏は�応神東遷《おうじんとうせん》�のとき、どういう立場にあったのでしょうね」  恭介は、その疑問については明快な答えを用意していた。 「忍熊《おしくま》王を討った将軍の名は武振熊《たけふるくま》だったね。熊襲の熊の字がついているじゃないか。�熊�という字は、大伴氏のシンボル・マークだよ。武振熊こそ、氏の名を隠しているが、大伴氏に間違いないよ」 「でも、武振熊は和珥臣《わにのおみ》の祖ということになっていますよ」 「たしかにね。�難波根子《なにわねこ》武振熊は和珥臣の祖�と書いてある。和珥氏はたしか皇別氏族ということになっていたよね。洋子さん。和珥氏は何天皇の子孫ということになっていたかい」 「ちょっと、お待ちください。いま、調べますから。……はい。わかりました。第五代の孝昭《こうしよう》天皇の長子の天押帯日子命《あめおしたらしひこのみこと》の子孫に和珥《わに》氏や小野《おの》氏、柿本《かきのもと》氏などがあります」 「そうだろう。武振熊の子孫に和珥氏がいる。しかし、武振熊は同時に、大伴《おおとも》氏の出である。そういうことがあっても、いっこうに不思議ではないよ」 「どういうことですか? 僕には、理解できませんが。まさか詭弁《きべん》ではないでしょうね」 「詭弁なものか。どういったら、わかるかな。これは冗談だけどね。誰《だれ》にでも、親が二人いる。両親にもそれぞれ父と母がいる。それをさかのぼっていくと、十代前には千人、二十代前には百万人、三十代前には十億人の先祖がいる勘定になる。君の子孫は、全員が松下姓を名乗るだろうか。現に、上の娘さんの姓は松下ではないはずだ」  この論法には、研三はおどろいてしまった。 「それはないですよ。いくらなんでも。叛逆《はんぎやく》者を討った英雄のことですよ。大伴氏の人物なら、ちゃんと大伴氏と書くはずじゃないですか。わざわざ、和珥臣《わにのおみ》の祖と書くなんておかしいですよ」 「いや。君が、いまいっただろう。そのわざわざ�和珥臣の祖なり�と書いたのは、武振熊《たけふるくま》の氏の名を隠すためさ。そうじゃないか。同じ仕事をした武内宿禰《たけのうちのすくね》のほうは、はっきりと武内という氏族名を書いている。それなのに、武振熊には氏族名がない。和珥氏はすでに大和にいたのだから、武振熊がほんとうに和珥氏ならば、�和珥の武振熊�と書くはずだよ。そうではないからこそ、氏族名も省《はぶ》いたのさ」 「それなら、なぜ、�大伴の武振熊�と書かなかったのですか」  そこに、洋子が口をはさんだ。 「丹後の海部氏の系図(*参照)で、ちょうど応神《おうじん》天皇の時代に相当する、天香語山命《あまのかごやまのみこと》から数えて十七代目に、難波根子健振熊命という人物が記されているのです。これが、『書記』でいう武振熊ではないでしょうか」 「そうかい。そういう事実があったの。僕は、そこまでは知らなかったよ」  洋子は、『日本書紀』を手に取り、ページをめくっていたが、一言つけ加えた。 「武振熊は、『仁徳《にんとく》天皇紀』にも出てきます。飛騨国《ひだのくに》(岐阜県)に、両面宿儺《りようめんすくな》という怪人が現われたのを退治したという話です。一つの体に、正面と後ろを向いた二つの顔があり、力は強く敏捷《びんしよう》だったとあります。  武振熊が海部氏や大伴氏でありながら、和珥臣の祖ということは、当時の氏族制度の上からいって、いくらでもありうることだと、私も思います。母系制の時代には、むしろ、あたり前のことです」  それをうけて、恭介は救われたように言った。 「では、武振熊が大伴氏と同族であることの決定的な証拠を見せようか。忍熊王の軍に対して、武振熊たちは椎髪《かみあげ》して�頂髪《たぎふさ》�の中に隠していた弓弦《ゆみづる》を取り出して矢を射かけた。と『記・紀』に書いてあるね。このヘア・スタイルは明らかに肥人《こまびと》の髪型だよ」 「あっ。そうですね。肥人とは熊襲・狗奴だから久米氏や大伴氏の同族というわけですね。恐れ入りました。早く、それを言ってくだされば……」  恭介と洋子に、これまでいわれてしまっては研三としても返す言葉はない。 「ところで、大伴氏は日本武尊《やまとたけるのみこと》の東征には従っています。大伴武日の名があります。しかし、景行《けいこう》天皇の九州征討や仲哀《ちゆうあい》天皇と神功《じんぐう》皇后の遠征にはついて行かなかったのでしょうか」 「景行天皇には、当然、ついて行ったと思うよ。熊襲《くまそ》という同族の叛乱《はんらん》だからね。責任上からも逃げるわけにいかない。ただし、景行天皇の記事には随行者の名前は一切ないから、何ともいいようがないね。しかし、神功皇后のときには、ちゃんと現われているじゃないか」 「えっ。ほんとうですか。どこに書いてありますか」 「筑紫《つくし》で、天皇・皇后を出迎えた人物に、崗県主《おかのあがたぬし》の祖の熊鰐《くまわに》というのがいたね。�熊�は大伴氏のシンボル・マークだったね」 「なるほど、もしかすると、武振熊と同一人物かもしれませんね。鰐《わに》というのは和珥《わに》氏をさすとすれば——」 「まあ、適当に想像するのだね」  研三が、どうやら�大伴《おおとも》氏=熊襲《くまそ》説�に納得したのを見とどけると、恭介は、洋子に向かっていった。 「どうも、『日本書紀』に現われる大伴氏の人物は影が薄いね。このことについて、学者先生はどういっているのかい」 「はい。六世紀の初めに、大伴金村《おおとものかなむら》という大政治家がいたのですが、任那《みまな》の土地を放棄する政策をとって失敗して以来、大和王朝で勢力を失い、『日本書紀』がつくられるころには、完全に藤原《ふじわら》氏に頭を抑えられていたからだと考えられます。また、先ほどご迷惑をおかけした私の父などは、紀伊《きい》(和歌山県)の名草《なぐさ》郡に大伴氏の支配地があったことや、難波《なにわ》(大阪)の港のあった場所のことを�大伴の三津《みつ》�とよんでいたことから、大伴氏の本領は大阪湾沿岸だったとしております。  たしかに、『万葉集』には、山上憶良《やまのえのおくら》が唐《とう》から帰国する直前に歌った歌(六三歌)として、   いざ子ども 早く日本《やまと》へ   大伴の 御津《みつ》の浜松 待ち恋ひぬらむ というのがのっています」 「では、洋子さんは、大伴氏は近畿地方の出だと思っているのですか」 「いいえ。やはり、九州の出身だと思います。大伴旅人《おおとものたびと》が隼人《はやと》征討の大将軍に任命されていることは、隼人と大伴氏に何らかの関係があったことを暗示しているようにも思えます。神津先生は、大伴氏を熊襲《くまそ》の出といわれましたが、もしかすると隼人の出かもしれないとわたくしは思っておりました」 「その理由は何ですか」 「私の専門の奈良時代の歴史を書いた『続日本紀《しよくにほんぎ》』の神護景雲《じんごけいうん》二年(七六八年)の条に、�日向国宮崎の人で大伴人益《おおとものひとます》という者が朝廷に献上物を差し出した�という記事があります。  つまり、宮崎に大伴氏の縁者がいたということは、大伴氏の遠い先祖が隼人の居住地にいたかもしれないという推定の一つの根拠となるかと思います。  しかし、熊襲説にも同じことがいえます。熊本県南部の葦北《あしきた》郡には大伴部が置かれていますし、『続日本紀』には、大伴村上《おおとものむらかみ》という人物が肥後介《ひごのすけ》に任ぜられており、熊襲の住んでいた土地に大伴氏が関係しているので、神津先生のお説は、とても魅力的だと思います」 「大伴氏も、また、その同族だといわれる久米《くめ》氏も、その一族は各地に広く分布しているのだろうね」 「はい、さきほど申し上げた以外にも、近江《おうみ》(滋賀県)や三河《みかわ》(愛知県東半)などにも大伴氏の一族はいたようです。また、大伴部といって大伴氏に従属する氏族は東北地方に多いようです。それよりも、大伴氏の同族とされる久米《くめ》氏のほうが広く分布しています。久米氏のほうが、クマに近い名のわけですが、その居住地としては十か所くらい指摘できます。  大和《やまと》(奈良)の高市《たけち》郡、伊予《いよ》(愛媛)の久米郡、伊勢《いせ》(三重)の員弁《いなべ》郡、遠江《とおとうみ》(静岡西部)の磐田《いわた》郡など各地に久米郷があることが『延喜式《えんぎしき》』や『和名類聚鈔《わみようるいじゆうしよう》』に出ています。しかし、久米族の本拠地は肥後《ひご》(熊本)の球磨《くま》郡です。ここが、熊襲《くまそ》の本拠地だということは一般的に認められていますから、久米氏が熊襲であることには抵抗感は少ないでしょう。  そうなれば、久米族を率《ひき》い、先祖も共通だという大伴氏も熊襲出身であると考えておかしくないどころか、きわめて自然な解釈だと、わたくしは思います」  洋子が恭介の説に賛成したので、これまで大伴氏熊襲説を素直に受け入れられなかった研三も、さすがに反対意見を述べにくくなった。そして、恭介に向かって、 「では、結論はどういうことになるのでしょうか」 「さっきもいったとおり、任那《みまな》三国の伽耶《かや》・安耶《あや》・狗耶《くや》の三国と、天孫系の主流・隼人《はやと》・熊襲《くまそ》がそれぞれ対応し、しかも、この三系統は、すべて倭人《わじん》だということさ。  神話では、それが、彦火火出見《ひこほほでみ》・火明《ほあかり》・火酢芹《ほすせり》という名になっている。しかし、すべて�天孫族�である点は共通している。  歴史のうえでは、熊襲と肥人は同一だね。熊本・宮崎・鹿児島いったいに住んでいたわけだ。ただし、大伴《おおとも》・久米《くめ》の両氏族が、その中からぬけ出してしまったので、九州に残って反抗した連中は熊襲とよばれ、強暴な賊のように書かれてしまった。  また、宮崎・鹿児島に住んでいた隼人は、おとなしく大和王朝に降伏したので、そのまま歴史に名を残した、ということだね」 「よくわかりました。これで、すっきりしました。熊襲や隼人を異人種としたり、征服された原住民のように考えるのは誤りだということに確信がもてました」 「そうだよ。沖縄・九州から朝鮮半島の一帯には、いまから二千年近く前には、それほど違った人たちが住んでいたわけではないね。その内部に、対立や支配関係はあったとしてもね」  十五 呪《のろ》われた蝦夷《えぞ》たち  古代の日本列島には、どんな人たちが住んでいたのだろうか。歴史時代に入るころになると、その主流となったのは、中国人の史書に出てくる�倭人《わじん》�であることはたしかだ。そして、洋子が指摘したように、�夷《い》人・雑類《ざつるい》�とよばれる人たちが倭人たちといっしょに、この列島の中で生活していたのだ。 �夷人・雑類�といわれていた人たちのうち肥人《こまびと》は、どうやら熊襲《くまそ》であり、倭人とは同系統であるらしいことはわかった。阿麻弥《あまみ》というのも、奄美《あまみ》大島に住むとすれば、やはり南方系で、倭人の同類と考えてよさそうだ。  しかし、�毛《もう》人�となると、それとは違うイメージがある。からだ全体が毛深く、山林の中を獣を追って暮らす狩猟人を思わせる。 『日本書紀』に現われる蝦夷《えぞ》というのは、倭人とは異なる種族なのだろうか? ひととおり、日本古代史の実像について探《さぐ》ってきたが、まだ、東北方面へは手がのびていなかった。  そこで、研三は、新しい提案をした。 「では、蝦夷について話し合ってみませんか。洋子さん。『日本書紀』で、いちばん最初に蝦夷が出てくるのは、どの時代でしたっけ」 「はい。蝦夷ではなく、�戎夷《ひな》�と書かれていますが、崇神《すじん》天皇によって派遣された四道将軍《しどうしようぐん》の記事が最初といえるでしょう。東海道には武渟川別命《たけぬなかわわけのみこと》、北陸道にはその父親の大彦命《おおひこのみこと》が派遣され、『古事記』によると、この親子は相津《あいづ》(福島県の会津)で出会ったことになっています。ただ、この記事には疑問が多いことは、先日、話題になりました。  文字として�蝦夷�が最初に現われるのは、景行《けいこう》天皇の時代で、日本武尊《やまとたけるのみこと》の東征と、御諸別《みもろわけ》王による討伐とが記録されています。  また、このころ武内宿彌《たけのうちのすくね》が東国から還《かえ》って来た報告として、�東夷《あずまのひな》の中に日高見《ひたかみ》国あり�と述べています。日高見国の位置については常陸《ひたち》(茨城県)以北とする説や、東北地方とする説などがあり、決定的なことは言えません。  その次は、仁徳《にんとく》天皇の五十五年の蝦夷の叛乱《はんらん》で、このときは、田道《たみち》という人物——上毛野君《かみつけぬのきみ》の祖になっています——が討伐に向かったものの、反対に、蝦夷に討たれ、伊寺《いじ》の水門《みなと》で戦死してしまいます。伊寺の水門とは、よくわかりませんが、現在の宮城県あたりでしょう」 「ところで、『日本書紀』などに出てくる蝦夷というのはいったいなんなのでしょうね。日本の原住民だということはたしかですが、縄文《じようもん》時代の住民の子孫だとか、アイヌだとか、いろいろといわれますが」  この問題についても、洋子が答えた。 「雄略《ゆうりやく》天皇に比定されている倭《わ》王武が中国の南朝の宋《そう》の皇帝に奉呈した上表文に、自分の祖先が、自《みずか》ら甲冑《かつちゆう》(よろい)を貫《つらぬ》き、山川を跋渉《ばつしよう》して戦い、�東、毛人を征すること五十五国�と述べています。この毛人は蝦夷をさすものと思われます。『神武《じんむ》天皇紀』の久米歌《くめうた》にも、エミシという言葉が出てきますし、『景行《けいこう》天皇紀』でも、�東夷のうち、蝦夷《えびす》、これ最《もつと》も強《こわ》し�と記されています。注目すべきなのは、『斉明《さいめい》天皇紀』に出てくる、遣唐使《けんとうし》の帰還報告です。坂合部連《さかあいべのむらじ》石布《いわしき》は唐の帝の質問にたいし、�東北地方に三種類の蝦夷《えびす》が住んでおり、いちばん遠いのが都加留《つかる》で、つぎが麁《あら》蝦夷《えびす》、近いものが熟《にぎ》蝦夷《えびす》である�と述べています。そして、熟蝦夷は大和《やまと》朝廷に、毎年、朝貢《ちようこう》してくる、としています。しかし、彼らは五穀を作らず、山の中に住み、肉食をしている、と答えています」 「蝦夷は、エゾともエミシともエビスとも、いろいろの読み方があるのかい?」  恭介のこの疑問にたいし、洋子は�困ったな�という顔をしながら答えた。 「文字の読み方には、慣《な》らわしがあるとしか申せません。エビスというときが、いちばん広い意味で、異邦人といったニュアンスです。エゾとエミシはほぼ同じように用いていますが、エミシのほうは、賊という感じが強いようです」  洋子はそのまま解説を続けた。 「『続日本紀《しよくにほんぎ》』の聖武《しようむ》天皇の天平《てんぴよう》九年(七三七年)の条には、田夷《でんい》という言葉が出てきます。これは、大和王朝に服属し、農耕民化した蝦夷ということだと思われます。一方、桓武《かんむ》天皇の延暦《えんりやく》十年(七九一年)の条には、出羽《でわ》の山夷《さんい》というのが現われます。こちらは、相変わらず採集経済生活をしている者でしょうが、もはや、抵抗者ではないようです」 「大和王朝の支配下にあった異種族らしいものは、ほかにもありましたね。まえに見た、国樔《くず》や土蜘蛛《つちぐも》がそうですね。彼らは、日本列島原住民でしょうね。縄文時代の人たちの生き残り、といういい方はまずいかもしれませんが、九州方面から金属器をもって次第に中部日本から東北方面に展開していった倭人《わじん》によって、居住地がせばめられ、次第に僻地《へきち》に追われていった人たちでしょうね」 「わたくしも、そう思います。『常陸国風土記《ひたちのくにふどき》』には、そのほかに、佐伯《さえき》という種族も同じような原住民として記されています。記録に残された歴史としては、こういう原住民については、ごくわずかしか記されておりませんし、蝦夷がアイヌであるとしても、アイヌが史上にはっきりとした形で現われるのは江戸時代以後のことですから、両者の関係を完全にイコールで結びつけることは困難だと思います。十三世紀ごろの東北の武士たちは北海道つまり蝦夷《えぞ》地と往来していますし、当時、津軽《つがる》には蝦夷——この場合は、明らかにアイヌらしい種族が住んでいたようです」  研三も、負けずに発言した。 「現代の日本人の血には、いろいろな要素が混合しているのでしょうね。インドネシア・フィリピン・琉球《りゆうきゆう》列島を北上して来た南島人は黒潮に乗って東海道から東北地方にまで展開したでしょうし、対馬《つしま》海峡を通って、山陰・北陸から東北地方の日本海岸にまで達したはずです。一方、アジア大陸からも、インドシナ半島を経《へ》て中国の江南地方に移り、そこから直接、あるいは、朝鮮半島経由で九州方面に入ってきた者もいたでしょうし、遠く、インド北部やネパール方面から中国南部を経てやってきたものもいる。そのうえ、北アジアから朝鮮《ちようせん》半島を経て入ってきた者もいる、といったぐあいです。もう一つ、シベリアや沿海州方面、それにサハリン(樺太《からふと》)から北海道を経て、さらに津軽海峡を越えて入ってくる道もあったかと思います」  日本人が混血民族であることは常識だ。ただ、基本となっているのが、どういう人種であると考えるかによって議論は分かれる。  恭介も、その点について、法医学の立場から自然科学者的に触れた。 「現代の日本列島の住民の血液型の分布を見ると、面白い事実がある。僕はO型だが、O型の因子をもつ人は太平洋岸に広く分布しているのだよ。仮定的にいうと、大むかしには、南方からO型の人が太平洋岸に住み着き、そのあとに、B型の人が九州から日本海岸に入ってきた。A型は東北や中部地方に少なく、四国や九州の東北部に多い。  もう一つ、HB抗原というのがある。これはB型肝炎ウィルスで、輸血の際に�黄色い血�をひきおこす病源体だが、日本では北方型と南方型の二種類ある。ところが、面白いことに、南方型は、沖縄《おきなわ》で圧倒的に多いのは当然だが、本州では秋田県がいちばん、南方型の比率が高いのだ。これはどういうことだろう? その答えは、本来の日本原住民といういい方は成立しないかもしれないが、ある時期に、日本列島から沖縄にかけて広く分布していた南方型のHB抗原をもっていた人たちが、その後、西部日本に上陸してきた北方型の人たちによって、次第に東北地方に追いやられていったという、歴史的な事実を裏づけているということだ」(*参照)   ・ ・   ・ ・  このことに関して研三は、雑学博士といわれるだけあって、東日本と西日本との間に文化的断層があることには、以前から注目していた。東日本の餅《もち》は四角いが、西日本では丸い。方言の分布や発音でも大きく違う。ちょうど、地殻の構造上、フォッサ・マグナといわれる大断層線——本州を東西に二分する、新潟と富山、長野と岐阜の境を通り、静岡県西部を走る線——を境界とし、あたかも二つの文化圏が対立しているかのようにみえる。発電所のサイクル数まで異なっている。研三は、この話題も持ちだしたかったが、この際は思いとどまった。すると、恭介が要領よく結論を述べてくれた。 「いまの話を、もう一歩進めると、こういうことになるだろうね。縄文時代には、本州から四国、九州、沖縄にかけて、均一な人種とはいえないまでも、HB抗原でいうと南方型の人たちが住んでいた。そこに、北方型の人種が金属器と弥生《やよい》式の文化を持って侵入してきたため、分断され、その一方は沖縄や薩南《さつなん》諸島に残ったが、相当の部分は東北地方に追われていった、というわけだ。  だとすると、乱暴ないい方をすれば、沖縄の人とアイヌは二千年以上前には同族だった、という可能性もある、ということになる」  恭介は、話題をもとにもどすよう、洋子に向かっていった。 「蝦夷《えぞ》と大和《やまと》王朝との抗争は、その後も続くのだろう。簡単にまとめてくれないか」 「承知しました。その前に、いまのお話に関係があるかと思いますので、�神武東征《じんむとうせい》�のときのことに、ちょっと触れさせていただきます。それは、久米歌《くめうた》についてですが、八十《やそ》梟帥《たける》の一行を酒に酔わせて皆殺しにするときに、�夷《えみし》を、ヒタリ(一人)モモナヒト(百人)、人は言《い》えども、手向いもせず�と歌っているのです。ここでいう�夷《えみし》�というのは、単に強暴な敵という意味でしょうが、一人で百人と戦うことができるような賊を、酔い潰《つぶ》して殺したことを自慢しているのです。もし、この�夷《えみし》�を�蝦夷《えぞ》�と解釈すると話は違ってきます」 「ちょっと待って。�神武東征�というのはなかったのだよ。あくまで、応神《おうじん》天皇の時代のこととして考えなくてはいけないよ」  恭介は、一本、釘《くぎ》をさした。 「はい。仮りに、日本列島全体にアイヌの祖先がいたとしても、それは縄文時代のことでしょう。ここでいう夷《えみし》は縄文時代人の残りだとしても、近世以降のアイヌとか蝦夷とは別で、単に抵抗者という意味ではないでしょうか」 「蝦夷イコール後世のアイヌと考えるから、こういう混乱もおこってくるということかな?」 「さて、蝦夷《えぞ》のことですが、大和王朝による蝦夷制圧作戦——ふつう東北経営などといわれていますが——の本格的な展開は、七世紀の半ばの、いわゆる大化《たいか》の改新ごろから始まります。六四七年とその翌年には、越後《えちご》(新潟県)の渟足《ぬたり》の柵《さく》と磐舟《いわふね》の柵が築かれ、蝦夷の反撃に対する防衛線が設けられます。そして、十年後の斉明《さいめい》天皇の時代には、阿倍比羅夫《あべのひらぶ》が派遣され、日本海岸を北上し、秋田・渟代《ぬしろ》(能代)・津軽《つがる》方面の蝦夷を攻撃します。  八世紀に入ると、いまの山形県方面に出羽《でわ》の柵が築かれ、巨勢麻呂《こせのまろ》の軍に守られて関東地方の農民を移民させています。神亀《じんき》元年(七二四年)に築かれた多賀城《たがじよう》(宮城県)にある石碑には、�京を去ること一千五百里、蝦夷の国の界を去ること百廿《にじゆう》里�とありますから、現在の岩手県より北は、蝦夷《えぞ》の国だったことになります。その後、大和勢力は北進をはかりますが、宝亀《ほうき》十一年(七八〇年)には、伊治公呰麻呂《いじのきみあたまろ》の反攻を受け、紀古佐美《きのこさみ》の征討軍が派遣されますが敗退してしまいます。  当時の大和王朝の政策は、抵抗する蝦夷は捕えて四国などの各地に定住させ俘囚《ふしゆう》として農民化する一方、奪った蝦夷地には、関東から西の農民を送りこみ、律令《りつりよう》制の班田《はんでん》(土地を割りあて、税収をあげる田)の耕作民にするという方法です。その背後には、大和《やまと》から派遣された将軍が兵士を率《ひき》いて護衛しているわけです」 「なるほどね。西部劇に出てくる、なんとか砦《とりで》といった状況かね?」 「そういったところです。八世紀の末から九世紀の初めにかけては、大和王朝と蝦夷との最後の決戦の時代です。大和からは、百済《くだら》人の子孫である百済王俊哲《くだらおうしゆんてつ》と同じく朝鮮《ちようせん》系の帰化人の子孫である坂上田村麻呂《さかのうえたむらまろ》が派遣され、蝦夷《えぞ》の勇将の|阿※流為《あてるい》と激しく闘い、ついにこれを逮捕して京に連れて来て斬殺《ざんさつ》します」 「ヒステリーだね。降伏した者を殺すなんていうのは。ところで、蝦夷の闘い方はどんなだったのかな。ゲリラ戦みたいなものだろうか」 「くわしい描写はありませんが、数万人の大和軍が手こずったのですから、相当に本格的な軍団を持っていたのでしょう。もちろん、騎馬戦です」 「ほう。それはどうしてわかるのかい?」 「奈良時代の初期の養老二年(七一八年)の記事に、�出羽ならびに渡島《おしま》(北海道)の蝦夷八十七人|来《きた》る。馬千|疋《びき》を貢《みつ》ぐ�とありますから間違いありません」 「ということは、八世紀の蝦夷というのは、未開どころか、かなり裕福だったと考えられるね」 「そのとおりだと思います。へたをすると、逆に、大和側が敗戦するのではないかといった危機感さえ、当時の近畿地方の人たちは持っていたようです。なにしろ、東北は都から見ると�艮《うしとら》�の方角で鬼門にあたりますし……」 「それで、九世紀以後は、東北地方は完全に平定されたことになるのかい?」 「はい、いまの青森県以外は、ほぼ平定されたといっていいでしょう。そして、二百年後に、前九年の役《えき》と後三年の役《えき》がおこるのです」 「それはどういう戦争だったっけ?」 「朝廷から派遣された国司にたいし、安倍頼時《あべのよりとき》と息子の貞任《さだとう》・宗任《むねとう》の兄弟が叛乱《はんらん》をおこしたのが前九年の役です。一〇五一年、源頼義《みなもとよりよし》・ 義家《よしいえ》父子が朝廷から陸奥守《むつのかみ》兼鎮守府《ちんじゆふ》将軍として派遣されて安倍氏と戦います。そのとき、出羽《でわ》(山形県)の豪族の清原《きよはら》氏が源氏の軍勢を助けたので、安倍父子は盛岡付近の厨川《くりやがわ》の戦いで敗れてしまいます。それまで九年かかったのです」  研三は、小学校のときに教わった話を思い出した。貞任・宗任の兄弟に対し、義家が、�衣《ころも》の館《たて》はほころびにけり�という下の句で呼びかけたのにたいし、�年を経《へ》し、糸の乱れの苦しさに�という上の句が返ってきたとか、梅の枝を示されて、�我《わ》が国の梅の花とは思えども、大宮人はいかが言うらん�と詠《えい》じたという物語りも頭に浮かんだ。 「後三年の役は、それから二十年あまりのちに、清原氏の内紛に源義家が干渉して行われたもので、この戦い以後、東北地方には岩手県中部の平泉を本拠とする藤原三代の栄華の時代が始まります。初代の藤原|清衡《きよひら》の母は安倍貞任の姉ですから、奥州藤原氏と安倍氏は親戚《しんせき》になります」  そういえば、以前、『成吉思汗《ジンギスカン》の秘密』について研究したとき、その藤原氏の四代目の泰衡《やすひら》が、源義経《みなもとよしつね》を裏切った話が出発点だった。また、それより三百年前の八世紀の奈良の大仏の鋳造のときにも、百済《くだら》の帰化人の敬福《きようふく》が仙台の付近で発見した大量の金を朝廷に献上して従三位を贈られた、という事実がある。 「東北地方はむかしから未開であり、貧しかったと思うのは大きな偏見だ」ということを研三は、あらためて胸に刻みつけた。安倍氏は、都の文化に負けない教養を身につけた人物だったのだ。  二人のやりとりを聞いていた恭介は、突然、思いがけないことをいいだした。 「いまの話の中で、大和《やまと》王朝から蝦夷《えぞ》征討のために派遣された将軍に、阿倍比羅夫というのがいたね。ところが、前九年の役で討たれたのが安倍氏親子だった。この二つの�アベ�は何か関係があるのかい」 「いいえ、違います。阿倍氏のほうは、第六代|孝元《こうげん》天皇の子の大彦命《おおひこのみこと》の、そのまた子の武渟川別命《たけぬなかわわけのみこと》の子孫だと称しています。さきほども名前が出ましたが、四道将軍《しどうしようぐん》として東海・北陸に派遣されたという王の家柄《いえがら》です。この阿|倍《*》氏は、阿|部《*》とも書き、比羅夫《ひらぶ》のほか、大化《たいか》改新のときの左大臣だった阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》、文武《もんむ》天皇のときの右大臣だった阿倍御主人《あべのみうし》や、遣唐使《けんとうし》になって中国で、�三笠《みかさ》の山に出でし月かも�と歌った阿倍仲麻呂《あべのなかまろ》たちが出ています」 「なるほど。なかなかの名門だね。それでもう一方の、陸奥《むつ》(青森・岩手・宮城)の安倍氏のほうはどうなのかい」 「それが、なんとも奇妙なのです。安倍氏の先祖は、長髄彦《ながすねひこ》の兄だというのです。神武東征《じんむとうせい》のときに討伐された長髄彦には、安日彦《あびひこ》という名の兄がいて、それが脱走して東北地方に土着したというのです。そして、安日彦の子孫の安東《やすはる》という者が、第十代|崇神《すじん》天皇のとき、征討将軍の安倍川別命《あべかわわけのみこと》に服したというので、安倍姓を賜《たまわ》り、安倍将軍を称した、というのです。その子孫が、安倍|頼時《よりとき》や貞任《さだとう》・宗任《むねとう》だというわけです」 「それは面白い話だね。だけど、信用できるかな」 「その点は、少し心配です。安倍川別命という皇族がいたという証拠はありませんから、�崇神天皇の時代に云々《うんぬん》�という系図への書きこみはあてにはなりません。しかし、安日彦《あびひこ》・長髄彦《ながすねひこ》伝説は東北地方にひろく分布していますし、安日彦の子孫を名乗る家はいくらもあります。鎌倉時代から南北朝時代にかけ、津軽《つがる》地方(青森県西半)で盛大な勢力を張った安東《あんどう》氏は、安倍貞任の子孫だと称しています」 「安東氏ね。そういう名は、僕らが教わった日本史には出てこなかったね」 「現在の高校の教科書でも扱っていませんが、津軽の十三湊《とさみなと》に城を築き、鎌倉時代には、おそらく日本一ともいうべき水軍を持っていました。朝鮮や中国、そして東南アジアともひろく貿易をしていたようですし、例の元寇《げんこう》のときにも、河野通有《こうのみちあり》の瀬戸内水軍を援《たす》けて出陣しています。『東日流外三郡誌《つがるそとさんぐんし》』によると、安東氏の勢力は、カムチャツカ、サハリンからシベリア大陸にまでおよんでいたということです」 「へえ。そういう大勢力が一般の歴史書にのっていないのはなぜだろうね。それに、青森県の日本海岸に、そんなりっぱな港があるという話は聞いたことがないね」 「それは無理もないことなのです。というのは、南北朝時代の一三四一年に、日本海中部大地震がおこり、そのときに発生した大津波で十三湊《とさみなと》周辺は完全に破壊され、それ以後、安東家一族の勢力は回復できない打撃を受けて衰亡してしまったからです。この大津波によって倒壊した都市の遺構は、最近、少しずつ発掘され、当時の安東氏の経済力や文化の水準がどれほど高いものだったかが、次第に実証されるようになってきています」 「いま松下君が名前をあげた『東日流外三郡誌《つがるそとさんぐんし》』というのはどういう書物なのだ?」 「じつは、現物を読んではいないので、解説書の孫引きで申しわけないのですが、勘弁してください。現在、公開されている『東日流外三郡誌』とは、青森県北津軽郡|市浦《しうら》村で刊行されている『市浦村史資料編』(全三巻)のことです。それは、原本の三分の一ほどだそうです」  恭介は北津軽郡という地名に興味をもったらしく口をはさんだ。 「ほう、そうするとその市浦村というのは、源義経《みなもとよしつね》が弁慶《べんけい》たちといっしょに北海道に渡った伝説のある竜飛崎《たつぴざき》の近くになるね」 「そうです。津軽半島の途中に十三湖《じゆうさんこ》という湖があります。大津波で破壊された十三湊《とさみなと》の跡《あと》の湖です。そこは、五所《ごしよ》川原《がわら》から津軽鉄道で入っても、終点のまだ先になります。いまでは、ほんとうに草深い寒村です。その少し南には、亀《かめ》が岡《おか》の縄文遺跡があり、そこからは有名な遮光器土偶《しやこうきどぐう》——まるで宇宙服を着た人物を思わせる奇怪な土の人形などが多量に出土しています。  ところで、この書物について紹介した本が、一時は、青森県でベストセラーにもなったそうです。なにしろ、その内容が奇想天外というか、おどろくべきものなのです。とにかく、太古の時代には、日本海が湖水で、北海道やアジア大陸まで地続きであったとか、その地方は阿蘇部《あそべ》族という種族が住む楽園だったが、大陸の中国から津保化《つぼけ》族という種族が流入してきたとか、およそ、どんな文献にものっていない記事が満載されているのです。つまり、氷河時代や、どうやら縄文《じようもん》時代と思われるころのことが数多く記されていますし、阿蘇部族と津保化族が共存しながら荒吐《あらはばき》族として生活していた、とまで書かれており、彼らが用いたという奇怪な文字とか、生活様式などが、くわしく紹介されています。 『東日流外三郡誌《つがるそとさんぐんし》』で、僕らにとって、いちばん問題になるのは、神武《じんむ》天皇を侵略者とし、長髄彦《ながすねひこ》が祖国防衛者として描かれていることと、長髄彦は殺されずに東日流《つがる》に亡命しただけではなく、その後、その子孫は大和にたいして反撃を行い、綏靖《すいぜい》・懿徳《いとく》・孝元《こうげん》・開化《かいか》の四天皇は、この荒吐《あらはばき》族の王が立てた天皇だとしていることです。また、日本武尊《やまとたけるのみこと》の熊襲《くまそ》征伐のとき、熊襲の集団が荒吐族の住む土地に亡命した、とも書かれています。しかし、七世紀ごろからのちの記述は、中央の正史ともそれほどのズレはなく、荒唐無稽《こうとうむけい》なものでもなくなっています」 「へえ、とても信じられないね。ところで、いったい、その本の原本は、いつごろ、誰《だれ》が書き残したものだというのかい?」 「それは、寛政《かんせい》五年(一七九三年)に、秋田孝季《あきたたかすえ》と和田長三郎《わだちようさぶろう》という武士が、津軽《つがる》地方に残っていた古文書や家伝を中心に、全国を行脚《あんぎや》して集めた�聞《き》き書《がき》�や長崎で集めた外国史料を加えて編集したとされています。そして、その内容は公開をはばかるものとして、両家で厳重に隠しとおしてきたわけですが、近年、村当局が刊行を提案し、村議会で活発な討議をしたうえ、乏しい村の予算を注《つ》ぎこんで刊行することに踏み切ったというのです。村の人たちは、根も葉もないこととは思っていないからでしょう」 「ふうん。常識では考えられないことだね。しかし、市浦村の人たちの気持ちはわかるような気がするね。長いこと抑圧されてきた地方の人たちが、自分たちこそ、日本原住民だと名乗りをあげようというのは、もっともだと思う。ところで、江戸時代の、その二人の武士はどういう人物なのかい?」 「よくはわかりませんが、秋田孝季は秋田|藩士《はんし》ですね。この秋田氏というのは、本姓は安倍氏で、例の安倍貞任の子孫だとされています。その系図によると、先祖は長髄彦の兄の安日彦《あびひこ》です。その子孫の秋田氏は最初は安東氏を名乗っており、そこから分家したとされています」 「そうすると、源義経が世話になった藤原氏は安倍氏と親戚関係にあったから、義経たちの北海道への脱出には安東水軍が一役買ったと考えられそうだね」 「気がつきませんでした。ほんとうにそうですね」 「それはそうと、東北地方には安倍や阿部という姓は多いようだね。そういえば、『成吉思汗《じんぎすかん》の秘密』を調べたときに出てきた、椿山《つばきやま》伝説の主人公も阿部七郎《あべしちろう》だったね」  椿山伝説というのは、衣川《ころもがわ》の館《たて》から脱出した源義経《みなもとよしつね》が青森|八戸《はちのへ》の女を愛して産ませた鶴姫《つるひめ》が、土地の豪族の息子の阿部七郎と恋仲になり、親たちの許しが得られずに、浅虫《あさむし》温泉のそばの椿山という所で、たがいに胸を刺しあって心中したという物語りだ。しかも、『成吉思汗の秘密』を書いたころに、蒙古《もうこ》の英雄成吉思汗すなわち義経の血を現代にひく愛親覚羅慧生《あいしんかくらえいせい》と八戸生まれの大久保武道《おおくぼたけみち》という青年が、天城山でピストル自殺をした事件があり、それが椿山心中の第二部に相当する、ということで、当時、恭介と研三は異常な興奮にかられたものだった。 「阿部七郎でしたね。鶴姫のお相手は——。それにしても、阿部とか安倍という一族には、大昔からの悲劇的な�なにか�があるのでしょうかね。こんなことをいったら、全国のアベさんから叱《しか》られるでしょうけれど」  東北地方は、研三にとっても、いろいろとなつかしい思い出がある。二人が、まだ三十歳代だったころ、あのロマンチックな謎《なぞ》を解き明かすために、源義経の足跡を追ったことが、昨日のことのように思い出された。  古代から近世にいたるまで、日本の歴史の不透明な部分は、なぜか東北地方に結びついてくる。北九州から始まった、今回の研究も、いつのまにか、�みちのく�にまで、やってきてしまった。  その日、恭介を見舞いに来て、三人の会話を聞くとはなしに耳にしていた研三の妻の滋子《しげこ》は、突然、話の中に割り込んできた。 「お邪魔してよろしいでしょうか。わたくしの母方の旧姓は安倍という苗字《みようじ》で、青森県の津軽の旧家だったそうですの。いまのお話の長髄彦《ながすねひこ》の兄の安日彦《あびひこ》が安倍家の先祖だということは、わたくしも祖母から聞いたことがあります」 「そういえば、津軽のおばあさんという人ね。結婚式のときに、一度だけお目にかかったことがあったっけ」 「でも、この話は、戦争中は極秘事項といいますか、他人様には絶対にしてはいけないことになっていました。わたくしも、女学校時代に聞かされて、自分には逆賊の血が流れているのかと思い、悲しかったことを覚えています」  恭介は、研三の妻には何度も会っているが、この話ははじめてなので、少しばかり遠慮した口調で質問した。 「それで、奥さんは、学校で教わった日本の歴史について、何か疑いをもったというようなことはありませんでしたか」 「はい。津軽に限らず、奥羽《おうう》地方の者は、いつも征伐される側にあったことが、子供心にも口惜《くや》しかったことは覚えています」  奥羽地方といういい方は戦前の学校の教科書で行われていたもので、戦後には、東北地方とよばれている。たしかに、東北地方の住民は、つねに中央政府の討伐の対象とされている。後三年の役のあとも、続いて、源頼朝による藤原氏の征討と、いつも東北の住民は権力者側によって制圧されてきた。そして、明治維新の際にも、官軍は会津(福島県)を攻略している。  研三は、あらためて妻の顔を見なおした。 「東北人はシンが強いとよくいわれているのは、雪が多いからだけではなく、歴史の重みというものもあったわけですね」 「はい。津軽者は�じょっぱり�だといわれますが、それは日本中でいちばん貧しかったからかもしれません。ただ、一生懸命に働いて少しでも豊かになりたかったということで、けっして、ひねくれ根性ということだとは思いません。相撲《すもう》取りでも、最後まで粘《ねば》るのは青森出身の力士だということもいえるのではないかしら」 「どうも失礼しました。僕は東京育ちなもので、つい心ないことを質問したりして——。でも、大いに参考になりました」  恭介は、研三の妻に黙礼すると、いつになくきびしい顔をして、しばらく何事か思案している様子だったが、明るい表情にもどると、大向こうに見栄《みえ》を切るかのような厳《おごそ》かな調子で研三と洋子に向かっていった。 「これにて一件ことごとく落着。古代日本史の宿題、みごと解き明かされたり——かな」 「なんですか、宿題というのは? 応神《おうじん》天皇の父は誰《だれ》か——というやつですか?」 「そうじゃないよ。その問題の答えは、あのときはお預けにしたけれど、一年二倍暦を認めると、応神天皇の誕生は仲哀天皇の死後、十月十日《とつきとおか》目ではなく、百五十日目ぐらいだから、やはり、応神天皇は仲哀天皇の実子ということになる」 「そうですね。変な疑いを神功皇后にかけて申しわけなかったことになりますね。では、その宿題というのは、いったい何ですか。もったいぶらないでくださいよ」 「じれることはないだろう。香坂《かごさか》王と忍熊《おしくま》王の正体だよ。神功《じんぐう》皇后に反抗し、武内宿禰《たけのうちのすくね》や武振熊《たけふるくま》に討たれた兄弟のことだよ」 「えっ。まさか、その二人が、安日彦と長髄彦だった、なんていうつもりではないでしょうね」 「まさかどころか、まさしくだよ。だってそうじゃないか。�応神東遷《おうじんとうせん》�が�神武東征《じんむとうせい》�ならば、討たれたのが兄弟である以上、この二人ということになる」 「しかし、香坂王も忍熊王も二人とも殺されていますよ」 「そう書いてはあるね。しかし、香坂王のほうは�赤い猪《いのしし》に食われた�ということになっているじゃないか。それは、�逮捕できずに取り逃がした�という意味だよ」  恭介は、またしても、突拍子《とつぴようし》もないことをいってのけた。毎度のこととはいえ、研三はすっかり度胆《どぎも》をぬかれ、まさに、開《あ》いた口がふさがらない思いだった。  十六 出雲族《いずもぞく》の怨念《おんねん》 「では、長髄彦《ながすねひこ》の正体はなんだっていうのですか。それに、兄の安日彦《あびひこ》という人物もわけがわからないじゃないですか」 「いずれ、わかってくるよ。それより、もう一つの宿題のほうをさきに片づけることにしようよ。それさえ解ければ、すべてがはっきりしてくるはずだ」 「なんのことでしたっけ、もう一つの宿題というのは」 「出雲《いずも》のことだよ。特に、�国譲り�とはなんであったか、そして、歴史上のいつの時代の出来事か、ということさ。まさか、出雲の征服が天孫降臨の直前のはずはないだろう」 「ああ。そうでしたね。あのときは、�葦原《あしはら》の中つ国�が、豊《とよ》の国(大分県)の中津であるということがわかって大喜びしたために、出雲のことなど、すっかり忘れてしまいました。そういえば、まだ、出雲については、なにも検討していませんでしたね」 「どうだね。洋子さん。古代出雲については、どれだけのことがわかっているのかい。先だって、荒神谷《こうじんだに》とかいう所で、銅剣がいっぱい出てきたということじゃないか」 「はい。荒神谷(島根県|簸川《ひかわ》郡|斐川《ひかわ》町|神庭西谷《かんばさいだに》)というのは、出雲(島根県)の西側の簸《ひ》の川沿いの土地です。簸の川というのは、例の八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治の神話に出てくる肥《ひ》の川になぞらえられている川です。  古代出雲の研究は、各地の古墳からの出土物と、『出雲国風土記《いずものくにふどき》』の記事を中心に行われています。一口に、出雲といっても、大きく分けると東部の意宇《おう》平野の一帯と、西部の簸の川の流域の杵築《きつき》地方、それに北部の島根半島の三つの地域があります。  古墳については、一般的にいって、四隅突出型古墳という古い形式のものが国府のある東部に多く、後期の大古墳は西部に多い、というのが従来の考え方でした。そして、東部は出雲国府が置かれているので政治の中心、西部は出雲大社があるので宗教の中心、とするような考え方もありました。  また、『出雲国風土記』は奈良時代の初期に、出雲国庁で編集されて朝廷に献上されたもので、全国の『風土記』のうちで、完全な形で残っている唯一《ゆいいつ》のものです。そして、そこには、官衙《かんが》・駅・距離・浦津《みなと》・軍団などにつき、きわめて正確に叙述されており、出雲臣《いずものおみ》家の誠実さというか、朝廷への服属の気持ちの強さがよく示されています。  この『風土記』にのっている神話や伝承は、『古事記』の出雲神話とはまったく異なっています。須佐之男命《すさのおのみこと》の名と、その子の名は出てきますが、須佐之男命とは出雲西部の飯石《いいし》郡須佐郷の郷土神に過ぎず、八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治の話はもちろんのこと、大国主命《おおくにぬしのみこと》との関係など、何一つ記されていません。また、大国主命は大穴持命《おおあなもちのみこと》の名で現われ、子の阿遅須枳高日子命《あじすきたかひこねのみこと》の名も出てきますが、『古事記』と共通する内容は一つもありません。『風土記』固有の神話としては、八束水臣津命《やつかみずおみつのみこと》が、出雲の国土がせまい、というので、海の彼方《かなた》の新羅《しらぎ》の国の余った土地に綱をつけて引き寄せた、という�国引き�の話が目立ちます」  恭介は、洋子の言葉をさえぎるようにいった。 「いまの話はマークしておく必要があるよ。『風土記』は中央政府に献上された正式の文書なのだから、その内容は相当以上に信頼度が高い、というべきだろうしね」 「わたくしも、それに近いことを考えています」 「それで、最近の考古学上の発見で、いままでの古代出雲像は変更を余儀なくされたというようなことはないのかい」 「いくつかの点でいえるようです。考古学のことは、わたくしは専門ではありませんので、よくは知らないのですが、第一には、古代出雲の文化は、これまでの想像以上に進んでいたということです。第二は、文化圏の概念が変ったことです。ひとむかし前まで、近畿地方と中国地方の東半分は銅鐸《どうたく》文化圏、九州と中国地方の西半分は銅矛《どうほこ》文化圏とする考え方が行われていました。わたくしが高校で教わった日本史の教科書などには、そういうことを示した分布地図がのっていましたが、最近では、そういう考え方は完全に否定されています」 「それはどうしてなの」 「一つは、九州で銅鐸が発見されたことから、銅鐸製作技術は北九州から近畿地方へ伝えられたとする考え方です。先日、わたくしたちが確認した�物部《もののべ》氏の東遷《とうせん》�は、この事実によっても裏づけられます。もう一つは、出雲の秋鹿《あいか》郡の志谷奥《しだにおく》遺跡から銅鐸と銅剣が発見されたことによっています」 「例の荒神谷遺跡の銅剣の発見は、どういう意味をもっているのだい」 「はい。三百八十五本もの大量の銅剣が一か所からまとまって出土したことについては、武器庫説や宗教的な意味づけをする考え方もありますが、その一方、出雲が大和王朝に降伏し、各村落にあった祭祀《さいし》用の剣を集めて廃棄処分にしたのだろうと説く人もいます。  もう一つ、一九八四年一月に、岡田山一号墳出土の鉄刀の銘文の文字の解読が行われ、刀身に刻まれていた�額田部臣《ぬかだべのおみ》�という文字が浮かび上がってきました。このことから、この古墳の築造時期と考えられる六世紀後半には、出雲は大和王朝の支配下にあった、ということが証明されたというのです」 「さっき、『出雲国風土記《いずものくにふどき》』には、八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治の記事はないということだったね。ところが、実際の簸《ひ》の川の一帯では砂鉄が産し、鉄の精錬《せいれん》が行われていたのだろう」 「はい。それは確かなのですが、砂鉄から剣などを製造し始めた時期はいつなのかが、いま一つはっきりしないようです。五、六世紀以後には行われていますが、それ以前のこととなると、どうも何ともいえないようです」  恭介は、しばらくベッドの上で天井をにらみながら考えていたが、やおら口を開いた。 「それでは、『古事記』や『日本書紀』では、出雲について、どういうふうに書いているか、松下君、おおよそのことを聞かせてくれないか」 「いいですよ。神話の部分は、両者共通ですが、『古事記』のほうが叙述が文学的で、豊富ですから、そちらのほうに従ってお話ししましょう。  出雲という地名が最初に出てくるのは、黄泉《よみ》の国を訪ねた伊耶那岐命《いざなぎのみこと》が、地上に帰ってきたときの出口が出雲の伊賦夜《いふや》坂だったという個所です。そのつぎに、出雲が現われるのは、高天原《たかまがはら》を追放された須佐之男命《すさのおのみこと》が、出雲の肥《ひ》の河上の鳥髪《とりかみ》の地に天降《あまくだ》りして、八岐《やまたの》大蛇《おろち》を退治したという話の舞台としてです。河上から箸《はし》が流れてきたので、川をさかのぼっていくと、大山津見神《おおやまつみのかみ》の子の足名椎《あしなづち》と妻の手名椎《てなづち》とが泣いており、娘の櫛名田比売《くしなだひめ》を大蛇《おろち》に捧《ささ》げなければならない、という話を聞きます。須佐之男命は、大蛇を酒に酔わせて退治したところ、その尾の部分から、都牟羽《つむは》(都牟刈《つむがり》)の大刀(天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》)が出てきたというわけです。この剣は、天照大神《あまてらすおおみかみ》に献上され、のちに、熱田《あつた》神宮に保管されます。日本武尊《やまとたけるのみこと》が東征のとき、倭姫命《やまとひめのみこと》から借り出し、焼津《やいづ》の野で火討ち攻めにあったので、草を薙《な》ぎ払って脱出したことから、草薙剣《くさなぎのつるぎ》とよばれるようになったということです」 「天皇の位を嗣《つ》ぐための�三種の神器�は、この草薙剣と八咫鏡《やたのかがみ》と八坂瓊勾玉《やさかにのまがたま》だったね」 「そうです。『古事記』では、このあと、大国主命《おおくにぬしのみこと》の話が続きます。大国主命は、またの名を大穴牟遅《おおあなむち》の神とか葦原志挙乎《あしはらのしこお》とか、八千矛神《やちほこのかみ》と記されています。大国主命には、八十神《やそがみ》の兄弟があり、ともに稲羽《いなば》(因幡=鳥取県)の八上比売《やがみひめ》と結婚しようと競《きそ》います。その途中で、気多《けた》の岬——島根県の地名です——の海岸で鰐《わに》をだまして淤岐《おき》(隠岐)の島から渡ってきたという兎《うさぎ》を救ってやる話があります。どうでもいいことですが、『古事記』には、この兎のことを白い兎とは書いてありませんし、鰐に衣服は剥《は》がれたが、皮を剥がれたとは書いてありません」 「ほんとうかい。つい見のがしていたよ」 「そのあと、大国主命は、八十神たちによって焼けた大石で殺されたり、木の股《また》に入れられ射殺されたりしますが、高天原の神によって救われて生き返ります。さらに、大国主命は、蛇やむかでのいる部屋で苦難の試練を受けますが、須佐之男命の娘の須世理毘売《すせりひめ》によって救われ、とうとう須佐之男命に許されて須世理毘売を正妻とすることができます」 「八上比売はどうなったのだい?」 「いい忘れました。兎を救ったあと、大国主命の妻となっています。しかし、正妻の地位は須世理毘売に譲っています」 「たしか、『古事記』には、長い歌が六つくらいのっていたね。それから、大国主命の系譜もくわしく書いてあったね」 「そうです。しかし、この系譜は少々おかしいのです。一方では、大国主命は須佐之男命の娘の婿《むこ》になっているのに、他方では、須佐之男命と櫛名田比売《くしなだひめ》の間に生まれた八島士奴美命《やしまじぬみのみこと》の五代目の子孫になっています」 「ということは、大国主命というのは多数いたわけだ。異名もいろいろあるし、まえに、『播磨国風土記《はりまのくにふどき》』にも出てきたしね」 「大国主《おおくにぬし》とか大穴牟遅《おおあなむち》というのは、土地の支配者というような意味で、固有名詞ではなく普通名詞だと考えるべきだということですね」 「そのほか、出雲については、少名毘古那《すくなひこな》の神との�国造《くにつく》り�の話があったね」 「この神は、天《あめの》羅摩船《かがみぷね》に乗り鵝《ひむし》の皮の衣服を着て、海の彼方《かなた》から出雲の御大《みほ》(三保)の岬にやって来た小人《こびと》のように書かれてありますが、�国造《くにつく》り�の仕事が終わると常世《とこよ》の国に帰っていったことになっています。大国主命と少名毘古那の話は、各地の『風土記』の逸文《いつぶん》や、『万葉集』の歌にもしばしば出てきますから、古代の人たちには親しまれていた神なのでしょう」 「そのつぎに、この前に見た�国譲《くにゆず》り�の話が出てくるわけだね。天鳥船神《あまのとりぶねのかみ》と建御雷神《たけみかずちのかみ》が出雲の伊耶佐《いざさ》(伊那佐《いなさ》)の浜に高天原《たかまがはら》から天降《あまくだ》って、十掬剣《とつかのつるぎ》を抜いて浪《なみ》の穂に逆さに刺し立て、大国主命と談判し、出雲の国の統治権を天照大神《あまてらすおおみかみ》の孫の邇邇芸命《ににぎのみこと》に譲らせる話だったね」 「そうです。そのとき、不思議に思ったのは、天孫降臨《てんそんこうりん》の目的地は、水穂《みずほ》の国のはずなのに、�国譲り�を受けたのは出雲の国であり、雲を掻《か》き分けて降りたさきは、久士布流多気《くしふるたけ》であった点でした。神津さんは、天照大神が邇邇芸命に統治権を授けたという豊葦原《とよあしはら》の中つ国を、豊《とよ》の国(大分県)の中津であると推理し、みごとに、日向《ひむか》の地である日田《ひた》と宇佐《うさ》のある豊の国を結びつけましたが、あとで考えると、現実の出雲つまり、いまの島根県と葦原の中つ国とがどうつながるのか、という点が、すっぽりぬけたままになっていました。  その点を、どう考えたらいいのでしょうか」 「うん。その問題を考えるのなら、まず、第一ヒントは、歴史上で、出雲が最初に出てくるのは、いつか、ということだね」 「それは、ずいぶんとあとのことです。神話時代のつぎとなると、まるで、忘れていたのか、といいたくなるくらいで、第十代の崇神《すじん》天皇のときの出雲振根《いずもふるね》の話が最初です」 「では、もう一度、その話をしてくれないか」 「はい。『日本書紀』では、崇神天皇の六十年とありますから、三世紀の末近くのことになります。出雲の国にある神宝がほしいと天皇がいいだし、矢田部造《やたべのみやつこ》の祖の武諸隅《たけもろすみ》という者が出雲に派遣されます。出雲の支配者は、後世の出雲臣《いずものおみ》の先祖の出雲振根でしたが、たまたま筑紫《つくし》の国に行って不在中だったので、弟の飯入根《いいいりね》が神宝を献上してしまいます。筑紫から帰ってきた振根は、それを知って怒り、弟を殺します。そして、甘美韓日狭《うましからひさ》と|※濡渟《うかつくぬ》という者が、そのことを朝廷に申し出たため、吉備津彦《きびつひこ》と武渟河別《たけぬなかわわけ》の二人が出雲に派遣され、振根は殺されてしまいます」 「吉備津彦と武渟河別とは、どういう人物だったっけ」 「吉備津彦は、崇神天皇の曾祖父《そうそふ》の第七代|孝霊《こうれい》天皇の子で、四道将軍《しどうしようぐん》の一人として西道《にしのみち》に派遣されています。ただし、『古事記』にはその事実は書かれていません。武渟河別は、さきほど話題になった大彦命《おおひこのみこと》の子で、大和《やまと》王朝に仕えたほうの阿倍氏の祖とされる人物で、四道将軍の一人です」 「つぎに、第二ヒント。それは、洋子さんに答えてほしいのだが、大和がわの立場からではなく、出雲の国のがわでは、出雲と大和との関係をどう受けとめていたのかということさ。その点について話してくれないか」 「では、申し上げます。奈良時代の初期、霊亀《れいき》二年(七一六年)二月、出雲|国造《こくぞう》家の果安《はたやす》は平城《へいじよう》京に、郡司や神官ら百十余人を率《ひき》いて出向きました。種々の献上物が朝廷に捧《ささ》げられ、『神賀詞《かむのよごと》』が奏せられました。『神賀詞』というのは、出雲国造家が先祖以来、大和朝廷に臣属して来た事実を認め、その子孫である出雲臣《いずものおみ》の業績を述べるとともに、天皇の長寿をことほぐ言葉です。  この出雲国造家による『神賀詞』の奏上の記事と神宝の献上のことは、『続日本紀《しよくにほんぎ》』以下の正史に十回あまり記されており、その内容は『延喜式《えんぎしき》』にものせられています。  そのことで、注目すべきことは、出雲国造家の始祖とされている天《あめ》の菩比《ほひの》(穂日)命《みこと》が、出雲の国に荒ぶる神を平定した人物となっていることです。『古事記』や『日本書紀』では、この神は、高天原の命令にそむき、いつまでたっても、�国譲り�の仕事の報告をしなかったことになっていて『神賀詞』の内容とはくい違っています。現在、出雲大社の神官をしている北島家と千家は、この出雲臣の子孫です」 「それで、出雲の国が大和王朝に臣属したというのは、歴史的事実としては、いつごろのことになっているのかい?」 「文献上では『旧事紀《くじき》』の『国造本紀』に、崇神《すじん》天皇の時代に、この天《あめ》の菩比命《ほひのみこと》の十一世の孫の宇迦都久怒《うかつくぬ》が出雲の国造《くにのみやつこ》に任ぜられたとあり、ちょうど『日本書紀』の崇神六十年の条にある出雲振根《いずもふるね》にたいし、神宝の献上が命ぜられた記事と対応しているように見えます」  研三は、そのことについて疑問をなげかけた。 「しかし、出雲|国造《こくぞう》家が朝廷に『神賀詞《かむのよごと》』を奏するのはどういうわけでしょうね。よその地方にはそういう事実はないのですから、やはり出雲は特別な地域であり、『古事記』でいう�国譲り�のような強硬手段による支配権の奪取が行われたことの結果ではないでしょうか」  この質問に対して、恭介は、いくぶんか面倒くさそうな様子で答えた。 「まず、地理的な点を考えてごらん。出雲地方というのは、北九州と並んで大陸文化の渡来しやすい場所だということに気づくはずだよ。いまの�国引き�の話を見てもわかるように、新羅《しらぎ》とは直接の往来があったことは確実だ。荒神谷の銅剣の大量出土も偶然ではなく、二、三世紀ごろの出雲の国力は、これまで一般に想像されていた以上に大きかったと考えなくてはいけない。したがって、崇神天皇の大和朝廷としては、ライバルの独立王国ともいえる出雲にたいして攻撃を仕かけるチャンスをうかがっていたと考えても不思議ではないだろうね。つまり、出雲振根を討ったという『日本書紀』の記事は、当然あり得たことだよ。 �国譲り�の神話と、歴史上の出雲振根の討伐事件とを、どう結びつけるかが、これからの問題だ。  そこで、第三ヒントは、いま松下君が言った、なぜ、出雲国造家だけが大和王朝にたいして、そんなに屈辱的な態度をとってきたのかという点だ。うまく説明できるかい?」 「はい。やはり、出雲の人たちの大和にたいする怨念《おんねん》というものがあったからではないでしょうか。この出雲臣《いずものおみ》家というのは、天《あめ》の菩比命《ほひのみこと》の子孫ですから天《あま》つ神《かみ》系です。つまり、出雲の人民にとっては征服者側の家系です。大和側では、征服地の支配のために送りこんだのが出雲臣家なのです。こうなると、出雲臣家では、現地の人たちの歓心を買うような迎合政策も内政上はとる必要もあるでしょうが、相当の強圧政治もしたに違いありません。  一方、自分の任命者である大和王朝にたいしては、任地の人民と共同して叛逆《はんぎやく》をはかったりすることはないのだという誠意を示す必要があります。そこで、『神賀詞』を奏上する慣行が生まれたのではないでしょうか。よその国にそういうことがないのは、諸国連合政権が話し合いとか、婚姻関係とか、比較的平和のうちにできたからで、出雲にたいするような軍事的な征服はあったとしても、それほどの抵抗をともなわなかったからと考えれば理解できると思います」 「うん。ごりっぱだ。正解と思うよ。  それでは、僕の意見をいおう。ずばりいうなら、『古事記』に書かれている�出雲神話�は、島根県の出雲とは関係はないよ」  研三は、おどろいて口をはさんだ。 「では、いったい、どこの国の物語りだというのですか? 出雲には須佐という地名もあるし、八岐《やまたの》大蛇《おろち》の出てくる�肥《ひ》の川�と同じ名の簸《ひ》の川も出雲にあるじゃないですか」 「なによりの根拠は、『出雲国風土記《いずものくにふどき》』にいわゆる�出雲神話�に類する話が全然ないということさ。それよりも、�天孫降臨�の目的が何だったか考えてごらん。邇邇芸命《ににぎのみこと》の子孫を葦原《あしはら》の水穂《みずほ》の国の統治者にするためだね。ところが、実際には、崇神《すじん》天皇のころまで現実の出雲の国は独立国として大和《やまと》王朝に対抗できるような力をもっている。それでは、天照大神《あまてらすおおみかみ》の神勅が嘘《うそ》だということになってしまう。そこで、�天孫降臨�に先立って、出雲の�国譲り�があったことにしなければつじつまが合わなくなってしまったのさ」 「でも、大国主命《おおくにぬしのみこと》や須佐之男命《すさのおのみこと》の話を出雲の神話として書いたことの理由がわかりませんね。その点は、どうなのでしょう」 「それは単純な理由さ。天照大神の子孫によって支配されるべき国がどういう国か、一応は記しておく必要があるからね。歴史時代の事件である伊耶佐《いざさ》の浜での談判くらいは事実に近いかもしれないが、それ以外の出雲神話——八岐大蛇や因幡の白兎などの話は、よその国の出来事や伝説を適当に利用しただけのことだよ」 「よその国というと、たとえば——」 「いちばん、考えられるのは宇佐《うさ》に近いどこかだろうね。宇佐には�一身八頭�の怪人の話もあったし、�ヤアタ・ロ�というのは蛇のことだという説もあったね。簸《ひ》の川は肥《ひ》の川で、九州の肥の国の川ともいえそうだ。それから、景行天皇の九州征討のときにも、宇佐の付近に稲葉という地名があったね。ウサギは宇佐に縁がありそうだ」 「大国主命と八十神《やそがみ》の話はどうですか」 「それも同じことさ。大国主命には異名が多かったね。ということは、出雲にいた一人の人物の名ではないということさ。どこの国でもいい。大国主命というのは、土地の支配者というだけの意味だろうからね」  恭介のこの解説には、研三も従わないわけにはいかなかった。そこで、恭介は、今度は洋子に向かって、具体的な質問を発した。 「大和から派遣された出雲征討軍は、どんなコースをとったのだろうね」 「はい。三世紀末ごろの情勢から考えると、出雲に入るには、いまの鳥取県、当時の因幡《いなば》と伯耆《ほうき》が完全に大和王朝の支配下にはいってあとならば別ですが、陸地から入るとすれば、岡山県北部の津山《つやま》方面から山を越え、西北西に進み出雲の中西部を衝《つ》くのと、もう一つは、広島県の北東部の三次《みよし》から北上して侵入するのと二つしか考えられません。  わたくしの考えというのは、吉備《きび》の勢力が出雲を征服して大和王朝と五タン王朝とに譲り渡したのだということです」  洋子が、この問題について、これほど綿密に考えていたことは、研三にとっては、一つのおどろきだった。 「なるほどね。吉備といえば、岡山県から広島県東部だ。そこからなら出雲へ侵入できるね。それで、その根拠はどういうことかい?」 「崇神《すじん》天皇の検討のときには、いいもらしましたが、吉備津彦《きびつひこ》についてのことです。出雲振根の討伐のために、武渟河別命《たけぬなかわわけのみこと》といっしょに派遣された吉備津彦は、第七代の孝霊《こうれい》天皇の子で、第十代の崇神天皇のとき、四道将軍《しどうしようぐん》として西方に派遣されたことになっていますが、ちょっと年代的におかしいのです。わたくしの考えでは、この吉備津彦は孝霊天皇の子ではないことになります。彼は、吉備の国王ともいえる人物で、大和王朝としては重要な同盟者であったはずです。その点に敬意を表して、あえて皇子として扱ったのだと考えます」 「それで、吉備津彦は誰《だれ》の子だというのだい。そういう以上は、何か根拠もあるのだろうね」 「根拠の一つは、吉備津彦の別名です。それは彦《ひこ》五十狭芹彦《いさせりひこ》です。『古事記』の表記では日子伊佐勢理毘古です」 「わかったよ。洋子さん。あなたがいいたいことは。イサセリはイザサに通じ、天《あめ》の日矛《ひぼこ》の一族だというのだろう」 「ご明察です。なぜ、そんなことがいえるのかとお疑いでしょうが、その一つの根拠として、備前《びぜん》の武士の児島高徳《こじまたかのり》の一族のことがあげられます。隠岐《おき》島に流された後醍醐《ごだいご》天皇をお迎えし、桜の幹に十字の詩を書いたという人です」  これには研三はおどろいた。『太平記』によると、そのときの詩は、�天、勾践《こうせん》をむなしうするなかれ、時《とき》に、范蠡《はんれい》なきにしもあらず�というもので、研三たちが小学校時代に唱歌で教わった。その高徳が何で出てくるのか。 「その児島氏は『太平記』に�高徳《たかのり》は今木三郎《いまきさぶろう》、和田備後守範長《わだびんごのかみのりなが》が子、新羅《しらぎ》王の子、天《あめ》の日槍《ひぼこ》の後《あと》なり�と明記されております。そして、高徳の一族とされる今木《いまき》、大冨《おおとみ》、和田《わだ》、陶田《すえだ》、荘《しよう》、射越《いごえ》などの諸氏は、すべて、三宅氏か吉備氏の子孫になっています。つまり、三宅氏と吉備氏が同族であるということは、吉備氏もヒボコの子孫だということです」  またしても、ヒボコが登場した。日本古代史の解明に、これほどヒボコが関係するとは研三は夢にも思っていなかった。 「まだ、ほかにも証拠らしいものはあります。『出雲国風土記《いずものくにふどき》』の編集者は出雲国造家の出雲臣広島《いずものおみひろしま》ですが、実際の筆録者は神宅臣全太理《みやけのおみまたたり》となっています。そのことは、征服した出雲を監視するために、ヒボコの子孫の神宅《みやけ》(三宅)氏が出雲に駐在したからでしょう」  恭介も、さすがに�我が意をえたり�という満足げな顔をして洋子にいった。 「大したものだ。完璧《かんぺき》な証明だ。ヒボコ系の吉備の勢力が出雲を討ったというのは間違いないだろう。だが、もう少し補強資料があるといいとも思うね」 「はい。まえにも、ちらっと申しましたが、ヒボコの子に、但馬諸助《たじまもろすく》というのがいます。一方、第六代|孝安《こうあん》天皇の子に、吉備諸進《きびのもろすす》というのがいます。名が似ているので、あるいは同一人物かもしれないと思っていましたが、時代的にほぼ同じころですし、大和王朝は五タン王朝ならびにヒボコ系と姻戚《いんせき》関係にあったことは、間違いありませんから、偶然の類似ではなく、諸助と諸進は同一人物と見ていいのではないでしょうか」 「そうだね。そう考えるのが正しいだろうね。りっぱな証拠になるよ」  恭介も、今日の謎解《なぞと》きの功績は、洋子に譲ってもいい、という様子で、惜しみなく賞讃の言葉を贈った。  洋子は、さらに話を続けた。 「わたくしの遠い先祖は、少しばかり手荒かったらしく、怨《うら》まれることも多かったと思います。  そのほかに、間接的な物証としては、賀陽《かや》の�鬼の城�があります。岡山県は巨大古墳が多いので有名ですが、この�鬼の城�は朝鮮《ちようせん》系の山城です。賀陽は加耶《かや》に通じ、伽羅《から》と同じです。  ところで、吉備氏が新羅《しらぎ》系であることは『日本書紀』も認めています。雄略《ゆうりやく》天皇の七年の条に、吉備の下道臣《しもつみちのおみ》の前津屋《さきつや》が、小女をもって天皇にたとえ、大女をもって自《みずか》らになぞらえて闘わせ、小女が勝ったのでこれを殺したという事件がありました。そのことを知った雄略天皇は、前津屋一族を討伐します。  一方、吉備上道臣田狭《きびのかみつみちのおみたさ》が、自分の妻の美しさを自慢したのを聞いた雄略天皇は、田狭《たさ》を自分の代理として任那《みまな》に使いに出し、その留守中に田狭の妻の稚媛《わかひめ》を横取りにしてしまいます。これを知った田狭は、新羅と内密に通じて帰国しなかったというのです。新羅と関係をもてる人物となると、吉備上道臣田狭はヒボコの子孫としてふさわしいといえないでしょうか」 「そういうこともあったのかい。それで、出雲で�国譲り�を強要したのは、ヒボコの子孫の吉備津彦だったのだが、出雲側の事情を考え、この出来事を神話に仕立て、建御雷神《たけみかずちのかみ》たちのしたことにしたというのだね」 「そうだと思います。ただ、その地名が伊耶佐《いざさ》の浜であることに注意したいと思います。ヒボコの神宝に膽狭浅太刀《いざさのたち》というのがありましたね。これこそ、まさしく、そのとき伊耶佐の浜に突き立てられた太刀《たち》だったというのが、わたくしの仮説の最後に提出する物証です」  そういう洋子の姿は、あたかも、『古事記』や『日本書紀』の編集者たちが犯した�史実|隠匿《いんとく》罪�を告発する鬼検事の論告を思わせるものがあった。研三は、胴震《どうぶる》いがするほどの感動を覚えた。出雲神話が、これほどまで根の深い出雲族の怨念《おんねん》や、圧倒的に迫力のある真実を説き明かそうというヒボコの子孫である一女性の執念とつながっていることを思うと空恐ろしくさえなった。  十七 長髄彦《ながすねひこ》の正体  神津恭介が思いもかけぬ交通事故で入院してから何日たっただろうか。研三の毎日は、日本古代史の秘密を探《さぐ》り、謎《なぞ》が解明される喜びと興奮のくり返しだったため、その間の正確な日数さえわからなくなっていた。  恭介の回復は意外に早かったし、年齢を超越した記憶力の良さと洞察力の鮮やかさを見せてくれたので、見舞いに来たはずの研三のほうが、かえって「しっかりしろよ」と激励される有様だった。  そのうえ、資料集めや専門的な歴史学の知識の解説のためくらいの軽い気持ちで頼んだつもりの三宅洋子が、若さからほとばしる閃《ひらめ》きと純理論的な考証によって、問題解決の糸口をつぎつぎと見つけてくれたことは予想外の幸運だった。研三の娘の綾子など、足もとにも及びつかない。 「これで小説は書ける。日本古代史の原像は完全に修復できた」  研三は、こう思った。そこで、最初から、頭の中で筋を追ってみることにした。朝鮮《ちようせん》半島から、天《あま》つ神《かみ》を奉ずる人たちが倭人《わじん》集団の統率者として北九州に乗りこんでくる。そして、物部《もののべ》氏を中心とする集団が大和《やまと》に連合王国をつくる。北九州では、狗奴《くな》国を称する熊襲《くまそ》の圧迫を受け、甘木《あまぎ》付近にいた天つ神の一団は日田《ひた》を経て豊《とよ》の国に移り、三世紀のころ邪馬台国《やまたいこく》として魏使《ぎし》の到来を受ける。一方、朝鮮から渡来した天《あめ》の日矛《ひぼこ》の一族は、関門《かんもん》海峡の西に伊都《いと》国を建てて東進し、但馬《たじま》の出石《いずし》に王国をつくり、近畿地方北部に勢力をひろげる。  邪馬台国では、狗奴《くな》国との緊張を避けようとする一派が、卑弥呼《ひみこ》の死を契機に脱出し、大和王朝に合流する。これが崇神《すじん》天皇と熊襲の同族の大伴《おおとも》氏だ。この崇神王朝は、ヒボコ系の吉備《きび》国の力で独立王国の出雲を支配下に置く。  四世紀の初め、景行《けいこう》天皇は狗奴国の残存勢力を討つため九州を巡回し、耳納《みのう》の地で朝鮮系の美女の八坂入姫《やさかいりひめ》との間に五百木入日子《いほきいりひこ》をもうける。その二代後、仲哀《ちゆうあい》天皇と神功《じんぐう》皇后は筑紫《つくし》に出陣し、天皇は現地で亡くなるが、神功皇后は朝鮮に渡る。帰国後、九州で応神《おうじん》天皇を産むが、大和への帰還をためらっているとき、五百木入日子の子の誉田真若《ほむたまわか》が後楯《うしろだて》となってくれる。真若は宇佐《うさ》女王との間に生まれた三人の娘を応神天皇の后妃《こうひ》とし、外戚《がいせき》的な立場から河内《かわち》王朝をもり立てていく——。  これが、恭介が組み立ててくれた古代日本史の復元図だった。研三は、この日本史像の骨組みを支えているいくつかの仮説について、一つ一つその根拠を確認していった。崇神天皇の邪馬台国脱出行は、研三の小説家的な着想によるもので、多少の不安は残るが、大筋としては自信がある。  満足げに、これまでの推理の過程を復習していた研三は、ふと、最後の詰めが終わっていないことに気がついた。そして、いささかうろたえた。 「忘れていた! 長髄彦《ながすねひこ》と安日彦《あびひこ》の正体をはっきりさせることを——」  神功皇后の九州からの帰還を阻止《そし》しようとしたという香坂《かごさか》王と忍熊《おしくま》王は、二十一歳で死んだ仲哀天皇の子のはずはない。神武東征《じんむとうせい》というのは、応神東遷《おうじんとうせん》のことであるという証明のほうはいいが、それを妨害して殺された忍熊王こと長髄彦と、赤い猪《いのしし》に食われたとして記録上始末された香坂王こと安日彦とは、いったい何者なのだろうか? それが解明されないことには、いままでの苦労は、それこそ画竜点睛《がりようてんせい》を欠くことになってしまう。  そこで、研三は、洋子に電話をかけ、恭介の所へ行こうと呼びかけた。 「そうでしたね。明日は、久しぶりに郷里に帰り、父に今度のことを報告しようと思っておりましたが、かまいません。一日だけ延期します。ごいっしょしましょう」 「そうですか。せっかくの帰省を妨害したりして、でも、あなただって、気になるでしょう」 「はい。わたくしも、まだ、なにか言い忘れたことや、たしかめそこなっていることもあるような気もしますし、神津先生に、いろいろ教えていただいたお礼も申さねばなりませんから——」 「なんだい。忘れ物を取りに来たっていうような顔をしているじゃないか。僕は元気だよ。君たちとの仕事が終わったので、また、退屈病が始まりかけたところだ。何か面白い問題でも持って来てくれたのかい」 「そうですって言いたいところですが、例の件です。長髄彦《ながすねひこ》と安日彦《あびひこ》の正体がまだ不明のままでした。それを解決してくださいよ」 「そうだったね。まあ、坐《すわ》りなさいよ。いつも人にばかり考えさせているから、今日は、君たちでやってごらん」 「そういわれても困りますよ。なんの手懸《てがか》りもありませんもの」 「そうかなあ。じゃ、きくけれど、長髄彦の名前から、どういうことを連想するかい」 「長い髄《すね》というのだから、脚《あし》が長かったのでしょう。つまり、身長二メートル近い大男だったとか答えればいいのですか」 「うん。そういう解釈もあるかもしれないね。しかし、それは、神武東征に出てくる土蜘蛛《つちぐも》の八握脛《やつかはぎ》あたりのことをいうのならいいが、この場合は、ちょっとねえ——。どう、洋子さんの考えは」 「名前からのイメージといわれても困りますが、�ナガ�は、川の名によくある那珂《なか》で、�ス�は川の洲、�ネ�は�泥�という字をよく�ネ�と読ませますから、那珂川とか中川という川の傍《そば》に住んでいた男、というのはどうでしょうか」 「なるほどね。だけど、そういう川で、どこか長髄彦の出身地の候補地になりそうなのを知っているかい」 「いいえ。茨城県の那珂川では見当はずれですし、徳島県にも那賀《なか》川というのがありましたが——。いけませんね」  研三が口をはさんだ。 「福岡市に那珂川という川があります」 「うん。それは有力な候補地かもしれないね。博多には祇園《ぎおん》の山笠祭りもあるし、これは意外といけるかもしれないね。それはそうとして、洋子さん。あなたが僕に教えてくれたことの中に、もっと面白いヒントがあったよ」 「えーっ。いつのことですか」 「最初のころさ。宇佐《うさ》神宮の話のとき、大神《おおが》氏について説明してくれたじゃないか」 「思い出しました。�ナガ�というのは蛇のことで、豊後《ぶんご》地方では、�トビ�というのも蛇のことでした。長髄彦の居住地は大和の登美《とみ》ですから、二重に蛇を意味しているわけですね。つまり、竜蛇神を祭る一族だということですね」 「それごらん。僕は、特別に独創的なわけじゃないよ。みんな君たちが教えてくれたことを、ただ整理しているだけだ」 「でも、それだけでは、なにもわかったことにはならないと思うのですが」 「そんなことはないだろう。大和地方で蛇といえば、なにを連想するかい」 「三輪《みわ》山ですね。大物主神《おおものぬしのかみ》の姿は蛇だったということですから」 「�ミワ�の�ミ�は�巳《み》�で十二支の蛇であり、蛇がとぐろを巻くと�ワ�になるなんていうと駄《だ》洒落《じやれ》になってしまう。ところで、大物主神というのは、なんの神だったっけね」 「このまえの話では、物部《もののべ》氏の神ということでした。だとすると、長髄彦は、やはり物部氏の一人だったのですね」 「やはりといったね。なぜ、やはりなのさ」 「はい。長髄彦《ながすねひこ》の妹の登美夜毘売《とみやひめ》、『書紀』では三炊屋媛《みかしやひめ》が、物部氏の始祖の饒速日命《にぎはやひのみこと》の妻になっていますから——」 「それで決まりじゃないか。長髄彦は物部氏の協力を得られる一族に違いないよ。ただし、物部氏やその同族の系図を、いくら探しても、それらしい人物は見つからないだろうね。逆賊にされた人物がいたとすれば、当然、系図から除くからね。直観的には、物部氏の娘を妻にした皇子の一人だろうね」 「では、安日彦《あびひこ》のほうはどうですか」 「まあ、そう急ぎなさるなよ。そのまえに、はたして、物部氏とつながる一族が叛逆《はんぎやく》者となったとしてだね、その兄なる人物が東北地方に脱出して行き、無事に逃げおおせたかどうか。つまり、東北地方に至る経路上や、東北地方のどこかに、物部氏を迎え入れる所——いわば物部系一族の地盤のようなものはないかしら」  その問いにたいし、洋子は嬉《うれ》しそうな声をあげた。 「あります。いくらもあります。前に引用した『旧事紀《くじき》』の『国造本紀《こくぞうほんぎ》』の美濃《みの》(岐阜県南半)、三河《みかわ》(愛知県東半)、遠江《とおとうみ》・駿河《するが》・伊豆《いず》(静岡県)の国造《くにのみやつこ》は、すべて物部氏の人物でした。それだけではありません。『常陸国風土記《ひたちのくにふどき》』にも、普都《ふつ》の大神が各地を巡行したという話が出ていました。普都《ふつ》の神は、物部氏の神です。石上《いそのかみ》神宮の祭神は経津主神《ふつぬしのかみ》です」 「そうだろう。あなたは知っていることを思い出さなかっただけなんだよ。ところで、松下君。神武《じんむ》天皇が近畿地方に上陸したとき、最初に戦った場所はどこだったっけ」 「生駒《いこま》山の麓《ふもと》の日下《くさか》(草香)の地です。ここは物部氏や長髄彦の本拠地だったと考えられます」 「それで、何か思い出すというか、連想することはないかしら」  研三は、しばらくのあいだ、いろいろのことを思い浮かべ、何とか答えを出そうと苦慮したが、なかなか適当なものは浮かんでこない。 「松下君は、『東日流外三郡誌《つがるそとさんぐんし》』のことを書いた本を読んだ、といっていたね。その中には系図のようなものはのっていなかったかい」  恭介のこのヒントによって、研三の頭には突然、藤崎氏系図がひらめいた。藤崎氏というのは安倍氏の同族だ。その系図の注の中に、�日下《くさか》将軍�という文字があったことを思い出したのだった。しかも、�応神《おうじん》天皇……日下将軍�というふうに書いてあった。  研三が、そのことを告げると、恭介はいった。 「松下君、君も洋子さんと同じだよ。いろいろの知識は頭に入っているのに、必要なときに引き出せないだけだ。いや、これはたいへん失礼なことをいってしまった。許してくれ」 「いいですよ。ほんとうなのだから。おかげで、もっとすごいことを思い出しました」 「なんだい。それは」 「それは�日本中央の碑�です。昭和二十四年に、青森県の小《お》川原《がわら》湖の近くの東北町で掘り出された大きな石碑です。そこには�日本の中央�という文字が彫《ほ》られているのです」 「ほう。それは面白いね。�日本の北端�ならわかるけれど。いったい、そんなものをいつ、誰《だれ》がつくったのだ」 「平安時代の歌集にこの石碑のことが出ていて、明治時代にも発掘作業が行われたのに見つからなかったというものです。その書物には、�坂上田村麻呂《さかのうえたむらまろ》が建てた�と記していますが、じつは、そうではなく、生駒山の麓の日下《くさか》の地を愛する人たちが東北に逃れ、そこで故郷を偲《しの》んで建てたのだと論じている人もいるそうです」 「日下《くさか》が物部《もののべ》氏の本拠地だったのだから、その石碑を建てたのは、東北に逃れた物部氏系統の一派の誰かだ、と考えるべきところだろうね」 「では、安日彦《あびひこ》のほうをお願いします」 「安日彦は長髄彦《ながすねひこ》の兄だというのがほんとうなら、やはり物部氏系の一員だといって片づくわけだが、義兄弟的なものだったとも考えられるから、一応、検討してみようよ。松下君、どうだい、アビという言葉から何を連想する?」 「瀬戸内海に冬やってくる水鳥を思い出しますね。潜水が上手《じようず》で、むかしは�かずくとり�といったらしいですが、魚を捕《と》るために群れる様子は壮観です。もう一つ、アイヌ語で、火のことをアペというとか聞いたことがあります」 「では、日本の地名で、アベという所はないだろうか」 「ありますよ。静岡市のそばの安倍川。それから、大阪の阿倍野」  それにたいして、洋子が説明役を買って出た。 「さきほど、静岡方面の国造《くにのみやつこ》は、すべて物部氏系だといいましたが、正確には、静岡市付近の廬原《いおはら》だけはそうではなく、吉備武彦命《きびたけひこのみこと》の子の意加部彦命《いかべひこのみこと》とされています。『万葉集《まんようしゆう》』の巻三にも、春日蔵首老《かすがのくらおびとおゆ》の歌(二八四歌)があります。   焼津辺《やきづへ》に わが行きしかば 駿河《するが》なる   阿倍《あべ》の市道《いちじ》に 逢《あ》ひし児《こ》らはも という歌です。つまり、静岡には阿倍氏がいたのです」 「なるほどね。阿倍野のほうはどうだい」 「たぶん、阿倍氏の本拠地でしょう。この阿倍氏というのは、大和《やまと》朝廷で大臣《おおおみ》にまでなった子孫をもつ阿倍氏のことです。  大和の十市《といち》郡にも安倍《あべ》村がありますが、これも同じく、阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》の系統です。その一方、東日流《つがる》に脱出したと思われる安倍氏——長髄彦の兄の安日彦につながりそうな話としては、たしか、『新撰姓氏録』によると、阿倍氏の同族に日下連《くさかのむらじ》がいたと思います。日下といえば物部氏系です。阿倍氏は物部系と親しかったと考えていいでしょう」 「どうだろう。香坂《かごさか》王や忍熊《おしくま》王と結びつきそうな話はそのほかにないかしら」 「そういわれて思い出したのですが、奈良市に押熊《おしくま》という地名があって、そこには忍熊王の墓と称するものがあります。しかし、それは疑問だと思います。それより、この二人の皇子の叛乱《はんらん》を助けたとされる人物の名が気になります。その中に、吉師《きし》氏の先祖の五十狭茅宿禰《いさちのすくね》という人物がいることです。この吉師氏が日下《くさか》と関係があるということの説明は省略しますが、それよりも、五十狭茅《いさち》という名が何となく、去来紗《いざさ》に似ており、もしかするとヒボコ系ではないかと思うのです。吉師氏の本拠地は阿倍野のすぐ近くですから、阿倍氏ともつながりますし、吉師氏の分流は、いまの吹田《すいた》市の付近にも住んでいます。そして、そのすぐ近所に三宅連《みやけのむらじ》もいたのです」 「洋子さんのいいたいことは、物部氏も、ヒボコも、吉師も、みな、�イササ�と関係があり、吉師《きし》が香坂王・忍熊王の支持者だったから、安日彦はヒボコ系かもしれないということだね」 「はい。はっきりいえば、そういうことになります。そういう疑いもあるというだけのことですが」 「まあ、いいだろう。君たちの知識だけでわかったことは、物部《もののべ》氏も阿倍《あべ》氏も、東海道から東北方面に縁故があったということだ。つまり、神功《じんぐう》皇后が九州から生まれたばかりの皇子を連れて帰って来るというのにたいし、この二氏は、それぞれ、賛成派と反対派に分かれた。一方は、応神《おうじん》天皇を支持し、他方は別の皇子を立てようとした。そして、内戦になり、敗れたほうは東北方面に脱走した。こういう筋書きになるね。それから、二派に分かれたのは大伴氏系の場合も同じことだね。武振熊は神功皇后派だが、忍熊王側には、熊之凝《くまのこり》というのがついている」 「ヒボコ系はどうだったのでしょうか」 「応神天皇の幼名は、去来紗別《いざさわけ》だから、当然、ヒボコ系の本流は応神天皇支持派だったはずだと思うよ。しかし、吉師氏がヒボコ系だとすると、あるいはヒボコ系にも内部分裂はあったかもしれない。いずれにしても、同族が二つに割れれば、残留した主流派は、脱走した一派を逆賊扱いするのは自然だろうね」  研三は、たまりかねて恭介の真意をただした。 「肝心の安倍氏のことはどうなのですか」 「安日彦《あびひこ》というのは、分裂したほうの安倍氏の先祖だろう。恐らく、安日彦はアベ氏の娘を妻とした皇子の一人だろう。東北に落ち延びた子孫たちは、安日彦を、あえて長髄彦《ながすねひこ》の兄と称し、自分たちは不当な烙印《らくいん》を捺《お》されているということを強調したかったのだろう。自分の先祖を追放したのは応神天皇支持派であることは承知しているものの、『日本書紀』が、この事件を、遠いむかしのこととして、神武東征談なるものをつくってくれたことをいいことにし、長髄彦というニック・ネームを利用したに過ぎないと思うよ」 「では、大和に残った阿倍氏は、なぜ、武渟河別《たけぬなかわわけ》の子孫を称したのでしょうか」 「それは、同族が東北で叛逆《はんぎやく》者となっており、同じ安倍を名乗っているから、自らは阿倍と書き、先祖も、東国を平定した将軍の子孫ということにしたのだろうね」 「ヒボコ系はどうでしょうか」 「あなたの先祖のことだから、自由に考えればいいじゃないか。やはり、分裂があったとしてもいいけれど、東北には根拠地はないのじゃないかい」 「そうですね。ヒボコの子孫は、三宅氏と糸井氏だけですし。糸井は、たぶん、伊都《いと》国と関係がありますから、ヒボコ系が落ちのびるとすれば、その方面でしょうか」  ここで一息つくと、恭介は二人にたいして、こんなことをいった。 「僕らの研究の出発点は、地名の大|遷移《せんい》だったね。ところが、こういう事実をどう思うかい。九州では、例の�耳納《みのう》�の隣に�日田《ひた》�がある。本州でも、�美濃《みの》�と�飛騨《ひだ》�は並んでいて、どちらも岐阜県だ。  これ以外にも、九州各地には、いくつでも�国名�があるよ。国東《くにさき》半島には安芸《あき》もあるし、武蔵《むさし》もある。熊本県の菊池郡の合志《こうし》を河内《かわち》と見るのはコジつけかな」  この恭介の指摘にたいし、洋子は、反論というのではないが、疑問を提出した。 「先生、その反対もあるのではないでしょうか。本州の国名の中には、『魏志《ぎし》』に出てくる傍国の名とそっくりのものが数多くあると思います。大和《やまと》が邪馬台国《やまたいこく》であるという説はありますが、その周辺だけでも、伊賀《いが》・伊勢《いせ》・志摩《しま》(三重)は為吾《いご》・為邪《いざ》・伊都《いと》・斯馬《しま》、紀伊《きい》(和歌山)は鬼《き》もしくは支惟《きい》、播磨《はりま》(兵庫)は巴利《はり》、河内《かわち》は凡河内《おおしこうち》ともいいますから好古都《こうこつ》、それに、さっき出てきた美濃《みの》(岐阜)は弥奴《みぬ》とよく似た名です。そのほか、信濃《しなの》(長野)と姐奴《しやぬ》、甲斐《かい》と呼邑《こう》、越《こし》(新潟—福井)と郡支《くし》、土佐《とさ》(高知)と対蘇《つそ》、それに、問題になった已百支《いほき》とよく似た国名に石城《いわき》(磐城=福島)があります。このことは、どう考えたらいいのでしょうか」 「邪馬台国=大和説論者が喜びそうな話じゃないか。そのことは全然、問題にはならないよ。本州の国名は九州勢力が大和に腰をすえてからのちに、周辺の国につけた名前だよ。その際、全然、新しいネーミングを考え出すよりか、かすかに記憶している九州邪馬台国連合の傍国の名を、つぎつぎと割りふっていったのは、当然すぎるくらい当然なことだよ。美濃に割りふった国の九州での名は水縄《みのう》とか耳納と現在では書いているが、そこが弥奴《みぬ》国だったと考えればいいさ。日田は傍国名にはないが、久住山・九重山の久士布流多気《くしふるたけ》の二上峯《ふたかみのみね》を遠望する日向《ひむか》=卑弥呼《ひみこ》の聖地だったので、その名を岐阜の山岳地帯に飛騨《ひだ》という名で割り振ったということさ」  じつに、首尾一貫した解明だ、と研三は思った。これで、邪馬台国=大和説論者が頼りとする有力な論拠は消滅したわけだ。 「でも、どうでしょうか。宇佐《うさ》にあった国が邪馬台国とよばれていたのは、どういう理由からでしょうか。筑後《ちくご》や肥後《ひご》の山門《やまと》という地名の場所が邪馬台国だったという人もいますが」 「それは、何とでもいえるさ。宇佐の近所にもヤマタイに近い名の土地も探せばあるだろうよ。それよりも、末盧《まつろ》が松浦《まつら》で、伊都《いと》が糸《いと》島、奴《な》が那《な》で博多《はかた》付近という地名の類似だって偶然とは限らないと思うよ。三世紀の末盧・伊都・奴国は僕らが比定したとおりだが、それ以後、争乱などの事情によって国が移動をしたり分国ができたりして、四世紀以後には、諸家が比定する場所に、これらの国が遷《うつ》っていたかもしれないだろう」  研三は、その点について、もう一つ、ダメを押した。 「しかし、いまだに多くの人たちは博多付近を奴国だと信じています。宇佐付近は、金属器の出土品では博多付近よりぐっと少ないという事実があります。このことをどう考えたらいいでしょうね」 「別段どうということはないのじゃないかな。魏使《ぎし》が来た三世紀というのは、弥生《やよい》末期だよね。それ以前の時期に九州の玄関口である福岡市周辺に、いくら当時として進んだ文化の遺跡があったとしても、不思議でもないし、僕らの仮説と矛盾するものではないさ。問題なのは、『魏志《ぎし》』が伝える邪馬台国《やまたいこく》が宇佐《うさ》にあったか否かだよ。宇佐に卑弥呼《ひみこ》がいたということは、別にそこが北九州|随一《ずいいち》の人口密度の高い地域であることを意味してはいないし、経済的な生産力が特に高かった場所である必要もないよ。たしかに『魏志』には、邪馬台国は七万戸を有したとあり、奴《な》国の二万戸や投馬《とま》国の五万戸よりはるかに多い。宇佐周辺だけでは七万戸は養えないという見方もあるだろう。  しかし、僕らが比定したのは、三世紀前半の女王の宮殿のあった場所であって、邪馬台国の範囲は限定していないよ。それこそ、日田をふくめてもいいし、国東《くにさき》半島や別府《べつぷ》湾沿岸にかけても邪馬台国の範囲内だったかもしれない。そういう考古学的あるいは経済地理的な批判は素直に受け入れ、より完璧《かんぺき》な形で僕らの説が誰からもとやかく言われないくらい完璧に成り立つように、松下君がこれから補強してくれればいいのじゃないか。僕は、筋書についてのヒントというか、推理を方向づけただけだと思っているよ」  研三としても、これ以上の責任を恭介に負わせることはできない。考えてみても、日本古代史の完全復元などという大それたことを一小説家が完成してみせるなどということは所詮《しよせん》、夢にすぎない。 「そうでしたね。僕らがここ一か月近く、一生懸命に取り組んだのは、知的好奇心というか、あるいは、民族的ロマンティシズムというか、一つの衝動によるものだったと、つくづく思います。古代史というのは、文献だけに支えられるものではないのですから、それこそ、考古学はもちろんのこと、動植物学や気候学、暦学、民俗学、言語学などなど、あらゆる学問の成果を総合して、そのうえに築かれるべきものですね」 「そうだよ。僕の専門の法医学などは、学際的基盤のうえに乗っかっている学問の典型といえるだろうね。医学部に属しているが、解剖学や生理学だけではない。隣接の薬学や有機化学はいうまでもなく、天文学などさえ役にたつ。それこそ、あらゆる自然科学の成果を総合しなければ最初から成り立たない学問分野だ。それだけに、狭い視野で物を考えることは禁物だし、他の学問の成果は遠慮なく拝借してくる。そのうえ、法医学は犯罪捜査とも関係してくるから、捜査官からいろいろな注文がついてくる。自殺か、殺人か、事故死かというような重大な判定をしてほしいといわれる。それがいちばん困ることなのだ。  僕は、歴史学のことは知らないが、おそらくは、法医学とまったく正反対の研究方法をとっているのではないか、という気がしないでもないよ。洋子さん、その点はどうなのかい」 「わたくしには、とても史学界を代表してお答えする資格などございません。と申しますより、わたくし自身をふくめて、専門分野以外のことについて発言するときは、できるだけ慎重な態度をとるように習慣づけられております。学際的どころか、それぞれの分野には先輩のかたがたがつくり上げた無言の約束事がいっぱいあって、そのルールから離れる自由はほとんどないといいたくなります。  もちろん、自分の専門と関係のある文献とか、他の学者や思想家その他のかたがたの発言について、いつも聴《き》き耳は立てておりますし、おおいに参考にさせていただいております。考古学者のお説も、つねに自分の理論の補強に役立てようとしてはおります。しかし、概して、朝鮮語を勉強して日本古代史の研究を深めようとか、民俗学者の論文を利用して自分の学説に磨《みが》きをかけようとかいうように心がけておられるかたは、じつを申しますと、けっして多くはない、といってよいと存じます」 「松下君、僕らは、いわば趣味で推理をしたわけだよ。学界にチャレンジしているわけではないし、僕らの導き出した古代日本史像を叩《たた》き台《だい》にして、より真実に近いものをつくり上げてほしい、などと思い上がって身がまえる必要などさらさらない、といいたいのだ」 「神津さん、あなたの推理力は年とともに冴《さ》えてきた、と僕はそう思いますよ。とはいうものの、たいへんでしたね。『成吉思汗《ジンギスカン》の秘密』や『邪馬台国《やまたいこく》の秘密』と違って、今度のテーマは大き過ぎました。それだけに、これからあとがたいへんです。これからも、助けてくださいよ。神津さんには�趣味�であっても、僕には�飯《めし》の種《たね》�なのですから」 「そうだったね。小説を書くといっていたね。もう筋書きはできているのかい」 「いいえ、これからです。なにしろ、『古事記』などお目にかかったこともない、中学生くらいの新人類といわれている人たちが読んでもわかる日本古代史というのが注文ですから大仕事です。構想ができて、筆をとり始めてからも、いろいろと疑問も出てくることでしょうから、そういうときには、また、お知恵を借りにきますので、よろしくお願いします」 「いいよ、僕も、君のおかげで多少は歴史の知識もできたし、面白さもわかってきたような気がする。いつでも、遠慮なくやって来たまえ。洋子さんといっしょにね」  自分の名前を出されて、洋子も嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》み、病床の恭介に向かってふかぶかと頭をさげた。 参考文献 古事記 日本書紀・続日本紀・日本後紀 風土記 新撰姓氏録 旧事紀(天神本紀・国造本紀) 魏志(東夷伝) 隋書 三国史記 三国遺事 万葉集 太平記 日本歴史大辞典 河出書房新社 大日本分県地図・地名総覧 国際地学協会 大日本地名辞書 冨山房 吉田東伍 姓氏家系大辞典 角川書店 太田亮 日本歴史大系㈵(古代)山川出版社 日本古代国家の研究 岩波書店 井上光貞 日本古代の氏族と天皇 塙書房 直木孝次郎 騎馬民族国家 中央公論社 江上波夫 藤原仲麻呂 吉川弘文館 岸俊男 奈良朝政争史 教育社 中川収 日本の古代(1・2・3)中央公論社 国史研究年表 岩波書店 黒板勝美 日本古代の国家形成 講談社 水野佑 日本古代史論集 学習院大学 黛弘道 母系制の研究 講談社 高群逸枝 宇佐宮 吉川弘文堂 中野幡能 宇佐神宮の原像 新人物往来社 三木彊 熊曾と隼人 教育社 井上辰雄 出雲の古代史 日本放送出版協会 門脇禎二 八坂神社 学生社 高原美忠 青銅の神の足跡 集英社 谷川健一 白鳥伝説 集英社 谷川健一 天之日矛帰化年代攷 平凡社 三品彰英 邪馬台国の東遷 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